宮崎神青ブログ - 最新エントリー
実家神社の夏祭奉仕を終えた翌日の平成25年7月22日、
「おんぎゃあ、おんぎゃあ」
男!、男!!、男!!!。
三男坊を授かった。
当たり前のことだが、子供の誕生は何度経験しても非常に嬉しいものだ。
長男、次男も大喜び。
お陰様で3人とも元気に育ち、以前にもまして、ぎゃーぎゃー、わーわーと、
大変賑やかな日々を過ごしている。
子供の出生後に行う神事が初宮詣。
意味は言うまでもなく、初めてお宮に詣ること。
神様に出生を感謝し健やかな成長を祈るもので、地方によって多少の差異はあるが、
生後約30日を目安に行うのが慣わしであり、我が家は8月下旬を予定していた。
ところが8月13日、嫁から電話。
「三男坊が救急車で運ばれた」
「は・・・?」
前日から母乳をあまり口にせず、体調が少し悪そうだというのは聞いていたが、
突然のことに我が耳を疑った。
嫁は実家に帰省中であった。
顔が青白くなり、ぐったりしている三男坊を最寄りの病院まで
嫁の母親が「この子は絶対に死なせない」と強く思い、運転。
その後、最寄りの病院から大きな病院への搬送となったそうだ。
慌てて病院へと駆けつけると、救急車はまだ到着していなかった。
救急車が着くであろう場所で待機していると、医師や看護士が5,6名ほど出てきた。
余りに大勢出てこられると、そんなに危ないのかと逆に心配になった。
10分ほど待つと、遠くから「ピーポー、ピーポー」
救急車から小さな小さな息子が医師に抱えられ、処置室へと入っていった。
数分後。
「とりあえずは安心な状態になりました」
「しかし様子を見て、自分で呼吸できなければ人工呼吸器を付けます」
数十分後。
「自呼吸が弱いようですので人工呼吸器を付けます。よろしいですか?」
よろしいも何も一刻も早く付けてあげてくれ。
後の説明によるとウィルス性の感染症で、痰が喉に詰まり呼吸不全となっていたそうで、
入院を余儀なくされたが、何はともあれ幸いにも一命を取り留めることができた。
今年の2月に他界した大阪の祖母が、三途の川の向こう岸より
「まだまだこっちに来たらあかんでぇ~。」
「お父さんお母さんの所に帰りや~。」
この世で出会うことが叶わなかった曾孫を、必死に追い返してくれたのではないか。
私はそう信じている。
ばあちゃん。ほんまおおきに。
入院後は毎日検査であったが、色々な数値も日々正常になり、約一週間ほどで
無事に退院できた。
昼夜を問わずお世話していただいた担当の医師、看護士の方々に、ただただ
心から感謝するばかりです。本当にありがとうございました。
あれから約2ヶ月・・・
先日、ようやく初宮詣をすることができた。
11月ということで、長男5歳、次男3歳の七五三詣も一緒に。
祝詞で読み上げられる3人の息子の名前を聞いて鳥肌がたった。
どこかで何の心配もなく、普通に健康に育つものだと慢心していた。
今回のような経験はあまりしたくないものだが、私の今後の神職としての人生に
大きな影響を与える出来事であることは間違いない。
人生の節目に行う人生儀礼のお祭り。
イベントではない、大切なことであること、意味も分かっている。
しかし医療をはじめ様々な技術が発達した今日においては、お祭り対する
感謝の思いが薄れているのではないかと思うことがある。
その本質を伝えることは、神職の大切な役目であることを改めて認識した。
神様、ご先祖様に今の自分があることに感謝し、何よりも健康に息子3人が若竹の如く、
すくすくと成長すること願うばかりである。
でも、少しはお父さんお母さんの言うこともちゃんと聞いてね・・・
(36歳男3兄弟しゃちんぼ)
去る10月22日午前10時30分より当会御神田抜穂祭を斎行しました。
6月24日に植えた稲がスクスクと育ち、本年も目出度くこの日を迎えられました。
辺り一面に黄金色に輝く稲穂
ちなみにこの写真は当会の御神田ではありません(笑)
早乙女?のみなさま
御田植祭は土砂降りでしたが、この日は清々しい秋晴れとなりました。
なぜこんなに嬉しそうなのか???雨男返上ですね!
田主の中之丸新郎様をはじめ、今回担当していただきました都城ブロック会の皆様、
関係各位に厚く御礼申し上げます。
収穫したお米は、11月23日の新嘗祭に間に合うよう、県内654のお社へ奉納させて
いただきます。(新嘗祭についてはこちら)
宮崎市内の神社へは、明日早速お届けに参ります!
来年は県北ブロック会担当で開催予定です。
もし携わる機会のある方は、お手数ですが是非宜しくお願い致します<(_ _)>
当日の写真はこちら
先のお知らせの通り10月26日、27日に宮崎神宮御神幸祭(神武さま)が斎行されます。
両日とも交通規制が行われますので、ご注意下さい。(交通規制図はこちら→PDFファイル)
また夕刻17時45分からは、高千穂通りを「神武さま広場」として、様々な催し物があります。
是非お誘い合わせの上お越し下さい。
県内神社の神楽等のお知らせ
田上八幡宮(日南市)弥五郎様
神亀元年(七二四)隼人の乱にて亡くなった隼人族の霊を慰めるため放生会が行われました。その名残の一つが、田ノ上八幡神社で行われている「弥五郎様」の祭事です。
伝説によると弥五郎様の御神体を背負い、現在の田ノ上八幡神社にお祀りしたと伝えられております。また例大祭では弥五郎様を曳く御神幸が盛大に執り行われ、弥五郎様の股を年の数だけ潜ると無病息災の御神徳を受けられると伝えられております。
奈古神社 春神楽(奈古神社についてはこちら) 18:00~大同生命前ステージ
春神楽は、昔からその年の豊作と人々の幸福と家内安全を祈願して、自然の芽生える春に奉納されてきました。奈古神社の古い伝統を守りながら、無形文化財を継承し、その事から、引いては青少年の健全な活動と育成にも役立ち、和やかさと活力みなぎるふるさとづくりに寄与することを目指していきます。
野島神社 野島神楽(野島神社についてはこちら) 20:00~ 大同生命前ステージ
浦島太郎の伝説が残る野島神社に伝わる野島神楽は500年の伝統を誇り、伊勢神楽の系統で「降臨の舞」と「里舞」とで成り立ちます。古くより加江田神社と共演していましたが、寛文二年の外所地震以降、野島に残し舞い継がれ、33番のうち22番程伝承しています。
船引神社 船引神楽(船引神社についてはこちら) 20:20~ 大同生命前ステージ
船引神楽は江戸時代中期には既に独立した船引神楽として定着したと伝えられていて、古来、春分の日に五穀豊穣と子孫繁栄を祈願して、船引神社の境内に於いて奉納されます。船引神楽は里神楽であり、日中に舞われ、一番太鼓や笛の調子が違うのが特徴です。
ウルマとは沖縄の方言で珊瑚礁のことである。
北緯24度3分33秒 東経123度46分57秒
沖縄県の石垣島より南へ船で約1時間の所に、日本最南端の有人島「波照間島」がある。
去る平成25年10月10日、
神道青年全国協議会(以下神青協)創立65周年奉告祭が波照間島にて斎行された。
神青協では、昭和33年より沖縄県の本土復帰運動に取り組み、昭和47年には復帰記念として
全国の名石を持ち寄り、波照間島に波照間の碑、国旗掲揚塔、聖寿奉祝の碑の建立、
更に周年毎には奉告祭を斎行している。
前日に宮崎空港から那覇空港を経由し、石垣島へと降り立った。
宮崎→那覇便はソラシドエア。
機内の飲料で依頼したスープのダシが、隣に座った飛行機マニアの当会相談役のうんちくによると、
なんと「トビウオ」らしく、これがなんとも美味。
搭乗された方は是非一度飲んでいただきたい。
さて、当日。
午前8時半の船で石垣港離島ターミナルから波照間島へ。意外と乗客が多い・・・
到着後、祭場へバスにて移動し、慌ただしく準備となった。
午前11時。全国より約50名の会員が集い祭典が開始され、私は伶人(龍笛)として
奉仕させていただいた。
この日は季節は秋といっても全国的に暑かったようで、この島も勿論非常に暑かった・・・
当然と言えば当然、残念と言えば残念ながら祭典中の写真撮影は禁止ということで、祭典の
写真は一枚もないが、厳粛裡に斎行された。
この島で祭典を奉仕できたことは、またとないであろう貴重な体験となり、また先輩諸賢が
培われてきた思いを感じ、益々今後の活動に邁進する思いを新にした。
その後は島内視察。
現在は277世帯、531の人が住んでおり、その景色は古き良き日本の風景がそのまま
残されているようであった。
学童慰霊碑にて、花束を捧げ会員一同拝礼。
のどかな島の景色を見ていると、戦場なった事が信じられなかった。
その後、夕刻の船で石垣島へ帰り、懇親会。
久しぶりに会う方、初めて会う方と交流を深め石垣島の夜は更けていった。
さて翌日。
かなり贅沢な昼食として石垣牛を食し、さとうきび畑が広がる大地をアクセルを踏んでは離し、またやたらポンピングブレーキの多いタクシーにイライラしながら揺られ、石垣空港へと向かった。
石垣空港14:45発、那覇空港15:40着。
那覇空港16:15発、宮崎空港17:35着。
乗り継ぎの待ち時間も少なく、完璧な予定。
しかし搭乗手続き中に、空港の方より思いもかけない言葉が。
「機材が遅れているために、宮崎行への飛行機に乗り継ぎはできません」
鹿児島空港行きの飛行機へ乗り換えを余儀なくされた。
旅の最後に、最近流行のあの言葉を初めて使うこととなった。
じぇじぇじぇ・・・
(甘ちゃん)
本年も七五三詣の季節が近づいてまいりました。
七五三詣は3歳の男女児、5歳の男児、7歳の女児のお祓いです。
各神社では、お子様のこれまでの無事なご成長を神様に感謝し、これからの健やかなるご成長を祈念する七五三詣祈願を受け付けております。
皆様お揃いで、どうぞお参り下さい。
※事前にお参りになる神社へお問い合わせ下さい。(県内の神社はこちら)
七五三詣の由来
昔は乳幼児も生存率が低く、子供が大人に成長するまでの幼児期は特に病気などの不慮の病によって亡くなることが多くありました。「七歳までの神のうち」という先人の言葉も残されているように、七歳までは神様からの授かり者であるとの意識が強くありました。故に成長の過程において、氏神さまに祈願し子供の無事成長することを祈念したのです。
・3歳男女 「髪置き(かみおき)」のお祝い
昔は三歳までは頭髪から病気が入ると信じられていたので、髪を伸ばさず剃り続けていました。よってこのお祝い以降に髪を伸ばす区切りとしました。
・5歳男児 「袴着(はかまぎ)」のお祝い
男の子が初めて袴を着るお祝いです。
・「帯解き(おびとき)」のお祝い 7歳女児
それまで紐で着ていた着物を、これ以降帯を締めるように替えました。
平成25年七五三詣早見表
7歳女児 | 5歳男児 | 3歳男女児 | |
満 | 平成18年生まれ | 平成20年生まれ | 平成22年生まれ |
数え | 平成19年生まれ | 平成21年生まれ | 平成23年生まれ |
※数え年で祈願するのが一般的ですが、満年齢で受けられても結構です。
宮崎神宮の御神幸祭(神武さま)が下記により斎行されます。
お繰り合わせの上、是非お越し下さい。
日時 1日目 平成25年10月26日(土)
13:30 宮崎神宮御発輦
15:30 瀬頭御旅所御着輦
2日目 平成25年10月27日(日)
13:00 瀬頭御旅所御発輦
15:00 宮崎神宮御還幸
○本年の御旅所は瀬頭です。
○1日目雨天にて中止の場合は、2日目に宮崎神宮と御旅所を往復致します。
○通過時間、交通規制等詳細につきましては、後日お知らせ致します。
○御神幸祭の歴史等につきましてはこちらをご覧下さい。
赤ちゃんの健康・成長を願って、赤ちゃん豊年土俵入りが下記により行われます。
お誘い合わせの上、是非ご参加下さい。
記
期日 平成25年11月3日(日)
場所 御年神社(北諸県郡三股町鎮座)
日程 11:00 受付開始
12:00 土俵入り開始
※詳細、参加申込は、こちら
ちょいと時期が遅れましたが、今日はお月さまのお話。
去る9月19日は中秋の名月でしたね。
中秋の名月とは旧暦の8月15日に見られる月。
本年の中秋の名月は、平成23年、24年に続き満月。
しかし毎年必ず満月というわけではなく、次に中秋の名月で満月が見られるのは
8年後になるそうです。
東京オリンピックの翌年。
私もその頃は4?歳です・・・
ところで、月の神様ってご存知ですか???
古来より日本人はありとあらゆるものに神さまが宿ると考えています。
月も例外ではありません。
月の神様は月讀命(つくよみのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、黄泉(よみ)の国より戻られて、罪と穢れを祓う為に
禊(みそぎ)をされました。
この際に多くの神様がお生まれになられましたが、禊の最後に
左目を洗われた際に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)
右目を洗われた際に、月讀命(つくよみのみこと)
鼻を洗われた際に、 須佐之男命(すさのをのみこと)
がお生まれになられ、
天照大御神は、高天の原(たかまのはら)
月讀命は、夜の食国(よるのおすくに)
須佐之男命は、海原(うなばら)
をお治めになるようにと、ご委任にされています。
天照大御神と月讀命。
つまりは太陽と月。
月の灯りは太陽の光があってのもの。
また人が生まれるのは満潮の時、亡くなるのは引き潮の時だと言われます。
月讀命と須佐之男命。
つまりは月と海原。
潮の満ち引きに関係するのは、月の満ち欠け。
もしかしたら、天照大御神の弟2人は、人の生死を司る神様なのかもしれませんね・・・
月と人との神秘的な繋がり。
今宵あなたは月を見上げて何を思われますか???
ワォ----ン!
(オオカミ男)
姉妹神青交流事業2日目!
やっぱり朝から雨・・・
天の逆鉾がある高千穂の峰登山は、残念ながら中止となりました。
そこで宮崎県内の神社巡りとなりました。
ちなみに当会ホームページの名称は、”宮巡(ぐうぐる)”
”お宮巡り”から由来しています。
さて当日は8:00に宮崎神宮集合!
前日は懇親会。若干寝坊された方がいらっしゃったのは想定内です・・・
まずは小戸神社参拝(小戸神社についてはこちら)
現在銅板を葺き替え中でした。
滅多に見れない貴重な機会ですので、足を運ばれてはいかがでしょうか???
なるほどなるほど。ここがこうなって、そこがそうなってるんだ~。
写真左の方は大工もされています。血が騒ぎますか???
続いては潮嶽神社へ(潮嶽神社についてはこちら)
突然のどしゃ降り・・・
昼食後は鵜戸神宮へ(鵜戸神宮についてこちら)
気持ち悪いぐらい同じ恰好してますね・・・
そして最後に青島神社を参拝させていただきました。(青島神社についてはこちら)
ここでもどしゃ降り・・・
あまりの雨に写真も撮れずにすみません<(_ _)>
各神社の宮司様をはじめ、職員の皆様、お忙しい中にもかかわりませず、ご厚遇にあずかり
誠にありがとうございました。
この後、温泉の予定でしたが時間の都合上中止となり、宮崎神宮にて解散となりました。
今回が2回目の交流事業となりましたが、会員の皆様いかがでしたか?
私個人としては新たな出会いもあり、非常に有意義な2日間となりました。
このような小さな積み重ねが、必ずや今後に繋がるものと考えております。
奈良県神青会の皆様におかれましても、大変お疲れ様でございました。
至らぬ点も多々あったこととは思いますが、ご勘弁下さい<(_ _)>
来年は奈良県で開催予定です!
みんなで行くでぇ~(^_^)/~
ほな!さいなら(^^)/~~~
2日間の写真はこちら
去る9月2~3日奈良県神道青年会との姉妹神青交流事業を開催致しました。
(姉妹神青についてはこちら)
昨年は宮崎県から奈良県へ、本年は奈良県様に宮崎にお越しいただきました!
先ずは宮崎神宮を正式参拝。
奈良県より4名の参加。うち3名は初めての宮崎だったようです。
続いては教養研修会。
○ 「八紘一宇の大御心を学ぶ」と題し宮崎神宮黒岩権宮司よりご講義いただきました。
○研修趣旨は以下の通りです。
神武天皇は、御年四十五歳で日向国を御進発になり、六年の歳月をかけて艱難辛苦
のすえ大和国に入られて、畝傍山の東南橿原の地に皇居を営み、即位の礼を行わせ
られた。明治の御代になり、この橿原宮址に神宮創建の誓願が民間有志から起こり、
明治天皇にはこれを深く嘉せられ、元京都御所の賢所と神嘉殿を本殿及び拝殿とし
て下賜され、明治二十三年四月二日に官幣大社橿原神宮が創建されたのである。
それから五十年後の昭和十五年、いわゆる紀元二千六百年には、国を挙げての奉祝
記念事業が行われ、延べ百二十一万余人の勤労奉仕により、現在の宮域が形成され
るに至った。この紀元二千六百年には、橿原神宮のみならず全国津々浦々にて奉祝
行事が執り行われた年でもあり、宮崎県に於いても宮崎市内の日向灘を望む高台に
一億同胞の援助をもって「八紘之基柱」が建立された。この御幣の形を模した塔の
正面には、神武肇国の理念である「八紘一宇」の文字が刻まれている。
今この国家存亡の時に建国の古を顧みれば、爾来二千六百七十三年にわたり、万世
一系にして、連綿と受け継がれている皇室の尊厳を護持し、平成の大御代の弥栄を
ひたすらに祈り、祭祀を通して八紘一宇の大御心を氏子崇敬者に教化していく事は
神道人としての使命である。
我々宮崎神青は神武降誕の聖地に集う青年会であることを誇りに、神武創業の地で
ある奈良神青との誼みを深め、「八紘を掩いて宇と為む」の真の意味を自覚し国を
愛する正しき心を養う為、本事業を開催するものとする。
続いて現地へ(八紘之基柱、八紘一宇の塔、現在は平和の塔と言われています)
今回は特別に内部の見学までさせていただきました。
完成年月 昭和15年11月25日
紀元二千六百年奉祝事業の一環として「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」に
よって建設。
塔の高さ 36.4メートル
揮 毫 八紘一宇の文字は昭和天皇弟宮・秩父宮雍仁親王殿下のご親筆
使用石材 世界各地より1,789個の石が寄せられた。
塔の形状 塔は世界中の罪穢れを祓う意味から御幣の形をしています。
内部については秘密です・・・
「八紘一宇」とは世界平和を願う意味の言葉でありましたが、
戦後は国威発揚のスローガンとされ使用禁止に・・・
さらに塔の正面の八紘一宇の文字は取り剥がされ、挙げ句の果てにはロッククライミングの
練習場になるなど荒廃の一途を辿りましたが、
昭和37年に武神像、昭和40年には「八紘一宇」の文字復元されました。
趣旨にもありますように、我々神職は「八紘一宇」の言葉の意味、歴史をしっかりと学び、
神職として守っていく使命を新にしました。
研修会終了後は懇親会!
「ほな、乾杯するでぇ~」
「明日は、ゆ~ても高千穂の峰登山やさかい、ほどほどにな」(関西弁は私の想像です<(_ _)>)
ちなみに左の方の奉仕神社は、奈良県の「葛木坐火雷神社 」
読めます?
読めるかい_(_^_)_
答えは、かつらきにいますほのいかづちじんじゃ。
長っ・・・ (ちなみに”現在作成中”のHPはこちら)
さらに長い名前の神社もあるとの噂も!
関西弁と宮崎弁が飛び交う、大変有意義なひとときとなりました(^^)
今日はおおきに!
ゆっくり休んでや~
ほなな!おやすみZZZ
翌日へ続く・・・