宮崎神青ブログ - sashiさんのエントリ
◯六月灯◯
「神輿」 御年神社
「灯籠」 御年神社
「ダンス」 御年神社
旭丘神社
「灯籠」 旭丘神社
◯苗代田祭(ベブがハホ)◯
写真②
写真③
写真④
◯御田植祭◯
写真②「棒踊り」
◯弥五郎どん◯
写真②
写真③
写真④
写真⑤
◯牛越祭り◯
写真②
写真③
◯高木あげ馬◯
〇花木あげ馬〇
当日は稚児宅で神事の後、献上馬の上に稚児を乗せ、南方神社に向けてあげ馬行列が行われます。神社到着後神事が行われ、その後神楽が上演されます。県内においては、諸県地方にしか残っていない貴重な文化財であり、平成六年二月二十五日に県指定無形民俗文化財に指定されました。四年に一度の行事で、2019年には花木地区の住民ら約90人が着飾って大名行列を組み、南方神社まで約1.2キロを練り歩きました。
由来:古来より、霧島盆地内には戦勝と、その成就、五穀豊穣などを祈願して、神社に鎧、兜、刀、槍、馬、穀物などを奉納したり、土地や祭米を寄進するなどの風習がありました。このあげ馬祭は地区の鎮守である南方神社(旧諏訪神社)に奉納するものです。あげ馬「献上馬」とは、都城北諸県地域にある諏訪神社のみに伝えられてきた大名行列の様子を模した祭りと言われています。1591年島津家君主が島津家崇拝の諏訪神社に戦勝祈願し、帰国後そのお礼参りのため、大名行列を仕立てて諏訪神社に馬を献上し神楽を奉納したのが起源と言われています。その後、第十七代島津藩主の島津義弘の戦勝を称え、都城北諸県地域の四つの神社(高木町、高城町桜木と穂満坊、山之口町花木)の例大祭に余興として「あげ馬」を奉納。以後、三百年余り継承されています。山之口町のあげ馬は一時途絶えたが、地元に保存会が結成され、1991年に復活しました。
時期:七月(四年に一度)
神社:南方神社(都城市山之口町花木鎮座)
写真②
写真③
写真④
写真⑤
写真⑥
〇神門御神幸祭(比木神社)、師走祭(神門神社)〇
児湯郡木城町に鎮座の比木神社に祀られている百済の王族福智王が、父である禎嘉王と対面するために、東臼杵郡美郷町鎮座の神門神社を訪れる祭。比木神社から神門神社までの行程は約九十キロ。従来は九泊十日かけて行われていたが、現在は車で移動を行い、二泊三日の御神幸となっている。道中では百済王伝説に因む祭事が各所で行われる。袋神(別御魂)を奉持し比木神社を出発し金ヶ浜で禊、その後伊佐賀神社で出迎えの神門側と合流し祭事を行う。その後、禎嘉王の墓と伝えられる塚の原古墳を三周し、神門側の先導により神門入り。この際畑や畔に火を放ち野焼きを行う。これは、敵の目をくらます為野に火を放ったという故事に因むものと伝えられている。神門神社にて神事・直会が催され、両祭神を本殿に奉鎮する。二日目は神門神社御神体の衣替えを執り行う。その後、土地の豪族どん太郎の塚でお礼参りの神事が執り行われる。その後も、山宮さま、洗濯の神事が執り行われ、夕方から直会・神楽が奉納される。三日目は朝から別れの行事が進められ、比木側からの先導で御還幸の行列が動き出す。別れの悲しみを笑って隠す、へぐろ(一時は白粉の時も)塗りが夫々の顔に施される。比木側の一行が遠く去りゆく際に「おさらば」の掛け声と共に炊事道具などを手に高く持ち、高く振って互いに別れを惜しみつつ比木側の一行は御還幸する。
由来:天平勝宝八年(756年)、百済国内の内乱の為、父の禎嘉王と共に日本に逃れた福智王が、追ってより逃れる為安芸国から九州へ向かったが、途中嵐に遭い禎嘉王は日向國の金ヶ浜(日向市)、福智王は蚊口浦(高鍋町)に漂着した。それぞれ向かうべき土地を占ったところ禎嘉王は西方八里ほどの場所が良いと出たので、そこに向かいついた場所が神門であった。福智王は西方の比木という地が良いと出たのでそちらに向かった。やがて禎嘉王の元に再度追手が迫り戦いとなった。伊佐賀(旧南郷村)の戦いは最も激しく、王の次男である華智王は戦死、禎嘉王自身も流れ矢により亡くなった。福智王も急報を受け、神門に入り父を助け戦ったが苦戦を強いられ、土地の豪族どん太郎の援軍や支援のお陰で、追手を撃退する事が出来たという。その後禎嘉王は神門神社に、福智王は比木神社に祀られる事となった。祭りはこの福智王が父の危難を知って神門へ赴いて対面したという故事にならい始まったとされる。
時期:一月下旬の金曜~日曜日
神社:比木神社、神門神社
(木城町ホームページ http://www.town.kijo.lg.jp/event-gyouzi.html)
写真②
写真③「おさらば~」
写真④「夜神楽」
〇ししとぎり〇
〇更衣祭〇