宮崎神青ブログ - officeさんのエントリ
すべてはここからはじまりました。
東諸県郡綾町古屋地区
4月27日 畦作り
5月 1日 御神田清祓併播種祭(詳細はこちら)
5月10日 耕耘
5月19日 肥料散布
5月23日 荒代あけ
5月25日 中代あけ
5月27日 植代あけ
5月27日御田植祭(詳細はこちら)
8月19日 風鎮祭併除蝗祈願祭(詳細はこちら)
約5ヶ月の時を経て、
去る9月29日、当会御神田行事抜穂祭を斎行致しました。
当日はまさかの雨
準備も普段の倍以上に手間取りました・・・
梅雨の長雨、秋には台風の襲来もありましたが、たわわに実りました。
献饌(けんせん)・・・神様に神饌をお供え致します。
斎主玉串を奉りて拝礼。
斎主の鳥原会員には、御神田清祓より4回にわたる祭典をお務めいただきました。
雨は一向に止まず・・・
刈り女、地元綾中の生徒、当会会員にて
雨天ということで一部を刈り取るのみとなりました。
御陰をもちまして、第35回献穀御神田行事の一切を滞りなく斎行することができました。
最もご苦労をおかけしました田長(兼田主)の押田様、
今回のために発足していただいた御神田行事綾町協力会、
直会のおにぎり作り、諸準備をしていただいた婦人会、
早乙女、刈女のご奉仕をしていただいた地元の女性の方々、
今回担当いただいた当会宮崎ブロック会、
数え上げればきりがありませんが、
ご協力いただいた皆様方に衷心より厚く御礼申し上げます。
米作りの大切さは勿論のことながら、様々な方と触れあう非常に貴重な経験を
させていただく祭典であると改め感じました。
収穫したお米は、伊勢の神宮、宮中、靖國神社、県内鎮座の約650のお社、
さらに本年は大東亜戦争終結七十年にあたりますので、全国の指定護国神社へ
お供えさせていただきます。
最後になりますが、氏神さまの入野神社を中心に綾町古屋地区が益々に栄えますことと、
関係各位のご健勝を心からお祈り致します。
本当にありがとうございました。
先日、とある神社へお参りさせていただきました。
それではgoogleストリートビューの感覚でご覧ください<(_ _)>
11:00 入口鳥居
11:02 鳥居をくぐると、いきなりの下り階段
待ってよ~お兄ちゃ~ん
11:04 次は橋を渡ります。
橋上からの景色。天気もよく清々しいものでした!
実は3人いたりして・・・
11:08 橋を渡り終えると、次は登りです。
11:11 3つ目の鳥居...
11:13 4つ目の鳥居....
11:14 5つ目の鳥居.....
11:18 6つ目の鳥居......
神社はまだかな~???
11:21 湧き水の手水舎
11:24 ガサガサガサ・・・ 森の奥に小さなイノシシ発見!!!
11:26 7つ目の鳥居の先には???
到着~!
再び手水で清めて
お参りさせていただました。
ご社殿横にもきれいな滝がありました。
お気づきの方もおられるでしょうが、今回のお参り先は
西都市鎮座の速川神社でした。(詳細はこちら)
合格のご利益もあり、多くの受験者がお参りになるようです。
ちなみにタイトルの意味は
こういうことでした。
これほどの長さの参道も珍しいですが、運動靴持参にて是非お参りされては如何でしょうか。
宮巡隊の歴史に新たな1ページが加わりました・・・
家族になろうよ♪ 作詞・作曲 福山雅治
百年たっても好きでいてね
みんなの前で困らせたり
それでも隣で笑ってくれて
選んでくれてありがとう
どれほど深く信じあっても
わからないこともあるでしょう
その孤独と寄り添い生きることが
愛するということかもしれないから
いつかお父さんみたいに大きな背中で
いつかお母さんみたいに静かな優しさで
どんなことも超えていける
家族になろうよ
いつかあなたの笑顔によく似た男の子と
いつかわたしと同じ泣き虫な女の子と
どんなことも超えていける
家族になろうよ
あなたとなら生きていける
幸せになろうよ
去る8月29日、当会会員の日南市鵜戸神宮の安藤祐一郎くんが目出度く結婚されました。
おふたりの末永いお幸せと、ご両家益々のご繁栄を心よりご祈念申し上げます。
弥栄!
前回の続き(前回はこちら)
6月26日。
朝拝、朝食を済ませてペリリュー島へ向かいました。
約1時間の船旅でした。
到着後は明らかに日本で使用されていたと思われるバスで移動。
ペリリュー島は南北約9km、東西約3kmの小島であります。
日本はこの島を死守するために、歩兵第二連隊を含むおよそ一万人の部隊を派遣。
島中に洞窟陣地を張り巡らせていました。
旧日本軍はペリリュー島での無謀な突撃を禁じ、兵士らは洞窟に身を潜めて持久戦に
徹したといわれます。
アメリカ軍は火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器を投入しましたが苦戦。
当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は、2ヶ月半に及びました。
アメリカ海兵隊の最精鋭部隊と言われる第一海兵師団第一連隊の死傷率は、
史上最も高い約60%。
そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られることがなかったため、
「忘れられた戦場」と呼ばれています。
到着後は白衣白袴に改服し、
先ずは戦没者慰霊碑へ。
拝礼
パラオ諸島の守備隊の将兵であり、第二連隊隊長中川州男中将顕彰碑。
昭和19年11月24日午後4時。
「サクラサクラ」。
軍旗も機密書類も焼却したこと、つまりはペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく
散ったことを意味する同氏最後の電文でありました。
大本営は昭和19年12月31日ペリリュー島守備隊全員戦死と認定しました。
しかし、命ある限り戦う決意に燃える将兵、山口少尉以下34名(陸軍22名、海軍8名
軍属4名)は分散ゲリラ活動を行い、終戦を信ずることなく持久戦に徹し遊撃戦を続行。
約2年6ヶ月湿地周辺の豪に潜伏していましたが、昭和20年8月15日、日本軍の終戦を
知り、昭和22年4月21日、米軍に帰順、昭和22年5月15日横浜港に34名生還した
そうであります。
日本軍司令部跡地。
天上の穴は爆撃よるものだそうです。
日本軍95式戦車。
他は撤去されたそうですが、戦争の歴史を忘れない為に一台だけ残したそうです。
パラオ諸島唯一の大型飛行機が着陸できる「東洋一」と言われた飛行場滑走路。
昭和19年9月15日、アメリカ軍が上陸を開始したオレンジビーチにて黙祷
西太平洋戦没者の碑
碑文
「さきの大戦において西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび
平和への思いをこめてこの碑を建立する」
本年は大東亜戦争終結より七十年の節目を迎えますが、以前から戦争体験者、戦歿者遺族の
減少が叫ばれています。戦争を知らない世代が大半を占める現在において、我々神職の為すべ
き役割は何なのか、漠然とではなく明確に考える必要があると考えます。
今を生きる我々は、先人達への感謝の気持ちを決して忘れてはならないことは当然です。
そしてその思いを継承する為にも、先ずは何よりも現地へ足を運び、知ることが大切だと考えま
すので、今回の慰霊祭は非常に貴重な経験となりました。
我々神職は全国民が等しく英霊に慰霊の誠を捧げる日が来るよう、
諸活動に邁進するのみであると思います。
アンガウル島遙拝
去る8月19日午後2時より、当会御神田風鎮祭併除蝗祈願祭を斎行致しました。
この祭は、
風鎮祭(ふうちんさい)=かぜしずめのまつり
除蝗(じょこう)祈願祭=むしよけのまつり
ということになります。
梅雨時期の長雨で心配されましたが、すくすくと育っていました。
大祓詞(おおはらえのことば)奏上
御神田の清祓
本年度当番の宮崎地区会員さんのご奉仕でした。
準備中はかんかん照りでしたが、祭典は太陽が雲に隠れ、時より吹く風のお陰もあり
幾分心地よい中で滞りなく斎行されました。
田長様をはじめ関係各位には、お忙しい中にも拘わりませずご参列を賜り
誠に有難うございました。
さて、祭を終えて息つく間もなく台風15号が接近中です。
さっそく奉仕会員の祈りの成果が試されそうです・・・
何はともあれ大きな被害もなく、通過しますことを祈るばかりであります。
9月29日はいよいよ抜穂祭(ぬきほさい)が斎行されます。
残すところ約1ヶ月となりましたが、 関係各位には最後までご協力いただきますよう
何卒宜しくお願い致します。
本日、宮崎県護国神社にて終戦記念臨時大祭が斎行され、当会からも数名が
ご奉仕させていただきました。
終戦より七十年の節目。
畏くも天皇皇后両陛下より幣帛料の御奉納がございました。
祭典の中で護国神社の特殊神事として、
飢餓の米(きがのこめ)、
飢渇の水(きかつのみず)
が、お供えされました。
これは遠い戦場において、物資の輸送も途絶え、食するものもなく、飲む水も困窮するなかで困苦欠乏に堪えて、ただひたすらに故郷に残した家族達の事を思い、また祖国の安寧を祈りつつ、力の限りを尽くして、遂に空しく殉じられた御英霊のおみたまをお慰め申し上げるために奉るものであります。
関係各位多数ご参列の中、滞りなく厳粛裡に斎行されました。
本日ブログの最後に以下の詩をご紹介したいと思います。
『一億の號泣』
作詞 高村光太郎
作曲 田中舘貢橘
綸言ひとたび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の疊に両手をつきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず。
玉音、ひびき終わりて又、音なし。
この時、無聲の號泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向かってひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝してこの事實に直接し、
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鐵の武器を失へる時
精神の武器於のづから強からんとす。
眞と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの號泣を母胎としてその形相を孕まん。
綸言(りんげん)=天子の言葉。みことのり。
玉音(ぎょくいん)=天皇の声の尊称。
五體(ごたい)=身体全部。
普天(ふてん)=天下。
宸極(しんきょく)=天子の居所。
微臣(びしん)=主君に対し臣下が言う自分の謙称。
恐惶(きょうこう)=恐れかしこまる。
寸毫(すんごう)=極めて少ないこと。
曖昧(あいまい)=はっきりしない様子。
模糊(もこ)=ぼんやりした様子。
高村光太郎は東京の出身でありますが、当時宮澤賢治の実家である
岩手県花巻町に疎開していたそうです。
流言蜚語も飛び交い、民心不安定な中、この詩を詩ったのです。
日本は敗戦により鋼鉄の武器は失ったが、精神の武器が台頭し必ずや復興すると
予感されていたのです。
当時より七十年を経た我が国は、食べるに、飲むに苦労は無く、
さらには世界に名だたる経済大国へと発展を遂げました。
御英霊はもとより先人達の弛まぬ努力の上に、今があることを決して忘れてはなりません。
安保法案
憲法改正
隣国の干渉
等々
賛否両論あることとは存じますが、
少なくとも本日ばかりは、国民挙って御英霊、戦歿者に対しまして
感謝の誠を捧げる日でありますよう心から願うばかりであります・・・
前回の続き(前回はこちら)
6月25日早朝。
パラオはこの時期は雨期と聞いていましたが、
明け方は予想に反して意外と良い天気。
先ずはホテルの庭にて朝拝。
早朝から白衣の集団に出くわした宿泊客の反応は・・・
その後各自準備をすませ南洋神社へ。
南洋神社とは?
1929年の南洋庁統治が始まってから15年以上が経過し、南洋群島各地に民間有志による神社が創建されたが、南洋庁所在地のコロール島には神社が一つもなかった。そこで南洋庁では、南洋群島総鎮守たる神社を紀元二千六百年記念事業の一環としてコロール島に創建することとなった。
1937年(昭和12年)より、土地の選定が進められ、その結果コロール島郊外のアルミズ高地に創建することに決定した。1938年(昭和13年)1月より約2年かけて工事が行われた。
本殿は神明造・大鳥造を基調とする南洋群島の風土に適した様式とし、木材は南洋群島各地から取り寄せることになった。石材は幸いにも整地の際に良質な安山岩が大量に発見されたため、これを使うことになった。また、関係諸団体から勤労奉仕の申し出が相次ぎ、積極的に受け入れた。その他、運輸業者は資材搬入のための運賃一部免除、電気設備業者の電気設備の寄附なども行われた。
1940年(昭和15年)2月に天照大御神を祀る官幣大社として指定され、同年11月1日、御霊代を捧げ持つ勅使伊藤博精公爵を迎えて、粛々と鎮座祭が執りおこなわれた。
出発前のブログに記したように、戦時中私の祖父は南洋神社に奉職していました。
当時より七十数年。
孫が、しかも二人、さらには神職としてこの地に足を踏み入れることになるとは
当時は思いもしなかったことでしょう。
現在の南洋神社。
当時の石燈籠等は現存するものの、ご社殿は小さな祠となっています。
降りしきる雨のなか準備を終え、いよいよ定刻となり慰霊祭開始。
パラオ共和国戦歿者慰霊祭式次第
一、開式
一、黙祷
一、国歌斉唱(二回)
一、神事
修祓の儀
次に招霊の儀
次に献饌
次に大祓詞奏上
次に祭詞奏上
次に「海ゆかば」斉唱
次に斎主玉串を奉りて拝礼
次に参列者玉串を奉りて拝礼
次に撤饌
次に昇霊の儀
一、会長挨拶
一、聖寿万歳
一、閉式
斎主以下参進。
約20名で奉仕。
黙祷
献饌
参列者
聖寿万歳
宮崎より参加の4名
爺ちゃんも見てくれたことでしょう・・・
雨は止むどころか激しさを増しましたが、滞りなく斎行することができました。
祖国日本を守る為に散華した御英霊の御霊を慰め、今日ある繁栄と平和を奉告し、
感謝の誠を捧げました。
雨の祭典。
神青協長友会長は祭典終了後の挨拶の中で
「我々の祈りがまだ足りない、足りないから雨が降ったのだ」と
涙をこらえ言葉を詰まらせながら仰いました。
はたして御英霊の胸中や如何に・・・
明日は激戦の地であったペリリュー島へ向かいます。
続く・・・
7月27日、28日の両日にわたり
新富町鎮座新田神社夏祭の奉仕を致しました。
(新田神社についてはこちら)
数日前までは台風上陸の予報?!
前日までも大雨が降り天気が心配されましたが・・・
当日は最高気温35℃の快晴に恵まれました!!!
新田神社の御神幸では
「いぶくろ」が先頭を歩きます。
弓の袋を持つ弓袋持ち、胃袋からきているという説があるとのことです。
「いぶくろ」の持つ箒に触られた所がよくなるという言い伝えから
道路には待ち構えている方が多くいました。
見た目の怖さから子供の泣き声も聞こえ、
大人の方々からも「いぶくろはおじかったがなぁ~」との声も・・・
1日目は新田神社を出発して「ひもろぎの里」と言われる、
御祭神彦火火出命がお休みになられた伝承のある御旅所へ。
御旅所では新富町無形文化財の新田神楽の奉納などが行われ、
一夜を過ごしました。
2日目は午前9時に御旅所を出発。
10地区を廻り御還幸・・
各地区では様々な接待をしていただきありがとうございました。
両日ともに猛暑日。
総代さんをはじめ、担ぎ手の皆さんも年配の方が多く心配しましたが
最もバテてたのは私のような気がします・・・笑
2日間にわたりましてのご奉仕お疲れさまでした。
お陰をもちまして滞りなく斎行することができました。
衷心より厚く御礼申し上げます。
去る6月23日より神道青年全国協議会主催の大東亜戦争戦歿者慰霊祭斎行の為、
パラオ共和国へ行ってまいりました。
先ずは6月23日に宮崎より中部空港へ移動し宿泊。
翌日は、
中部国際空港へ午前9時集合。
不慣れな出国手続きを済ませ、先ずはグアムへ向かいました。
午前11時20分。さぁ出発です!
ここからは中部→グアムの空の景色をお楽しみください。
12:17
12:41
12:54
13:32
14:25
14:28
14:29 グアム空港到着
※時差が1時間程ありますので、現地時間では15:30頃!だったかな???
グアム空港にて成田発の会員と合流。
全国より集まった会員総勢50名にて結団式を執り行いました。
私自身初めてのグアムでしたが、今回は乗り継ぎのみ。
「一日くらいはゆっくりしたいね~」と仲間内で話しながら、とりあえず待つ。
この会話が元か後日思わぬ展開になろとは露知らず・・・
続いて19:30の飛行機で、パラオへ!
約2時間のフライトでした。
20:30頃着。パラオと日本の時差は全くありません。
※グアムとは1時間ほどあります。
パラオ空港。
グアムに引き続きパラオでも、どぎまぎした入国審査を終えて一安心・・・
空港前に待機していたバスにて、ホテルへ移動。
道中はほぼ暗闇でしたので、パラオの風景は翌日のお楽しみとなりました。
明日はいよいよ南洋神社跡地にて慰霊祭斎行。
とりあえずGood Night
続く・・・
去る7月18、19日と小戸神社夏越祭のお手伝いをさせていただきました。
そもそも小戸神社は私の実家。
初めてこの祭に参加したのは小学生低学年だったかな?
子供みこしを担いだ記憶が有るような無いような・・・
小学校4年くらいから6年までは獅子舞。
中学からは、獅子舞の笛、太鼓を奏でる神楽を大学4年まで。
大学を卒業してからは神職を志し上京、帰郷後は神職として。
私は男3兄弟の次男坊。
総代さんからは、
「お前が一番神主になるとは思わんかった~!」
と言われたこともあるような・・・
と、簡単に振り返ると30年は携わってきた、
と言いますか、携わるを得ないお祭りであります。
祭に参加されている人も様々です。
中心となられる総代さんは、白髪頭や少々薄くなられたり、
威勢がよく、少々強面の担ぎ手のお兄さんは落ち着かれたり、
おじさん、おばんさんと思っていた親子会の父兄が同世代になったり、
指導した後輩が、指導者する側になったり。
言い出せばきりがありませんが、
参加者の面々を眺めながら時の流れを感じました。
御神幸の道中も様々。
獅子舞に泣き叫ぶお子さま、
自分の事のように喜ばれる人、
そっと御神輿に手を合わせる人、
街並みは変われど、そこには昔から変わらぬ日本の風景があります。
二日間天候に悩まされましたが、御陰をもちまして滞りなく盛大に斎行できました。
最後の宮入りまで皆で声を揃えて「ワッショイ、ワッショイ!」
宮入り後は、大きな拍手、握手、抱き合う人、涙を流す人、
皆で大きな喜びを分かちあい、境内は清々しい雰囲気に包まれました。
祭を終えて、静寂を取り戻した境内。
参加者のある方がご家族で参拝になられました。
「あれがお父さんが担いだおみこし~?」
「そうだよ~」
「じゃあお参りしようか」
二礼
二拍手
一礼
・・・
お参りを終えた奥さんが一言。
「夏が終わった気がするね~」
「じゃ~ねぇ~」
ご家族にとって小戸神社夏祭が、毎年恒例の夏の大きな一コマであることが伺えました。
ゆくらゆくらに街行く神輿
氏子崇敬者の基心
(小戸神社夏越唄より)
二日間誠にお疲れ様でした。