宮崎神青ブログ - 活動報告カテゴリのエントリ
あの日から1ヶ月。
去る5月12、13日、熊本地震復興支援活動の為、熊本県益城町の木山神宮へ
行ってまいりました。
作業前には黙祷を捧げ、修祓式を執り行い、
玉串を奉りて拝礼を行いました。
作業は2日間に亘って、倒壊した拝殿や楼門の解体を行いました。
1ヶ月前から止まっていたかのような境内の時間も、ようやく動き始めたように感じました。
木山神宮禰宜さんも、ようやく復興への光が見えたと仰っていました。
神青協役員、九州各県から、延べ約140名での作業となりました。
神青協長友会長の言葉にあったように、「微力ではあるが無力ではない」
御社殿等の倒壊など被害のあった神社は、相当数にのぼると聞いています。
皆で手を取り合って、復興への道を共に歩んでいかなければならないと思います。
作業中、地震前と変わっていないものにふと気付きました。
それは鎮守の森。
今回の地震で目の当たりにした自然の恐ろしさ。
しかしながら、我関せずといわんばかりに営みを続ける自然のたくましさとともに、
その美しさに清々しさを感じました。
地域住民の心の拠り所であるこの森に、以前のような穏やかな日が一日も早く訪れますことを
心からお祈り申し上げます。
去る4月26日、
雨の中、大好きな飛行機に乗って向かったのは・・・
晴れの東京!
第68回神道青年全国協議会第68回定例総会へ出席致しました。
開会式の後に行われた定例表彰式にて、
当会ホームページが優秀広報賞に選ばれました。
残念ながら”最優秀”とはなりませんでしたが、大変名誉な賞をいただきました。
今後大きな課題となるであろう次世代への引継ぎを考慮しながら、賞に恥じぬよう
更なる充実を図りたく存じます。
定例表彰の後は総会。
予定されていた全ての議案は滞りなく承認されました。
平成二十八年度定例総会決議
我々青年神職は第六十八回定例総会に当たり、万世一系百二十五代に亘る
皇室の尊厳護持活動はもとより、第一代神武天皇御創業の古に想いを馳せ、
爾来我が国に連綿として受け継がれてきた八紘為宇の大御心を広く教化し、
長年の宿願である自主憲法制定の機運醸成の為に、若き情熱を結集して、
平成の大御代の国造りに邁進することを期する。
右、決議する。
平成二十八年四月二十六日
神道青年全国協議会第六十八回定例総会
総会終了後は、
先の熊本地震においての、被災地状況報告が行われました。
熊本県神道青年会、大分県神道青年会が状況を報告されました。
言うまでもなく全会員が一丸となって、被災神社支援に対応することとなりました。
さらに場所を変えて、
神青協役員と九州協理事にて、今後の支援活動に対する協議がなされました。
会議の中で、阪神大震災、東日本大震災発生時の対応や課題が例としてあげられ
その言葉は、今後の活動においての大きな参考となりました。
全日程終了後に、九州地区のメンバーで酒を酌み交わしました。
中締めの挨拶をお願いしたのは熊本県の方でしたが、途中で涙を見せられました。
先程まで普段通りに話をされていたのですが、現在の状況が如何に大変なものかを
感じました。
如何に心を寄せても、こればかりは経験した本人にしか分からないものです。
良いも悪いも様々な情報が溢れていますが、大切なものは現地の声。
その声にしっかりと耳を傾け、微力ではありますが復興に向けて支援を続けて
参りたく存じます。
去る4月20日、午後3時30分
宮崎神宮と護国神社へ
正式参拝の後、
午後4時30分より当会第67回定例総会を開催致しました。
開会に先立ち、今回の熊本地震にてお亡くなりになられた方々と、1月26日にご逝去された
野迫前会長をお悔やみ申し上げ黙祷を捧げました。
今回は約30名参加のもと、滞りなく全ての議事が承認されました。
本年度新入会員。
自分が歳を重ねたことをしみじみと実感いたしました・・・
会長挨拶
本日は当会第六十七回定例総会のご案内を致しましたところ、ご参加いただき誠にありがとうございます。
また、宮崎県神社庁庁長、鵜戸神宮宮司、当会第十代会長、本部雅裕様、同じく副庁長、今山八幡宮宮司、当会第十六代会長伊藤俊郁様には、ご多忙の中にも拘わりませずご列席を賜り誠にありがとうございます。
さて、ご承知のとおり野迫武士前会長が去る一月末に帰幽されました。本来であれば、本日で卒会、まだまだこれからやりたい事も多くあったでしょう、まだまだご指導を賜りたかったのですが、非常に残念で仕方ありません。これからは幽世から見守っていただけることと思います。謹んでお悔やみを申し上げるばかりでございます。
また去る四月十四日、熊本県益城町を震源として熊本地震は発生し、今なお余震が続いております。阿蘇神社をはじめ多数の神社においても、ご社殿、灯籠等の倒壊が相次いで報告されています。そんな中熊本大神宮では、月次祭が、社殿ではなく境内において、毎月通り四月十七日に斎行されたようです。
ここで、大東亜戦争終結当日の宮崎神宮日誌に書かれていたことを、ご紹介致したいと思います。日誌には次の様に書かれています。宮司は県より終戦の事実を知らされると全職員を集め「自分らが神職であることを自覚せよ、また、今後どのようにして大神さまの御心に添い奉るかを各々充分に考へてその結論を報告せよ」。私は最初にこの日誌を目にした時、恥ずかしながら、その結論に辿りつくことはできませんでした。しかしながら、昨年の大東亜戦争終結七十年事業や今回の熊本地震を通して、その結論は、やはり祭ではないかと考えるようになりました。
私の好きなテレビ番組に、毎週NHKで放送されている「プロフェッショナル~仕事の流儀」というものがあります。仕事で悩んでいる時に見ると、非常にやる気が湧いてくる番組です。大変オススメですので、是非ご覧いただければと思います。その番組では様々な仕事の方が登場され、その思い、そしてどのような職業に対しても高いプロ意識を感じることができます。
我々も、言わばプロ、プロの神職であります。つまりこの宮崎県神道青年会はプロの集団なのです。各々が組織の常識に染まった「良き組織人」になるのではなく、とがっていてもいい、自分の個性をなくさないでいただきたく存じます。個性を失った集団からは、新しいものは生まれません。全会員が遠慮せず本音をぶつけ合い、納得いくまで話しあい、様々なことに挑戦していきたく存じます。
私の大好きなサッカー選手、四十九歳を迎えた今もなお、現役でプレーを続けるキング・カズこと三浦知良選手の言葉があります。
「苦しまなければ、喜びはない」
共に苦しんでまいりましょう。
本年度もどうぞ宜しくお願い致します。
去る3月7日、
初めてピーチの飛行機に搭乗し、
大阪を経由し、
奈良県の
橿原神宮へ行って参りました。(橿原神宮についてはこちら)
本年は神武天皇様が橿原宮で御崩御されてより、二千六百年の節目にあたります。
その記念事業の一つとして、御創建にあたり明治天皇様より御下賜された京都御所の
内待所であった国の重要文化財である御本殿の御屋根葺替え工事をされたそうです。
工事中、神様はどうされてるの?なんて思いません??
工事中は仮の御殿にお遷りなさるのです。
この際のお祭りが、仮殿遷座祭(かりでんせんざさい)。
そして工事終了後、本殿に再びお遷りなさるのです。
この際のお祭りが、本殿遷座祭(ほんでんせんざさい)。
このお祭りの斎行にあたっての出向となりました。
しかも今回は参列のみではなく、
恐れ多くも、午後7時からの遷座の儀にご奉仕させていただきました。
当会の他にも奈良県神道青年会、大阪府神道青年会の方々が来られていました。
今回の奉仕は、神武天皇様ゆかりの奈良県、宮崎県の両神道青年会の間で締結された
姉妹神青がきっかけでありました。(姉妹神青についてはこちら)
橿原神宮様の格別なるお取り計らいをいただき、恐らくは一生に一度の、大変貴重な
ご奉仕をさせていただきました。
宮司様をはじめ、職員の方々に衷心より厚く御礼申し上げます。
浄闇のなかでの「本殿遷座祭遷座の儀」、
また、翌日の天皇陛下より御幣帛を大前に奠じての「本殿遷座祭奉幣の儀」が
恙なく斎行されましたこと、心からお慶び申し上げます。
また御崩御の日にあたる4月3日には、神武天皇二千六百年大祭が斎行されるようです。
祭典の御盛儀を祝し、謹んで大前を拝み奉ります。
このお祭りは、御祭神を同じくする当県の宮崎神宮においても斎行されます。
午後からは流鏑馬も斎行されるそうです。
宮崎神宮はもとより、県内には神武天皇ゆかりの神社が多数鎮座されています。
(詳細はこちら)
当日は、我が国建国の祖神様であります神武天皇様をお偲びし、現在の我々があることに
感謝の気持ちを持って、是非お参りいただければ幸甚に存じます。
昨日3月11日で、東日本大震災より5年の月日が流れました。
当会では、各地区に時間と場所を一任して、御霊をお慰めすると共に復興の祈りを捧げました。
宮崎市の会員は、午後7時より江田神社において斎行致しました。
大祓詞奏上 宮崎市は11名の参加でした。
また、福島県神道青年会様が平成27年に発行された冊子を拝見させていただきました。
福島県神道青年会様には、去る平成26年夏に宮崎県へお越しいただいております。
(様子はこちら)
冊子の中の「会員の四年間」という頁には、宮崎へお越しになられた会員さんも寄稿されており
じっくりと読ませていただきました。
あの時の笑顔の裏には、想像もつかない思いがあったことを実感致しました。
福島の子供達からいただいた、当時の絵日記も読み返しました。
あれから1年8ヶ月・・・
詞心ちゃん、結ちゃん、拓巳くん、天くん、心ちゃん、英梨香ちゃん、陽菜ちゃん、純樹くん、蒼平くん、
元気にしていますか?
なかなか、福島に行ってお手伝いすることができなくてごめんなさい。
おじちゃん達は、みんなのふるさとが一日も早くもとの姿に戻ることを遠くから祈っています。
去る3月2日、大東亜戦争終結七十年事業として、県内の護国神社、慰霊碑を巡拝致しました。
趣旨
平成二十七年は大東亜戦争終結七十年の節目にあたり、全国において英霊顕彰事業が執り行われた。当会においても、県内護国神社並びに戦没者忠霊塔慰霊碑に、会員各々が現地に足を運び調査活動を行い、一冊の本にして発刊すべく準備を進めている。
この調査により、我々が住む地域からも家族と故郷を護るために戦地へ赴き、散華した御霊が数多おられることを改めて認識することとなった。また健在の遺族より、今なお忘れられない当時の記憶を聞くことができたのは、非常に貴重な経験となった。
しかしながら、終戦より七十年もの長き年月が流れた現在においては、遺族は減少し、戦争を知らない世代が大半を占め、御霊への慰霊と顕彰の念を継承することが困難になっている。今回の調査で地区慰霊祭の減少、中断、慰霊碑統合等の現状も垣間見ることができたのも事実である。
もとより神職の本分は祈りである。地区会員が一同に集い、巡拝を行うことで神職として祈ることの意義を再認識していただきたい。そしてさらには、遺族をはじめ地域住民の英霊に対する永遠の祈りに繋がることを願い、本事業を開催する。
当日は全員揃っての巡拝は難しいものがありますので、各地区において地区会員で
地区の慰霊碑等を巡拝していただきました。
県北地区 10ヶ所
児湯地区 10ヶ所
宮崎地区 25ヶ所
都城地区 18ヶ所
南那珂地区 18ヶ所
県内全慰霊碑とはいきませんでしたが、合計で81ヶ所をお参りさせていただきました。
日程は各地区に一任。早い地区は午前7時からの巡拝となったようです。
宮崎地区の昼食は、全員日の丸弁当。当然おかず無し!
普段は一口で食べてしまう梅干しも、この日ばかりはちびりちびりといただきました。
おそらく戦時中のお米は、今ほど美味しくなかったはず。
むしろ、お米すら食することが少なかったと思われます。
冷たいお米を噛みしめながら、改めて考えさせられる昼食となりました。
そして各地区巡拝を終え、午後6時に宮崎県護国神社に集合。
皆で御霊安かれと祈りを捧げました。
とある慰霊碑前の広場でサッカーをしている高校生に出会いました。
高校生達は、白衣で歩く私たちを見て「邪魔にならないですか?」と気遣ってくれました。
「大丈夫ですよ~」と言いながら、祈りを終えると、帰り際に高校生達が
「何の職業ですか?」と聞いてきました。
「どっからどう見ても神主やろ~!」と答えると、
「ふ~ん、そういう事をするのが仕事なんですね~」と不思議そうにしていました。
確かに仕事だ。
端から見れば、神主とは普段何をしているのか分かりづらい職業であります。
本事業の趣旨にもあるように、我々神職の本分は祈ることなのです。
戦時中においても神社の祭は執り行われていました。
空襲等の影響で予定されていた時間とは変わっても、欠かさず祭は行われており
言わば命がけで祈っていたのであります。
終戦当日のこんな話を聞いたことがあります。
宮司は県より終戦の事実を知らされると全職員を集め
「自分らが神職であることを自覚せよ、また、今後どのようにして大神さまの御心に
添い奉るかを各々充分に考へてその結論を報告せよ」
との話であります。
当時の神職がどのような答えを出したかは分かりませんが、この質問に答えることができる
青年神職が果たしてどれほどいるのであろうか・・・
これまでの、さらにはこれから先の奉仕を通して、その答えを見つけ出していただければと
思います。
寒い日が続きますが、立春を過ぎ季節はいよいよ春へと移り変わろうとしています。
この季節といえば、受験。
去る1月16日、17日には大学入試センター試験も行われたようで、報道や新聞を見ながら
約20年前を思い出し、懐かしんでおりました。
神社では受験生をはじめ、親御さん等の合格祈願に来られる方々をよく見かけます。
学問の神様で全国的に有名であるのは、やはり「菅原道真公」。
菅原道真公は・・・
こちらをご覧ください<(_ _)>
宮崎県内の天満宮といえば、
宮崎市谷川に鎮座する
宮崎天満宮がございます。詳細はこちら
合格のお祈りした受験生も、多いことと思います。
宮崎県は1社だけ???
と、思われる方もいらっしゃるでしょうが、
県内には「天満宮」と名の付く神社はおそらく1社ですが、菅原道真公をお祀りする神社は
天満神社、天神社など多数ございます。
特に延岡市の北川町や北方町に多く鎮座されています。
何で地域地域に学問の神様?
と、宮巡隊視察時に思いましたが、もうひとつの御神徳をご存知でしょうか?
菅原道真公は、藤原時平らの策略により九州太宰府へ左遷されました。
菅原道真公がお亡くなりになられた後、洪水、疫病などが続いて起こり、左遷に関わった
人々が次々に亡くなったそうです。
さらには、都にある時平邸に雷が落ちる事件も起こり、人々は菅原道真公の怨霊が
雷になられたと恐れたそうです。
そのような事から、雷除けの御神徳もあるようです。
神様は同じでも、地域に根付いた御神徳をお持ちであることを忘れないでくださいね。
さて、いよいよ大学の2次試験、高校入試等が始まりますが、
是非とも、お住まいの地域の神社”氏神さま”にもお参りください。
神様はきっと
「お~小さい頃から見てきた、どこどこの誰々も、もう受験の歳か~」
などと思われ、自分が積み重ねてきたものの上に、そっとお力を与えてくれ、
見守っていただけることと思います。
「受ける前から落ちる話すんな!」
と思われるでしょうが、仮に受からずとも、そこから新たな人に出会い、新たな経験を積み
人生の糧になることは間違いありません。
私もあの頃は、偏差値の割に浪人したくない、受かりたーいの一心でしたが・・・
インフルエンザ流行とのことですが、受験生の皆様には先ずは十分に体調管理に留意されて
万全の状態で試験に臨み、それぞれに桜が咲くことお祈り致します。
最後になりますが、受験後にはお願いした神様のもとへ。
お願いするばかりではいけませんよ。
ちゃんと報告をしてください。
どちらにせよ、きっと笑顔で迎えてくれますよ・・・
去る10月18日。
空路東京へ。
翌朝は懐かしの山の手線ラッシュアワーをくぐり抜け、
東京都千代田区九段北に鎮座の靖國神社へお参りさせていただきました。
目的は何かと申しますと、
靖國神社秋季例大祭第三日祭参列の為です。
言うまでもなく靖國神社には2,466,000余柱のご祭神がお祀りされていますが、
そのうち大東亜戦争で戦没された英霊は2,134,000柱に及びます。
毎年当会に祭典のご案内をいただいておりましたが、なかなか参列が叶わぬ状況でした。
しかしながら本年は大東亜戦争終結七十年の節目ということもあり、奉務神社には無理を
承知でお願いし、有難く参列させていただくこととなりました。
午前10時祭典開始。
国歌斉唱の後、内陣(ないじん)の御扉(みとびら)が開かれました。
普段は閉じられており、大きな祭の際などに開かれる御扉。
このことを開扉(かいひ)と言いますが、私はどの神社の祭に参列しても
開扉の際は鳥肌が立ちますが、今回はかつて経験したことのない鳥肌が。
特に顔面を覆うの鳥肌は初めてのことで、何故だか涙が溢れました。
祭典中ふと数年前に他界した祖母のことを思い出しました。
祖母の父が靖國神社にお祀りされており、参拝を願って止まなかったそうです。
終戦より月日は流れ、祖母もだいぶ年を数えてではあったものの、私の父母にともに
お参りでき、私の想像ですが大変喜ぶというか、ほっとされたに違いありません。
婆ちゃんの父、つまりは私の曾爺ちゃん。
出会ったことはありませんが、確かな繋がりを感じることができました。
人が何かをする時期には、何かしらの縁があると考えます。
英霊は
「お前には何も期待してないよ」「お前ごときに何ができるのか」
と、仰るのかもしれませんが、不肖私がこの節目に宮崎県神道青年会会長という重責を
担うことになったのは縁であると勝手に信じ込み、大東亜戦争終結七十年記念誌の発刊等
会員が一丸となって英霊顕彰事業を進めていきたいと思います。
富士山を最後に眺めながら、戦場へと向かった英霊もおられることだろうと思いながら
帰路につきました・・・
靖國神社の歌
獻納 主婦之友社
作詞 細淵國造
作曲 陸海軍樂隊
一
日の本の 光に映えて
盡忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
あゝ大君の 御拜し給ふ
滎光の宮 靖國神社
二
日の御旗 斷乎と守り
その命 國に捧げし
ますらをの 御魂鎭まる
あゝ國民の拜み稱ふ
いさをしの宮 靖國神社
三
報國の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
淸らけき 御魂安らふ
あゝ同胞の 感謝は薰る
櫻さく宮 靖國神社
四
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇國は 永遠に嚴たり
あゝ一億の 畏み祈る
國護る宮 靖國神社
すべてはここからはじまりました。
東諸県郡綾町古屋地区
4月27日 畦作り
5月 1日 御神田清祓併播種祭(詳細はこちら)
5月10日 耕耘
5月19日 肥料散布
5月23日 荒代あけ
5月25日 中代あけ
5月27日 植代あけ
5月27日御田植祭(詳細はこちら)
8月19日 風鎮祭併除蝗祈願祭(詳細はこちら)
約5ヶ月の時を経て、
去る9月29日、当会御神田行事抜穂祭を斎行致しました。
当日はまさかの雨
準備も普段の倍以上に手間取りました・・・
梅雨の長雨、秋には台風の襲来もありましたが、たわわに実りました。
献饌(けんせん)・・・神様に神饌をお供え致します。
斎主玉串を奉りて拝礼。
斎主の鳥原会員には、御神田清祓より4回にわたる祭典をお務めいただきました。
雨は一向に止まず・・・
刈り女、地元綾中の生徒、当会会員にて
雨天ということで一部を刈り取るのみとなりました。
御陰をもちまして、第35回献穀御神田行事の一切を滞りなく斎行することができました。
最もご苦労をおかけしました田長(兼田主)の押田様、
今回のために発足していただいた御神田行事綾町協力会、
直会のおにぎり作り、諸準備をしていただいた婦人会、
早乙女、刈女のご奉仕をしていただいた地元の女性の方々、
今回担当いただいた当会宮崎ブロック会、
数え上げればきりがありませんが、
ご協力いただいた皆様方に衷心より厚く御礼申し上げます。
米作りの大切さは勿論のことながら、様々な方と触れあう非常に貴重な経験を
させていただく祭典であると改め感じました。
収穫したお米は、伊勢の神宮、宮中、靖國神社、県内鎮座の約650のお社、
さらに本年は大東亜戦争終結七十年にあたりますので、全国の指定護国神社へ
お供えさせていただきます。
最後になりますが、氏神さまの入野神社を中心に綾町古屋地区が益々に栄えますことと、
関係各位のご健勝を心からお祈り致します。
本当にありがとうございました。
前回の続き(前回はこちら)
6月26日。
朝拝、朝食を済ませてペリリュー島へ向かいました。
約1時間の船旅でした。
到着後は明らかに日本で使用されていたと思われるバスで移動。
ペリリュー島は南北約9km、東西約3kmの小島であります。
日本はこの島を死守するために、歩兵第二連隊を含むおよそ一万人の部隊を派遣。
島中に洞窟陣地を張り巡らせていました。
旧日本軍はペリリュー島での無謀な突撃を禁じ、兵士らは洞窟に身を潜めて持久戦に
徹したといわれます。
アメリカ軍は火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器を投入しましたが苦戦。
当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は、2ヶ月半に及びました。
アメリカ海兵隊の最精鋭部隊と言われる第一海兵師団第一連隊の死傷率は、
史上最も高い約60%。
そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られることがなかったため、
「忘れられた戦場」と呼ばれています。
到着後は白衣白袴に改服し、
先ずは戦没者慰霊碑へ。
拝礼
パラオ諸島の守備隊の将兵であり、第二連隊隊長中川州男中将顕彰碑。
昭和19年11月24日午後4時。
「サクラサクラ」。
軍旗も機密書類も焼却したこと、つまりはペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく
散ったことを意味する同氏最後の電文でありました。
大本営は昭和19年12月31日ペリリュー島守備隊全員戦死と認定しました。
しかし、命ある限り戦う決意に燃える将兵、山口少尉以下34名(陸軍22名、海軍8名
軍属4名)は分散ゲリラ活動を行い、終戦を信ずることなく持久戦に徹し遊撃戦を続行。
約2年6ヶ月湿地周辺の豪に潜伏していましたが、昭和20年8月15日、日本軍の終戦を
知り、昭和22年4月21日、米軍に帰順、昭和22年5月15日横浜港に34名生還した
そうであります。
日本軍司令部跡地。
天上の穴は爆撃よるものだそうです。
日本軍95式戦車。
他は撤去されたそうですが、戦争の歴史を忘れない為に一台だけ残したそうです。
パラオ諸島唯一の大型飛行機が着陸できる「東洋一」と言われた飛行場滑走路。
昭和19年9月15日、アメリカ軍が上陸を開始したオレンジビーチにて黙祷
西太平洋戦没者の碑
碑文
「さきの大戦において西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび
平和への思いをこめてこの碑を建立する」
本年は大東亜戦争終結より七十年の節目を迎えますが、以前から戦争体験者、戦歿者遺族の
減少が叫ばれています。戦争を知らない世代が大半を占める現在において、我々神職の為すべ
き役割は何なのか、漠然とではなく明確に考える必要があると考えます。
今を生きる我々は、先人達への感謝の気持ちを決して忘れてはならないことは当然です。
そしてその思いを継承する為にも、先ずは何よりも現地へ足を運び、知ることが大切だと考えま
すので、今回の慰霊祭は非常に貴重な経験となりました。
我々神職は全国民が等しく英霊に慰霊の誠を捧げる日が来るよう、
諸活動に邁進するのみであると思います。
アンガウル島遙拝