宮崎神青ブログ - 活動報告カテゴリのエントリ
去る12月20日、当会忘年会を開催致しました。
とは言っても、全員とゆっくり話す時間も無いしなぁ・・・
そ・こ・で!
平成28年を漢字一文字で表現していただきました。
神主一年生。
家族になろうよ。
そして父となる。
さらに2児の父となる。
みんながいるじゃないか! 鳴くまで待とうホトトギス。
新天地。 神楽三昧。
見つけにくいものですか? ブレるなよ!
ついて行けた!? サーファー?
一本足して”幸”に。 苦しまなければ喜びはない。
改めて自然の恐ろしさを。 逃げ恥?
100人できたかな? 全ては会長の為に。
いよいよ前厄。 カムトゥルー。
前進あるのみ。 時には退くも良し。
届いた? 思い残すことはないね。
何よりです。 また来年も!
みんなありがとう。 みんなゴメンナサイ・・・
何だか皆がそれぞれに生きてるんだなぁと改めて考えさせられました。
本年が良かった人、あまり良くなかった人とそれぞれでしょうが、
年の最後に皆が集い、終始笑い声の絶えないひとときを過ごせることは
本当に有難いものです。
さぁいよいよお正月。
賑々しい氏神さまのご社頭にて、健やかに新年をお迎えいただきますよう
心からご祈念申し上げます。
良いお年を!
去る11月4日、西都市寒川に鎮座する天神社をお参り致しました。
当会では、平成24年4月、古事記編纂千三百年の佳節にあたりホームページを開設し、これに併せて、県内650社すべての神社を掲載すべく、各神社をお参り、調査、撮影を行う教化委員会を中心とした組織「宮巡隊」を結成し、これまでに約630社に足を運びました。
山頂付近、池のほとり、森の奥深くなど、おおよそ普段は人が立ち入らないような場所にまでひっそりと鎮座される氏神様を数多く見てきましたが、その中でも他に類を見ないのが西都市寒川地区に鎮座される天神社であります。
午前9時に新富町鎮座の春日神社を出発
???
???
旧寒川小中学校
校歌
教室
えっ?何の写真?と思われた方もいらっしゃるでしょうが、寒川地区は平成元年3月に最後の住民が集団離村し、400年の歴史に幕を下ろした地区なのであります。
しかしながら、天神社は今なお鎮座され、例祭には旧村民が参列され、毎年欠かさず斎行されているのです。
神社は旧集落の上に鎮座されています。
なかなかの急斜面でした。
道という道はありません。
なかにはこんな箇所も・・・
歩くこと約15分くらいだったでしょうか、石鳥居が見えてきました。
さらに進むと、倒れかけている木造鳥居発見。
ついに到着!
殿内の床は、ところどころ腐っていました。
お参りを終え、いよいよ清掃開始。
思いの外と言っては失礼ですが、それほど荒れた果てた様子はありませんでした。
倒木処理
1時間半ほど清掃を行い、会長たっての希望で昼食は持参したおにぎり等を
氏神さま付近で、おいしくいただきました!
伊東宮司様には大変お忙しい中にも拘わりませず、神社までの案内、さらには持参した
おにぎりまでご一緒に食べていただき、誠にありがとうございました。
衷心より厚く御礼申し上げます。
宮崎県では、平成27年2月末時点で、集落の半数以上が65歳以上を占める限界集落が19市町村127集落にのぼり、今後増加の一途を辿る事が懸念されています。集落の消滅は、神社の消滅に直結すると言っても過言ではなく、単純に言えば宮崎県内650社のうち約5分の1が存続の危機に瀕しているということであります。
今回は宮巡隊第一次総括として、県内唯一とも言える廃村地区に鎮座される天神社を参拝し、清掃奉仕を行うことで、消滅集落における神社の現状を会員自らに感じてもらうべく開催致しました。
神社人としての自覚を強く持ち、本事業をきっかけとして、人口変動による神社が抱える問題と真摯に向き合い、解決への一助となることを願うばかりであります。
誰もいなくなって、もうすぐ30年。
氏神さまは何を思われるのでしょうか・・・
あれから4ヶ月・・・
去る10月14日、午前10時より第36回献穀御神田行事抜穂祭を斎行致しました。
昨年に引き続き、またもや雨・・・
米良の地名は、米良神社のご祭神磐長姫命(いわながひめのみこと)が、
この地区でお米を作られた際に、よねよし、よねよし(米良し)と言われたことに
由来するそうであります。
今回収穫したお米は、先ずは10月15日~17日に伊勢の神宮にて斎行されます神嘗祭に
お供え致しました。
とは言っても、抜穂祭翌日の事でしたので、事前に抜き取った稲穂をお送り致しました。
この神嘗祭は、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にささげて、御恵みに感謝する
お祭りで、年間千五百回に及ぶ神宮の恒例のお祭りの中でも、最も重要なお祭りであります。
田長の上米良文吉様。
田長の「刈りませ~」の掛け声のもと、稲刈り開始!
全て手刈り、かけ干しまで予定をしていましたが、雨の影響により今回は一部を
苅り取るのみとなりました。
もしかして雨男???
直会!
おにぎりは田長様の田んぼで穫れたお米、通称「文ちゃん米」を使用とのこと!
11月23日には、各神社において新穀を神様にお供えし、感謝申し上げる
新嘗祭(にいなめさい)が斎行されます。
この祭は天皇陛下御自らも斎行されるもので、その日までは陛下は新米を口になさるのを
控えていらっしゃるとのことでございます。
物が溢れ、季節を問わずに色々なものを食することができる時代ではありますが、
陛下のお姿を見習い、神職として祭を通して、我が国の基である米作りや日本人の精神を
受け継いでいく覚悟を尚一層強くしたところでございます。
最後になりますが、本事業に対しまして、ご理解ご協力を賜りました田長の上米良文吉さまをはじめ地域住民の方々、準備等々お世話いただきました児湯地区会員の皆様に心から感謝を申し上げ、さらにはこの小川地区が氏神さまである米良神社を中心として弥益々にお栄えになりますことをご祈念申し上げます。
(当日の写真はこちら)
去る9月13日、「知ろう学ぼう災害の歴史と氏神さま」と題して研修会を
日南市鵜戸神宮にて開催致しました。
趣旨
古より我が国は、自然と共存共栄し独自の文化を形成してきた。この自然との営み方は自然環境、生活様式が如何に変化しようとも決して忘れてはならないものである。
しかしながら、災害大国とも言われる我が国は、昨今の東日本大震災・熊本地震をはじめとした想像を超える自然の猛威により、幾度となく被害を受け多くの命が失われてきた歴史がある。
もとより、人の力では為す術のない自然に対して我々にできることは日々の祈りであり、地域の人々が祈りを捧げる場が氏神さまである。氏神さまと共にある地域の歴史を顧み、先人達より受け継がれてきた教訓を再認識し、防災や災害に対する意識向上への一助となるべく本研修会を開催する。
開会に先立ち正式参拝
研修内容
①各地区「災害の歴史調査報告会」
・宮 崎 外所地震被害について
・県 北 平成十七年台風十四号による高千穂鉄道廃線、水害について
・児 湯 平成十七年台風十四号による水害について
・都 城 新燃岳噴火(享保噴火、平成噴火)について
・南那珂 外所地震による飫肥城の被害について 鵜戸神宮台風被害について
本研修は、各地区の過去の災害の歴史を調査していただき、発表していただくことに重点を
置きました。講義で得る知識とは違い、自らが調査して得る知識では一味違ったものがあると
思いこのような形式を取りました。
②熊本地震について 内村泰彰氏(熊本県神道青年会会長)
小林雄彦氏(熊本県神道青年会事務局長)
本来であれば私たちが熊本へ足を運び、話を伺うところですが、ご無理をお願いして、
宮崎へお越し頂き貴重なお話を聞くことができました。
復興へはまだまだ時間を要するようですが、少しでも力になれればと感じました。
阿蘇神社ホームページはこちら
木山神宮フェイスブックはこちら
③災害時の保険の対応について JA共済保険担当者
④災害後の事務手続きについて 伊東健治氏(鵜戸神宮禰宜・当会第十八代会長)
研修会を終えて感じたことは、やはり人間忘れるものだと・・・
数年前の台風の被害ですら、そんな事あったっけ?と思った自分がいました。
いつまでも忘れないこと。
簡単そうで非常に難しいことでありますが、先ずはそこからです。
その上で、会員の皆様には災害への備え、災害後の対応はもとより、神社人として如何に
あるべきかを十分に考えていただき、その答えを見出していただければと思います。
最後になりますが、研修会開催にあたり、ご協力を賜りました鵜戸神宮様、準備等々
お世話いただきました南那珂地区会員の皆様に心から感謝を申し上げます。
当日の写真はこちら
去る8月15日、当会の大東亜戦争終結七十年記念事業として準備を進めておりました
『大東亜戦争終結七十年記念誌~守ルベキモノ、伝ユベキモノ。~』を上梓することができました。
殊に本書内の県内慰霊碑等につきましては、各会員が現地へ足を運び調査撮影を行い、また各遺族会関係者にお話を伺うことで、心のどこかで遠い昔に遠い国で起こったかのように感じていた先の大戦を、より身近に感じるようになりました。
各々が得たものを、これから先の英霊顕彰はもとより諸活動に生かして参る所存でございます。
機会がございましたら、是非ご高覧いただければ幸甚に存じます。
【発刊趣意書】
昭和三十年三月十一日の宮崎神宮日誌を紐解くと、次のよう書かれています。
昭和三十年三月十一日 金曜日 晴れ
一、護国神社鎮座奉祝祭 午前十時
宮司以下奉仕(齋服) 伶人(笛、篳篥二管立、笙、鞨鼓、太鼓)七人外ニ琴
縣神社庁支部長九名参列(齋服)
奉賛会総裁田中縣知事、奉賛会長日髙県議会議長、宮崎縣遺族会長外市町村関係者、遺族壱萬伍阡名参列 社前廣場を埋む、歡喜に沸く
一、祭典終了後、宮司、知事、縣議長、縣遺族会長の挨拶あり、一同隨喜の涙をながす
一、神職退下後遺族に本殿石階下まで参入参拜を許す、遺族の感激一入なり
一、午後西神苑にて、相撲、剣道、弓道の奉納試合あり、風もなく照りつけもせず暖き春日和に恵まれて、神苑は午後四時頃まで賑ふ
参列者一五,〇〇〇名とあることからも、県民が如何にこの日を待ち望んでいたか、護国神社の創建が県民の切なる願いであったことが伺えます。
また、宮崎県護國神社社務所には、昭和三十八年三月十日(現在は四月十日)例大祭の写真が飾ってあります。巫女が「みたま和め」の舞を奉奏しており、その後ろにはご遺族をはじめとした参列者が、境内を埋めつくしています。全員が立ったままでの参列であり、その多さは現在では想像もつかないものであります。
しかしながら、現在では遺族の高齢化とともに参拝者は年々減少の一途を辿り、さらには各地に点在する忠霊塔、慰霊碑においての祭典が滞っているとの話も耳にします。この状況に危機感を抱き、戦没者遺族の意思を継承をすべく、御英霊の孫、曾孫を中心とした組織が設立されるなど新たな活動も行われいるようです。
大東亜戦争終結七十年の節目にあたり、宮崎県神道青年会といたしまして、靖国神社をはじめ全国の指定護国神社、宮崎県内の慰霊碑を一冊の本に纏め発刊致したく存じます。期するところは、ご英霊の顕彰はもちろんのことながら、神職の本分である「祭り」を遺族の方々と共に、絶やすことなく、恙なく斎行していくための一助にならうものに他なりません。
【目次】
【あとがき】
その記事を目にしたのは、今から五年ほど前でありました。
宮司は県より終戦の事実を知らされると全職員を集め、
「自分らが神職であることを自覚せよ、また、今後どのようにして大神さまの御心に
添い奉るかを各々充分に考へてその結論を報告せよ」
宮崎神宮史に掲載されていた終戦当日の話であります。敗戦という国史上未曾有の危機に際しての問いに、当時の私は結論に至ることはできませんでした。
しかしながら、日々の奉仕や今回の大東亜戦争終結七十年の事業を通して、それはやはり祭なのではないかと考えるようになりました。神職の本分である祭、すぐにこの結論に至らなかった私が、如何に徒に時を重ねていたか、神職としての自覚の低さを唯々情けなく思うばかりであります。
神社新報の第一号「創刊の辞」にはこう記されていたそうです。
「一言にしていふならば、日本人の宗教的真心の結晶が神社として成立してゐるのである。」
神社を取り巻く環境が変化しようとも、我々は覚悟を持って氏神さまや祭を通して日本人の心を守り、次世代へと伝える使命があるのだと思います。各地域の祈りが、御英霊が願って止まなかった美しい祖国の繁栄はもとより世界の共存共栄へと繋がりますことを切に祈念致します。
最後に本誌発刊にあたりまして、ご理解とご協力を賜りました関係各位、尽力いただきました会員一同に対して、心から感謝を申し上げます。
平成二十八年八月十五日
宮崎県神道青年会会長 串 間 慶 士
早いもので、明日8月7日は立秋。
暦の上では秋となりますが、まだまだ夏真っ盛りといった感じですね。
夏休みに入り約2週間が過ぎ、朝から晩まで毎日の様に子供がいる生活に
少々お疲れ気味の親御さんもいらっしゃることと思います・・・
我が家においても、賑やかさを超えて騒音ともとれる子供の声が響き渡っております。
夏休みの宿題、その一つに欠かせないのが「スケッチ」ですよね。
ある日の夕方、「お父さ~ん!見て見て~!」
宮崎神宮末社「五所稲荷神社」へ足を運び、
才能の片鱗をうかがわせる一枚の絵を披露してくれました。
かなりの親のひいき目であることは重々承知していますが・・・
まぁスケッチもするようになったものかと、息子の成長を実感するとともに、
中学の時だったか、通知表で美術「2」の評価をいただいた私の血筋ではないと
確信する瞬間となりました。
私の奉職先の境内でも、座り込みながら懸命にスケッチをする子供の姿を見かけます。
スケッチがお済みでない方は、是非ともお住まいの地域の守護神であります
氏神さまへ足を運んでみてはいかがでしょうか???
(氏神さまはこちら)
きっと神様も、皆さんの姿に目を細められることでしょう・・・
平成28年7月29日、当会第35回神職子弟の集いを日向市にて開催致しました。
(神職子弟の集いについてはこちら)
趣旨
神武天皇御降誕の地である宮崎県には、紀元二千六百年時に聖蹟として顕彰された神社をはじめ神武天皇ゆかりの史蹟が多く残っている。
神武天皇崩御より二千六百年の節目の年にあたる本年、御東遷御船出の地である日向市美々津に神職子弟が集い、伝承に触れながら神武さまに親しみ、さらには相互の交流を図るべく本事業を開催する。
まずは、神武天皇お船出の地である立磐神社正式参拝。(立磐神社についてはこちら)
海軍発祥之地碑(立磐神社前)
戸高宮司様にはご多忙中にも拘わりませず、ご厚遇にあずかり誠に有難うございました。
つづいて、
皆でお船出だんごを作りました。
神武天皇お船出に際し、美々津の人々は餡入りの団子を差し上げる予定であったそうです。
しかしながら、急にお船出が決まったので慌ててうすの中に餅と餡をほうりこんで、
団子を作って差し上げたそうです。
上手にできました!お船出には間に合ったかな~???
その後、石並川キャンプ場へ移動し、川遊びとバーベキューを満喫しました。
総勢35名参加のもと、怪我等もなく無事に納めることができました。
ご担当いただきました県北地区会員に心から感謝申し上げます。
子供達にとって夏休みの思いでの一コマになったことと思います。
お疲れさまでした<(_ _)>
夏色 ♪/ ゆず 作詞:北川悠仁 作曲:北川悠仁
駐車場のネコはアクビをしながら 今日も一日を過ごしてゆく
何も変わらない 穏やかな街並
みんな夏が来たって浮かれ気分なのに 君は一人さえない顔してるネ
そうだ君に見せたい物があるんだ
大きな五時半の夕やけ 子供の頃と同じように
海も空も雲も僕等でさえも 染めてゆくから
この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて
ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく
風鈴の音でウトウトしながら 夢見ごこちでヨダレをたらしてる
Oh いつもと同じ網戸ごしの風の匂い
休日でみんなもゴロゴロしてるのに 君はずいぶん忙しい顔をしてるネ
そうだいつかのあの場所へ行こう
真夏の夜の波の音は不思議な程心静かになる
少しだけ全て忘れて波の音の中 包みこまれてゆく
この細い細いうら道を抜けて 誰もいない大きな夜の海見ながら
線香花火に二人で ゆっくりゆっくり火をつける
いつか君の泪がこぼれおちそうになったら何もしてあげられないけど
少しでもそばにいるよ…
この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて
ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく
ゆっくりゆっくり下ってく
ゆっくりゆっくり下ってく
去る6月7日、神道青年全国協議会主催による
神武天皇二千六百年記念事業「国家安寧祈願祭」が
奈良県橿原神宮にて斎行されました。
(橿原神宮についてはこちら)
前日には神武天皇陵参拝。
趣旨
明治天皇御製
橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより国はうごかず
我が国は本年で紀元二千六百七十六年を迎へた。数ある国々の中で二千六百七十六年に亘る歴史を有す国はさうはないであらう。我が国建国の原点は橿原の地にあり、この地において初めて国の柱、国の基礎が建てられた。以後、我が国は揺るぐことはなく建国より今へと続く我が国を誇りに思ふ。
神倭伊波礼琵古命は神武東征を成し遂げた後、畝傍山の東南、橿原の地において第一代神武天皇として即位され、「六合を兼ねて都を開き八紘をおほひて宇となさむ」との詔を下された。我々や世の中に存在するすべての物が睦み合ひ平穏な世界にしてゆくべきであると示したものである。この意志は建国以来、絶へることなく今へと続く。神武天皇が崩御されてより二千六百年となる本年、その聖德を偲ぶと共に御事績を顕彰し、次代の安寧を願ふことは我々の使命である。
昭和十五年には紀元二千六百年の行事や神事が国家の祝典として挙行されたが、戦後はいはゆる神道指令の影響により、神道に関連するものは一切排除され、紀元が使用されなくなるばかりか、紀元節も廃止の憂き目に遭ふこととなった。先輩諸賢の尽力により、建国記念の日として復活を果たしたものの、現在、その意義にかかる国民の関心は決して高いとは言へない。神話や伝承を排除し信仰を忘却させることは、日本人としての精神性を欠落させ、やがて国としての誇りをも失ふこととなる。
来る紀元二千七百年が国民挙げての奉祝となるやう時流を作ることは、我々青年神職の役目である。今ここに神武天皇の聖徳に改めて想ひを致し、橿原の地において、日本民族としての誇りを恢復し、我が国の根幹を確固たるものに修り固めなすべく、本事業を展開するものである。
橿原神宮久保田宮司様をはじめ、全国各地より百名を超える会員が集っての奉仕となりました。
(写真はこちら)
個人的には本年3月に引き続き、またとない貴重な経験をさせていただきました。
祭典を終え、頭の中には家族のことが思い浮かびました。
昨年は大東亜戦争終結より七十年の節目でありました。
戦場に散華した英霊は、国の為に二つとない命を捧げ国を護ることが、
家族の安寧に繋がると考られたと思います。
時代は違えど、その根底は自分にも受け継がれていると実感致しました。
国家の安寧、国を護る・・・
現代においてこのことを日常生活の中で考える人は、そうそういないと思います。
しかしながら、国家=家族の集合体と考えると、各々が無意識のうちに実践しているのかもしれませんね。
建国より二千六百七十六年。
先人達より受け継がれきたものの上に、今を生きる我々の思いや行動が積み重なり、
我が国が弥益々に栄えますことを祈るばかりであります。
去る6月14日、本日の宮崎日日新聞にも掲載されましたように
当会第36回御神田行事「御田植祭」を斎行致しました。(御神田行事についてはこちら)
今回は児湯地区担当のもと、西米良村小川地区での開催。
この地域の氏神さまである米良神社についてはこちら
児湯地区での開催は7回目、西米良村では2回目となりました。
午前10時祭典開始
西都市岡富鎮座の住吉神社禰宜の濵砂尚孝会員が、斎主としてご奉仕されました。
普段は消防士としてご活躍なんですよ!
田長の上米良文吉様。
大変なご苦労とは思いますが、何卒宜しくお願い申し上げます。
さあいよいよ田植え開始です。
「俺はもう嬉しくてよ!涙が出そうやったが!」
一緒にご奉仕いただいた昭和56年の第1回御神田行事に携われた大先輩のお言葉。
涙の理由は、
当時始めた事業が今尚こうして継承され、
さらに36年の時を経てご自分に縁ある地にて斎行され、
またさらには斎主を務めた息子さんの成長を感じられてのことでしょうか???
六畝をすべて手で植えました。
今回のベストショット!(笑)
大変暑い中にも拘わりませず、地元の方々の見守る中、神事の一切を滞りなく
斎行することができました。
直会の席にて、こんなお話を聞きました。
今回の御田植えを見て、自分の小さい頃を思い出したがな~。
あん時は家の手伝いとして、もちろん全部手で植えちょった。
やけど獲れたお米はぜーんぶ、母親が兵隊さんに差し上げちょったから、
俺達がお米をたべることは、ほとんどなかったがな~。
な~んか昔を思い出して涙が出そうやったが~。
と、笑顔で話してくれましたが、当時の様子がひしひしと伝わってきました。
やはり現在の我々は、有難いほどに贅沢なんだと感じました。
当会毎年の恒例行事としては、最も長く続く御神田行事。
米作りの教化はもちろんのことながら、毎年毎年その地区の方々と新たなご縁をいただき、
色々なお話を聞きながら会員も成長できる、非常に有意義な事業であります。
年々会員は変わっていきますが、先人達の想いを忘れることなく次世代へ継承し、
毎年変わることなく末永く続く事業であってほしいと思います。
最後になりますが、関係各位にはご多忙中にも拘わりませず、ご協力をいただき
誠にありがとうございました。
これからいよいよ本格的な夏を迎えますが、ご自愛にてお過ごしの程祈念致し、
実りの秋にはまた元気にお集まりいただければと思います。
本当にありがとうございました。