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宮崎神青ブログ - その他カテゴリのエントリ

知っちょる?宮崎の祭⑯

カテゴリ : 
その他
執筆 : 
sashi 2022-2-15 18:53

 

 

 

〇猪掛祭〇

 

その年に取れた初猪一頭と忌火で炊いた米を献じ、荒ぶる神がもたらす早霜などの自然の災いを鎮め、五穀の豊穣を祈念する祭事。

 

由来:神代の昔、高千穂郷一帯を荒らしまわっていたところを高千穂神社御祭神に祭られる三毛入野命(みけいりのみこと)によって退治された鬼八荒神(きはちこうじん)の御霊を鎮めるために始まったとされる祭祀。最初の頃は一六歳未満の少女を生贄としていた記録が残っているが、戦国時代より、鬼八荒神の好物とされる猪を供えられるようになったため「猪掛祭」と称されている。 当時、この祭りに猪を献じるきっかけとなった三田井家家臣・甲斐宗摂公の居城があった現日之影町岩井川の狩場で獲れた初猪を毎年丸のまま献じている。 祭典で奉納される”笹振り神楽”は高千穂の夜神楽の原型とも言われ、狩猟祭祀と神事芸能が融合した地域色豊かな祭祀である。

 

時期:旧暦十二月三日

 

神社:高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井鎮座)

 

写真②

 

写真③

 

写真④

知っちょる?宮崎の祭⑮

カテゴリ : 
その他
執筆 : 
sashi 2022-2-14 20:09

 

 

 

〇十五夜祭〇

 

八幡神社の例祭とともに、地元の民(奉賛会)によって五穀豊穣への祈りと収穫への感謝を込めた祭りが現代まで引き継がれている。 八幡神社で例祭の神事が行われた後、御神幸が行われる。各地区の御旅所をまわり、宝蔵ヶ島(ほぞがしま)でお礼参りの神事が行われた後、幸福神社で一夜お泊りになる。翌日も御神幸が行われる。 同時に商店街の沿道には、露天商が立ち並び賑わいをみせる。道の真ん中は神輿が練り歩き、笠をかぶった踊り子たちが、十五夜音頭に合わせて華やかに踊る。また商店街の数か所に見立細工が飾られる。以前は農閑期に農家が作成した傘や下駄を祭で売っていたことから「傘まつり」「下駄まつり」とも呼ばれていた。

 

由来: 元暦年間(1184~1185)に壇ノ浦の戦いの後、椎葉に落ち延びた平家一族の討伐に、工藤祐経(くどうすねつけ)と那須与市宗高(なすのよいちむねたか)が鶴岡八幡宮より勧請して八幡神社を建て、兵の士気を鼓舞したのが始まりと言われている。 鶴岡八幡宮の例祭に合わせて旧暦八月十五日の満月の日に行われることから『十五夜祭(じゅうごやさん)』と呼ばれている。 戦から帰る際、敵に追われたところを龍に救われたという故事に基づき、お礼参りを行うことが御幸の目的とされている。 昔は川の中洲に祠があり、この中洲を「宝蔵ヶ島(ほぞがしま)」と呼んでいた。敵に追われ川に追い詰められた時に、川から龍が川底から現れ背中を渡るように勧めるが、龍を恐れ躊躇している間に龍は川底にもぐってしまった。龍はやがて自らの背に巻貝をつけ飛び石のように見せることでその背を渡ることを促し、無事に川を渡って逃げることが出来たと伝わっている。 この御幸の際のお神輿を街中に招き、五穀豊穣、商売繁盛を祈願したものが奉賛会の行う「十五夜祭り」である。「十五夜祭り」は宮崎の県北三大祭りと言われているが、飢饉が続くなどして中断されたことがあり、江戸時代、日本地図を作っていた伊能忠敬(いのうただたか)が測量中この地に宿泊した際の記録にも、「この地の名物は『十五夜祭』ですが、最近は神事のみで寂しいものです。」との記録が残っている。やがて、祭を復活させて商売繁盛を祈願したいとの奉賛会の願いを時の代官が聞き届けて復活されたとされている。

 

時期:十月第二月曜日

 

神社:八幡神社(宮崎県日向市富高鎮座) https://www.hachiman-chico.jp/

 

写真②

 

知っちょる?宮崎の祭⑭

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その他
執筆 : 
sashi 2022-2-13 19:55

 

〇師走祭〇

 

初日(上りまし)福智王(ふくちおう)を祀る比木神社の神職・氏子らは神門神社を目指し出発する。途中、父禎嘉王(ていかおう)が漂着したとされる金が浜で禊を行う。同刻神門神社一行は東郷町伊佐賀神社まで迎えに行き、伊佐賀神社にて一年ぶりの再会を果たす。その後一行は神門神社へと向かう。 二日目は、午前中に川に降り、洗濯岩と呼ばれる岩の前で神事を行い、神社に戻り御神体の衣替え神事が行われる。その後地元の豪族が祀られるドンタロ塚でも神事を行う。日が暮れると、神社にて神楽の奉納が夜中まで行われる。 三日目(下りまし)いよいよお別れの時が近づき、皆は悲しみを隠すために顔にへグロを塗り合う。その後比木神社一行は帰路に就く。見送る神門一行は、「オサラバー」と言いながら、家財道具を振って見送る慣わしとなっている。

 

由来:西暦660年、朝鮮半島の百済(くだら)が唐、新羅との戦いに敗れ、日本に亡命し父の禎嘉王(ていかおう)は日向市金が浜に辿り着いた後、美郷町南郷神門に落ち延び、息子の福智王は高鍋の浜に辿り着いた後、木城町に落ち延びたと伝えられる。 二人が亡くなった後、いつの頃からか村人が神として祀る様になり、息子である福智王を祀る比木神社から、父親の禎嘉王を祀る神門神社まで約90㎞の道のりを越えて、年に一度の親子の対面行事として、師走祭が続けられている。

 

時期:一月第三金・土・日

 

神社:神門神社(美里町南郷神門鎮座)

   比木神社(木城町鎮座)

知っちょる?宮崎の祭⑬

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その他
執筆 : 
sashi 2022-2-13 19:47

 

 

〇おきよ祭り〇

 

宮崎県日向市美々津町において、八朔の日(旧暦の八月一日)に行われている神武天皇御東遷に因んだ祭りである。毎年、美々津小学校の児童が午前4時に立磐神社の境内に集まり、御祓いを受けた後、短冊などの飾りを付けた笹竹を持って、町内の家々の戸を叩いて起こして回る。その際、「おきよー(起きよー)、おきよー(起きよー)」という掛け声を出す。祭りの後、児童たちは米粉と小豆を蒸してつき上げた「つきいれ」を食べる。

 

由来:神武天皇が美々津港より御舟出するにあたり、御舟出の日を旧暦の八月二日と決めて準備を進めていた。しかし、八朔(旧暦八月一日)の午前二時頃、遠見の山(現・日向市幸脇)の見張り番の知らせにより、風向きや潮の流れが良いので今から舟を出航させるということになった。「今から舟を出すぞー、美々津の者たち起きよ、起きよ」というお布れがあり、驚いた美々津の村人たちは急がねば御舟出に間に合わないという事で、「起きよ、起きよ」と家々の戸を叩いて起こして回った。この伝説に因み、「おきよ祭り」が連綿と受け継がれている。なお、美々津の女性たちが二日の御舟出の際に献上する予定で準備していた米粉と小豆の団子は、団子にする暇がなく、それらを混ぜ合わせて捏ねたものを蒸して臼でつき、急ごしらえの団子らしいものを作って献上したとされている。これを地元では「つきいれ」と呼んでいる。

 

時期:旧暦の八月一日(八朔の日)

 

神社:立磐神社(日向市美々津町鎮座) https://www.tateiwajinja.jp/

 

写真②

 

写真③

知っちょる?宮崎の祭⑫

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その他
執筆 : 
sashi 2022-2-11 18:32

〇日向の弥五郎人形行事〇

 

田ノ上八幡神社例大祭御神幸祭に、竹籠を編んだ一丈半以上の巨人人形(弥五郎様)を、四輪車子どもたちが先導役として曳く。現在では約八メートルの弥五郎様本体は、例祭時には社殿前に飾り、股の下を歳の数ほど潜ると無病息災の御神徳があると伝わっています。

 

由来:『日向地誌』によると、大隅国桑原郡に稲積弥五郎というものがおり、その地の一宮八幡の御神体を背負い来て、楠原八幡原に祀ったといいます。 大和朝廷が制定した「養老律令」は、隼人(弥五郎)にとっては、中央から派遣された官僚に支配されることは 大変な屈辱でした。養老四年二月二十九日大隈、日向の隼人らは初代大隈国守を殺害、反乱を起こしたが、政府軍の前に戦死、捕虜となった。養老七年宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、松隈に埋めたといいます。その後、宇佐地方では作物の不作、疫病が流行し、これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報いだ」として、隼人族の怨霊を恐れた大和朝廷は全国で放生会を行わせました。 放生会の名残の一つが、南九州の八幡神社で行われている弥五郎祭事であり、南九州の隼人が、独自に創出した思いを託す巨大人形であると伝えられています。

 

時期:毎年十一月第二日曜日

 

神社:田ノ上八幡神社 (日南市飫肥鎮座)

 

写真②

 

写真③

知っちょる?宮崎の祭⑪

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その他
執筆 : 
sashi 2022-2-11 18:27

 

 

〇福種子下ろし(ふくだねおろし)〇

 

『日向国風土記逸文』にて瓊瓊杵尊が「籾を四方に投げ散らす」神事になぞらえ、紀元節を寿ぎ、五穀の豊穣と地域の安寧を祈る祭りです。

 

由来:福種子下ろし(ふくだねおろし)の神事は、『日本書紀』 巻第二所謂「斎庭の穂の神勅」にて皇孫瓊々杵尊に稲穂が授けられた神事、そして『日向国風土記逸文』の瓊々杵尊が四方へ籾投げ散らした神事が由来とされています。 四方に蒔く神事の所作は『日向国風土記逸文』にて瓊瓊杵尊が「皇孫尊、尊き御手以て 稲千穂を抜きて籾とし、四方に投げ散したまはば・・・」と、籾を四方に投げ大御神の御光を四方に照らした神事が伺え、この故事が由来と考えられています。 福種下しの神事では籾を投げる際に「種蒔之記」という福種の由来を説く歌を奏して種子を蒔きます。この歌に霧島信仰を伺う記述があり、稲穂を携え高千穂の峰を登拝した山岳信仰の影響が南那珂地域に流れ、潮嶽神社のみならず、日南市東郷地区に鎮座する大宮神社にも種蒔き神事が斎行され、南那珂地区で伝承されていた神事ではないかと考えられます。 投げられた「籾」は神の神意が宿り、農業をする人は稲の苗代にして田の豊作を祈念し、漁師においては船霊の神に捧げ、海上安全・大漁満足祈願に、また一般家庭では家内安全・子孫繁栄の象徴とされます。 信心の厚い氏子・崇敬者によって競い合うように拾われるこの神事は、賑やかに執り行われ、当日は集落の住民がこぞって神社に集う、まさに地域の風物詩となっています。

 

時期:二月十一日

 

神社:潮嶽神社(うしおだけじんじゃ) (日南市北郷町鎮座)

 

写真②

 

写真③

知っちょる?宮崎の祭⑩

カテゴリ : 
その他
執筆 : 
sashi 2022-2-10 13:53

 

〇別当宮司先賢慰霊祭〇

 

歴代別当の墓前、歴代宮司の慰霊碑前にその遺族が参列し、宮司の御霊なごめの祝詞の次には、関係寺院の住職による読経が続くという、神仏習合時代さながらの風景が繰り広げられます。この鵜戸山を守り、その発展に寄与された師徳を慕い、功績を称えるものです。

 

由来:奈良時代後期の延暦元年、光喜坊快久が勅命により荒廃した神殿、仏寺を再興して勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜ったといいます。この僧侶が当山の第1代別当です。別当とは『延喜式』に「凡そ諸寺、別当を以て長官と為す」とあるように、一山の寺務に専任する長官で、奈良時代以降大きい寺院に置かれた職名です。明治元年の太政管告、いわゆる「神仏分離令」の発布によって、一千有余年間行われてきた神仏混淆の信仰が廃されます。第五十九世別当観空の代を最後に当山から別当職はなくなり、仏教色が全て廃されることになります。これら五十九世の別当さんたちの御霊が鎮まるところが、別当墓地です。このような、当神宮の仏教との深い関わりから、毎年五月中旬には神仏両道による先人たちの慰霊祭を執行しています。

 

時期:五月中旬

 

神社:鵜戸神宮 (日南市鎮座)  https://www.udojingu.com

 

写真②

知っちょる?宮崎の祭⑨

カテゴリ : 
その他
執筆 : 
sashi 2022-2-9 17:50

 

 

〇春の縁日大祭 シャンシャン馬道中〇

 

三月の最終土曜に斎行され、祭典後に巫女舞、舞楽、獅子舞、シャンシャン馬道中唄の奉納が行われ、その翌日にはシャンシャン馬道中の再現が行われます。 縁日大祭は約四十名参列し、週末に斎行するため、神賑行事では多くの参拝者が足を止めます。翌日に再現されるシャンシャン馬道中は、宮崎方面から花嫁を乗せた農耕馬を花婿が手綱を引き「七浦七峠」の旅路を進み鵜戸神宮へ参拝する風習で、通称「鵜戸さん参り」と呼ばれています。

 

由来:縁日大祭は元来旧暦二月の初卯の日(縁日)に斎行していましたが昭和二十九年を最後に途絶えていましたが、平成十一年、当時の宮司が以前の賑わいを取り戻すために再興されました。                                                                                                                                                                                  シャンシャン馬道中は日南市の駒宮神社の例祭に地元の人が農耕馬を装飾し駒宮神社を参拝し、その馬で鵜戸神宮に新婚夫婦が参拝したことが始まりで、「シャンシャン」は馬に付けた鈴の音に由来しております。  同市に縁結びや牛馬の神様として信仰が篤い榎原神社があり、内田万寿姫(うちだますひめ)の進言により御祭神を鵜戸神宮から御霊分けをし、摂社の桜井神社には内田万寿姫が祀られています。榎原神社と同様に内田万寿姫を祀る桜井神社も崇敬篤く、例祭日には縁結びや豊作を願う人々や飾り付けた牛馬などが近郷近在から押しかけ、宮崎方面からは、御神徳にあやかろうと農閑期を利用し、新婚夫婦が日数をかけて山路をたどり参拝しており、この風習は明治の末まで続きました。 宮崎方面からの榎原まいりは、四泊から五泊の日程で、旧飫肥街道が利用され、徒歩旅行でした。やがてこれが、往還の準備や日程の都合から、榎原神社の御祭神にゆかりのある鵜戸神宮へ参る「鵜戸さん参り」へと移り変わり、大正の初期まで続けられました。

 

時期:春の縁日大祭 三月最終土曜日 シャンシャン馬道中再現 その翌日

 

神社:鵜戸神宮(日南市鎮座) https://www.udojingu.com

 

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知っちょる?宮崎の祭⑧

カテゴリ : 
その他
執筆 : 
sashi 2022-2-8 18:53

 

〇御神幸祭・夏越しの祭り〇 

 

神輿を担ぎ氏子地域を練り歩き御神慮を賜り五穀豊穣、地域の泰平を願う。

 

由来:恒久神社は、寛治四年(1090年)に西都市都萬神社から勧請(かんじょう)し、恒久の地に遷座し奉った。昔は江南一宮大明神と称えたが明治四年に村社となり恒久神社と改めた。夏越しの祭りは元徳二年(1330年)六月三十日が始まりとされている。

当時は土地の若者が、氏子地域を神輿を引き継ぎながら担ぎ、浜下りと言って赤江浜で海水に浸かって禊祓いをした。神輿の前には獅子が二頭、後ろには神主等三十騎が従い、鉾・旗・弓矢の列が続いたそうだ。現在この夏越しの祭りは、大人神輿と子供神輿を地域の若者子供たちが引継ぎ担いでいる。時代と共に形態は変化してしまったが、恒久神社夏越しの祭りがこれからも受け継ぎ守られて行くことを心より願う。

 

時期:現在は七月末に行われる

 

神社:恒久神社(宮崎市恒久鎮座)    

 

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写真③

知っちょる?宮崎の祭⑦

カテゴリ : 
その他
執筆 : 
sashi 2022-2-7 13:28

 

〇宮崎八幡宮夏越祭〇

 

昔は四日間にかけて祭事が行われていましたが、現在は前夜祭にあたる宵祭と御神幸祭がそれぞれ二日間に分けて行われております。宵祭では多種多様な縁日の露店が出るほか、地域の人々による演芸が催され、大変多くの人で賑わいます。御神幸祭では宮小獅子を先頭に子供神輿、獅子、だんじり、女神輿、本神輿の順番で氏子地域を一日かけて練り歩き、町の人々の無病息災と地域の発展を祈願します。

 

由来:およそ450年前から行われているとされ、古来の日本で夏を迎える時期は、梅雨の影響による疫病や台風などにより、人々が無事に過ごすには困難な季節でありました。その為夏を無病息災で無事に越せるようにと祭りを行ったことが始まりといわれています。

 

時期:七月を中心に行われる。

 

神社:宮崎八幡宮 https://www.miyazakihachimangu.or.jp

 

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