宮崎神青ブログ - 最新エントリー
去る10月22日の話になりますが、外出先でとある風景を目にしました。
道中には紙垂のついた注連縄が張り巡らされていました。
なんか今日あるっちゃろか~と思いながら、車を運転していると宮巡隊の記憶が
蘇りました。
確かこの地域の氏神さまは若宮さんじゃねーじゃろか。
たぶんこの道を右に行って、
あっ行きすぎた!
もう一つ手前の道を右に行ったら恐らく・・・
ほーらやっぱりー!(若宮神社についてはこちら)
しかも
なんと秋祭で御神幸の直前だったのです。
私自身夏祭でおみこしを見ることは多々あるのですが、秋はもしかして初めてかも・・・
おみこしの準備も調い、
露祓いの獅子を先頭に
目出度くにお宮をお出になられました。
少々雨が降っていましたが、周辺は家族連れの方など地域の方で賑わっていました。
若宮神社氏子区域の益々のご発展と、このお祭りが末永く続いていきますことを
心からお祈り申し上げます。
我々は様々な教化活動を展開しておりますが、その中で忘れてはならない
最も大切なのはやはり氏神さま。
氏神さまのことを知っていただき、足を運んでいただくことが全てに繋がるのだと
私は常々考えております。
偶然にもなんだか心がほっとする場面に立ち会えた気が致します。
やっぱり氏神さまっていいですね。
やっぱりおまつりっていいですね。
皆様は全国に神社が何社あるか考えたことはございませんか?
そもそも神社とは?
神道の神々を祀るため設けられた建物、または施設の総称をいいます。
古くからヤシロ(社・神社)、ミヤ(宮)、モリ(社)、ホコラ(祠)などと呼ばれています。
年数回の祭りのたびに、霊地として神聖視される場所、すなわち村里を見下ろす秀麗な山の麓、清澄な川や泉のほとり、明るく神々しい森などに、神籬(ひもろぎ=臨時に神の座とされる榊などの常緑樹)、または磐座(いわくら=同じく自然石)を設けて神霊を迎え、終われば送り返すのが常でありました。
聖地はみだりに人の進入を許さぬ禁足地で、注連縄などを張り、木草の採集も忌まれました。
一般に神社の原初形態は必ずしも社殿を伴うわけではありませんでした。
語源的にはヤシロは屋代とする説が最も支持されており、祭りに際し臨時の小屋を建てる場所のことであります。祭りは一般に多く野外でなされたが、祭壇などを風雨から守るため簡易な覆い屋を設けるに至り、さらに祭りのあともその仮小屋を撤去せず、常設のものとしたのが社殿の発生と考えられるそうです。
関連して神観念も、毎年時期を定めて来臨する来訪神から、神殿に常在して人々を守る神々の信仰へと変化していったのです。
神社は祭礼行事などを通じ地域社会の住民の連帯感の育成に深くかかわる存在であったので、神社数や分布の変遷は、ほぼ地域集落のそれに比例します。
時代 | 神社数 | 備考 |
8世紀 | 4,012郷 | |
10世紀 | 4041郷 | |
13世紀 | 10,000余 | |
16世紀初期 | 98,000郷 | |
明治前期 | 約200,000社 | 当時の自然村数にほぼ見合う |
明治4年 | 近代社格制度により神社を国家の宗祀と位置づける | |
明治20年代 | 町村統合のなかで、政府は神社存立の基盤整備を志す。 | |
明治39年 | 193,000余社 | |
約70,000社廃合 |
神社合祀政策(=勅令)により、一町村一社とした。 神社を地域社会の精神的な拠り所として改めて位置づけ直し、 町村の行政力の強化を図ろうとした。神社の数を減らして残った 神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備、財産を備え させ、神社の威厳を保たせて、継続的経営を確立させることにあった。 一時は大いに実績を挙げたが、次第に各地に紛争弊害をもたらし、 かえって神社崇敬の観念を失わせる結果も地方には生じ、反対の 声も強くなって沙汰やみの傾向となった。 |
|
大正初年 | 110,000余社 | |
終戦当時 |
109,809社 |
終戦後はGHQの神道指令により、神道は国家の管理を離れ、 |
終戦後 | 87,218社 |
宗教法人登録社(神社本庁所属) 旧無格社等の中には法人手続きをしない神社もあった。 |
平成4年 | 79,165社 | |
平成26年 | 78,934社 |
※最も多いのは新潟県(4,737社) 次いで兵庫県(3,834社)、福岡県(3,321社) ※最も少ないのは沖縄県(11社) 次いで和歌山県(418社)、大阪府(571社) ※宮崎県は下から5番目の652社 |
ちなみに明治4年の近代社格制度とは?
明治政府によって定められた神社の格に関する制度。
維新政府は成立以来神社の全国的掌握や神社調査を進めてきましたが、その調査が一段落したので明治4年(1871)5月14日には太政官布告を公布、神社の格を大きく官社と諸社に分類したものです。
社格 | 神社数 | 備考 |
官社 (かんしゃ) |
当初は97社 |
※官幣大社29社、中社6社、小社なし ※国幣大社は諸国一宮を中心に列格されたが当初存在せず。 中社45社、小社17社 官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社 官幣社が皇室から幣帛料が支出されるのに対し、国弊社は国庫から支出される 違いがあった。 社殿装飾などにも許可されることになり、区別はなくなった。 |
府県社 (ふけんしゃ) |
終戦当時 1,148社 |
諸社の最上位に位置し、府県が崇敬する神社。 |
郷社 (ごうしゃ) |
終戦当時 3,633社 |
府県社につぎ、村社の上位に当たる。 祀る神社が多くある場合は、そのうち最も主要なものを郷社として選ぶように なっている。 |
村社 (そんしゃ) |
終戦当時 44,934社 |
郷社につぐもの。明治4年(1871)の郷社定則では、郷社に付属すべき ものとされていた。 通常村の氏神を祀る神社がこれに相当した。 |
無格社 (むかくしゃ) |
終戦当時 59,997社 |
村社にも至らなかった格の無い神社。神社中、最下位に置かれた。 |
宮崎県では官幣大社に宮崎神宮、鵜戸神宮、国幣小社に都農神社が列格していました。
社格制度は終戦後にGHQの政策により廃止されています。
時代ともに変遷してきた神社ですが、先日のテレビにて、25年後には神社が4割減少するとの
話がございました。
確かに山を切り崩しそこに新たな町が誕生したとしても、その町に新たな神社を創建する
との話は現状では耳にしません。
むしろ過疎化に伴い、存続の危機にある集落の話をよく耳にします。
当然のことながら集落の消滅は、神社の消滅へと繋がります。
皆様方には現在ご自分のお住まいの地域、また遠く離れていたとしても生まれ育った地域の
氏神さまに心を寄せていただき、大切にしていただければと思います。
去る10月18日。
空路東京へ。
翌朝は懐かしの山の手線ラッシュアワーをくぐり抜け、
東京都千代田区九段北に鎮座の靖國神社へお参りさせていただきました。
目的は何かと申しますと、
靖國神社秋季例大祭第三日祭参列の為です。
言うまでもなく靖國神社には2,466,000余柱のご祭神がお祀りされていますが、
そのうち大東亜戦争で戦没された英霊は2,134,000柱に及びます。
毎年当会に祭典のご案内をいただいておりましたが、なかなか参列が叶わぬ状況でした。
しかしながら本年は大東亜戦争終結七十年の節目ということもあり、奉務神社には無理を
承知でお願いし、有難く参列させていただくこととなりました。
午前10時祭典開始。
国歌斉唱の後、内陣(ないじん)の御扉(みとびら)が開かれました。
普段は閉じられており、大きな祭の際などに開かれる御扉。
このことを開扉(かいひ)と言いますが、私はどの神社の祭に参列しても
開扉の際は鳥肌が立ちますが、今回はかつて経験したことのない鳥肌が。
特に顔面を覆うの鳥肌は初めてのことで、何故だか涙が溢れました。
祭典中ふと数年前に他界した祖母のことを思い出しました。
祖母の父が靖國神社にお祀りされており、参拝を願って止まなかったそうです。
終戦より月日は流れ、祖母もだいぶ年を数えてではあったものの、私の父母にともに
お参りでき、私の想像ですが大変喜ぶというか、ほっとされたに違いありません。
婆ちゃんの父、つまりは私の曾爺ちゃん。
出会ったことはありませんが、確かな繋がりを感じることができました。
人が何かをする時期には、何かしらの縁があると考えます。
英霊は
「お前には何も期待してないよ」「お前ごときに何ができるのか」
と、仰るのかもしれませんが、不肖私がこの節目に宮崎県神道青年会会長という重責を
担うことになったのは縁であると勝手に信じ込み、大東亜戦争終結七十年記念誌の発刊等
会員が一丸となって英霊顕彰事業を進めていきたいと思います。
富士山を最後に眺めながら、戦場へと向かった英霊もおられることだろうと思いながら
帰路につきました・・・
靖國神社の歌
獻納 主婦之友社
作詞 細淵國造
作曲 陸海軍樂隊
一
日の本の 光に映えて
盡忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
あゝ大君の 御拜し給ふ
滎光の宮 靖國神社
二
日の御旗 斷乎と守り
その命 國に捧げし
ますらをの 御魂鎭まる
あゝ國民の拜み稱ふ
いさをしの宮 靖國神社
三
報國の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
淸らけき 御魂安らふ
あゝ同胞の 感謝は薰る
櫻さく宮 靖國神社
四
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇國は 永遠に嚴たり
あゝ一億の 畏み祈る
國護る宮 靖國神社
本年も七五三詣の季節が近づいてまいりました。
七五三詣は3歳の男女児、5歳の男児、7歳の女児のお祓いです。
各神社では、お子様のこれまでの無事なご成長を神様に感謝し、これからの健やかなるご成長を祈念する七五三詣祈願を受け付けております。
皆様お揃いで、どうぞお住まいの地域の守護神である氏神さまへお参り下さい。
※事前にお参りになる神社へお問い合わせ下さい。(お近くの神社はこちら)
七五三詣の由来
昔は乳幼児も生存率が低く、子供が大人に成長するまでの幼児期は特に病気などの不慮の病に よって亡くなることが多くありました。「七歳までの神のうち」という先人の言葉も残されているように、七歳までは神様からの授かり者であるとの意識が強く ありました。故に成長の過程において、氏神さまに祈願し子供の無事成長することを祈念したのです。
・3歳男女 「髪置き(かみおき)」のお祝い
昔は三歳までは頭髪から病気が入ると信じられていたので、髪を伸ばさず剃り続けていました。よってこのお祝い以降に髪を伸ばす区切りとしました。
・5歳男児 「袴着(はかまぎ)」のお祝い
男の子が初めて袴を着るお祝いです。
・「帯解き(おびとき)」のお祝い 7歳女児
それまで紐で着ていた着物を、これ以降帯を締めるように替えました。
平成27年七五三詣早見表
7歳女児 | 5歳男児 | 3歳男女児 | |
満 | 平成20年生まれ | 平成22年生まれ | 平成24年生まれ |
数え | 平成21年生まれ | 平成23年生まれ | 平成25年生まれ |
※数え年で祈願するのが一般的ですが、満年齢で受けられても結構です。
すべてはここからはじまりました。
東諸県郡綾町古屋地区
4月27日 畦作り
5月 1日 御神田清祓併播種祭(詳細はこちら)
5月10日 耕耘
5月19日 肥料散布
5月23日 荒代あけ
5月25日 中代あけ
5月27日 植代あけ
5月27日御田植祭(詳細はこちら)
8月19日 風鎮祭併除蝗祈願祭(詳細はこちら)
約5ヶ月の時を経て、
去る9月29日、当会御神田行事抜穂祭を斎行致しました。
当日はまさかの雨
準備も普段の倍以上に手間取りました・・・
梅雨の長雨、秋には台風の襲来もありましたが、たわわに実りました。
献饌(けんせん)・・・神様に神饌をお供え致します。
斎主玉串を奉りて拝礼。
斎主の鳥原会員には、御神田清祓より4回にわたる祭典をお務めいただきました。
雨は一向に止まず・・・
刈り女、地元綾中の生徒、当会会員にて
雨天ということで一部を刈り取るのみとなりました。
御陰をもちまして、第35回献穀御神田行事の一切を滞りなく斎行することができました。
最もご苦労をおかけしました田長(兼田主)の押田様、
今回のために発足していただいた御神田行事綾町協力会、
直会のおにぎり作り、諸準備をしていただいた婦人会、
早乙女、刈女のご奉仕をしていただいた地元の女性の方々、
今回担当いただいた当会宮崎ブロック会、
数え上げればきりがありませんが、
ご協力いただいた皆様方に衷心より厚く御礼申し上げます。
米作りの大切さは勿論のことながら、様々な方と触れあう非常に貴重な経験を
させていただく祭典であると改め感じました。
収穫したお米は、伊勢の神宮、宮中、靖國神社、県内鎮座の約650のお社、
さらに本年は大東亜戦争終結七十年にあたりますので、全国の指定護国神社へ
お供えさせていただきます。
最後になりますが、氏神さまの入野神社を中心に綾町古屋地区が益々に栄えますことと、
関係各位のご健勝を心からお祈り致します。
本当にありがとうございました。
先日、とある神社へお参りさせていただきました。
それではgoogleストリートビューの感覚でご覧ください<(_ _)>
11:00 入口鳥居
11:02 鳥居をくぐると、いきなりの下り階段
待ってよ~お兄ちゃ~ん
11:04 次は橋を渡ります。
橋上からの景色。天気もよく清々しいものでした!
実は3人いたりして・・・
11:08 橋を渡り終えると、次は登りです。
11:11 3つ目の鳥居...
11:13 4つ目の鳥居....
11:14 5つ目の鳥居.....
11:18 6つ目の鳥居......
神社はまだかな~???
11:21 湧き水の手水舎
11:24 ガサガサガサ・・・ 森の奥に小さなイノシシ発見!!!
11:26 7つ目の鳥居の先には???
到着~!
再び手水で清めて
お参りさせていただました。
ご社殿横にもきれいな滝がありました。
お気づきの方もおられるでしょうが、今回のお参り先は
西都市鎮座の速川神社でした。(詳細はこちら)
合格のご利益もあり、多くの受験者がお参りになるようです。
ちなみにタイトルの意味は
こういうことでした。
これほどの長さの参道も珍しいですが、運動靴持参にて是非お参りされては如何でしょうか。
宮巡隊の歴史に新たな1ページが加わりました・・・
家族になろうよ♪ 作詞・作曲 福山雅治
百年たっても好きでいてね
みんなの前で困らせたり
それでも隣で笑ってくれて
選んでくれてありがとう
どれほど深く信じあっても
わからないこともあるでしょう
その孤独と寄り添い生きることが
愛するということかもしれないから
いつかお父さんみたいに大きな背中で
いつかお母さんみたいに静かな優しさで
どんなことも超えていける
家族になろうよ
いつかあなたの笑顔によく似た男の子と
いつかわたしと同じ泣き虫な女の子と
どんなことも超えていける
家族になろうよ
あなたとなら生きていける
幸せになろうよ
去る8月29日、当会会員の日南市鵜戸神宮の安藤祐一郎くんが目出度く結婚されました。
おふたりの末永いお幸せと、ご両家益々のご繁栄を心よりご祈念申し上げます。
弥栄!
前回の続き(前回はこちら)
6月26日。
朝拝、朝食を済ませてペリリュー島へ向かいました。
約1時間の船旅でした。
到着後は明らかに日本で使用されていたと思われるバスで移動。
ペリリュー島は南北約9km、東西約3kmの小島であります。
日本はこの島を死守するために、歩兵第二連隊を含むおよそ一万人の部隊を派遣。
島中に洞窟陣地を張り巡らせていました。
旧日本軍はペリリュー島での無謀な突撃を禁じ、兵士らは洞窟に身を潜めて持久戦に
徹したといわれます。
アメリカ軍は火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器を投入しましたが苦戦。
当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は、2ヶ月半に及びました。
アメリカ海兵隊の最精鋭部隊と言われる第一海兵師団第一連隊の死傷率は、
史上最も高い約60%。
そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られることがなかったため、
「忘れられた戦場」と呼ばれています。
到着後は白衣白袴に改服し、
先ずは戦没者慰霊碑へ。
拝礼
パラオ諸島の守備隊の将兵であり、第二連隊隊長中川州男中将顕彰碑。
昭和19年11月24日午後4時。
「サクラサクラ」。
軍旗も機密書類も焼却したこと、つまりはペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく
散ったことを意味する同氏最後の電文でありました。
大本営は昭和19年12月31日ペリリュー島守備隊全員戦死と認定しました。
しかし、命ある限り戦う決意に燃える将兵、山口少尉以下34名(陸軍22名、海軍8名
軍属4名)は分散ゲリラ活動を行い、終戦を信ずることなく持久戦に徹し遊撃戦を続行。
約2年6ヶ月湿地周辺の豪に潜伏していましたが、昭和20年8月15日、日本軍の終戦を
知り、昭和22年4月21日、米軍に帰順、昭和22年5月15日横浜港に34名生還した
そうであります。
日本軍司令部跡地。
天上の穴は爆撃よるものだそうです。
日本軍95式戦車。
他は撤去されたそうですが、戦争の歴史を忘れない為に一台だけ残したそうです。
パラオ諸島唯一の大型飛行機が着陸できる「東洋一」と言われた飛行場滑走路。
昭和19年9月15日、アメリカ軍が上陸を開始したオレンジビーチにて黙祷
西太平洋戦没者の碑
碑文
「さきの大戦において西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび
平和への思いをこめてこの碑を建立する」
本年は大東亜戦争終結より七十年の節目を迎えますが、以前から戦争体験者、戦歿者遺族の
減少が叫ばれています。戦争を知らない世代が大半を占める現在において、我々神職の為すべ
き役割は何なのか、漠然とではなく明確に考える必要があると考えます。
今を生きる我々は、先人達への感謝の気持ちを決して忘れてはならないことは当然です。
そしてその思いを継承する為にも、先ずは何よりも現地へ足を運び、知ることが大切だと考えま
すので、今回の慰霊祭は非常に貴重な経験となりました。
我々神職は全国民が等しく英霊に慰霊の誠を捧げる日が来るよう、
諸活動に邁進するのみであると思います。
アンガウル島遙拝
去る8月19日午後2時より、当会御神田風鎮祭併除蝗祈願祭を斎行致しました。
この祭は、
風鎮祭(ふうちんさい)=かぜしずめのまつり
除蝗(じょこう)祈願祭=むしよけのまつり
ということになります。
梅雨時期の長雨で心配されましたが、すくすくと育っていました。
大祓詞(おおはらえのことば)奏上
御神田の清祓
本年度当番の宮崎地区会員さんのご奉仕でした。
準備中はかんかん照りでしたが、祭典は太陽が雲に隠れ、時より吹く風のお陰もあり
幾分心地よい中で滞りなく斎行されました。
田長様をはじめ関係各位には、お忙しい中にも拘わりませずご参列を賜り
誠に有難うございました。
さて、祭を終えて息つく間もなく台風15号が接近中です。
さっそく奉仕会員の祈りの成果が試されそうです・・・
何はともあれ大きな被害もなく、通過しますことを祈るばかりであります。
9月29日はいよいよ抜穂祭(ぬきほさい)が斎行されます。
残すところ約1ヶ月となりましたが、 関係各位には最後までご協力いただきますよう
何卒宜しくお願い致します。
本日、宮崎県護国神社にて終戦記念臨時大祭が斎行され、当会からも数名が
ご奉仕させていただきました。
終戦より七十年の節目。
畏くも天皇皇后両陛下より幣帛料の御奉納がございました。
祭典の中で護国神社の特殊神事として、
飢餓の米(きがのこめ)、
飢渇の水(きかつのみず)
が、お供えされました。
これは遠い戦場において、物資の輸送も途絶え、食するものもなく、飲む水も困窮するなかで困苦欠乏に堪えて、ただひたすらに故郷に残した家族達の事を思い、また祖国の安寧を祈りつつ、力の限りを尽くして、遂に空しく殉じられた御英霊のおみたまをお慰め申し上げるために奉るものであります。
関係各位多数ご参列の中、滞りなく厳粛裡に斎行されました。
本日ブログの最後に以下の詩をご紹介したいと思います。
『一億の號泣』
作詞 高村光太郎
作曲 田中舘貢橘
綸言ひとたび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の疊に両手をつきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず。
玉音、ひびき終わりて又、音なし。
この時、無聲の號泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向かってひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝してこの事實に直接し、
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鐵の武器を失へる時
精神の武器於のづから強からんとす。
眞と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの號泣を母胎としてその形相を孕まん。
綸言(りんげん)=天子の言葉。みことのり。
玉音(ぎょくいん)=天皇の声の尊称。
五體(ごたい)=身体全部。
普天(ふてん)=天下。
宸極(しんきょく)=天子の居所。
微臣(びしん)=主君に対し臣下が言う自分の謙称。
恐惶(きょうこう)=恐れかしこまる。
寸毫(すんごう)=極めて少ないこと。
曖昧(あいまい)=はっきりしない様子。
模糊(もこ)=ぼんやりした様子。
高村光太郎は東京の出身でありますが、当時宮澤賢治の実家である
岩手県花巻町に疎開していたそうです。
流言蜚語も飛び交い、民心不安定な中、この詩を詩ったのです。
日本は敗戦により鋼鉄の武器は失ったが、精神の武器が台頭し必ずや復興すると
予感されていたのです。
当時より七十年を経た我が国は、食べるに、飲むに苦労は無く、
さらには世界に名だたる経済大国へと発展を遂げました。
御英霊はもとより先人達の弛まぬ努力の上に、今があることを決して忘れてはなりません。
安保法案
憲法改正
隣国の干渉
等々
賛否両論あることとは存じますが、
少なくとも本日ばかりは、国民挙って御英霊、戦歿者に対しまして
感謝の誠を捧げる日でありますよう心から願うばかりであります・・・