宮崎神青ブログ - 昭和30年3月10日

昭和30年3月10日

カテゴリ : 
神社からのお知らせ
執筆 : 
office 2015-3-10 15:39

本日は陸軍記念日。

1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を

占領して奉天城に入城した日にあたります。
1906(明治39)年から1945(昭和20)年まで、この日を祝日としていたそうですが、

1945(昭和20)年に大東亜戦争で日本が敗戦し、アメリカの占領下に置かれた後は

この日を祝うことを禁じられ、もって1946(昭和21)年に廃止されたとのことです。

 

さらに本日は宮崎県護國神社創建の日にもあたります。

 

創建より60年の節目にあたりますので、創建までの状況を書き記したいと思います。

 

月日  
昭和18年

 4月22日

 

 5月10日

11月20日

 3月18日

 5月31日

 8月15日

内務大臣から別建の許可が出され、敷地を宮崎市下北方町

(現大宮中学校)に定めた。

地鎮祭斎行

起工式斎行

宮崎が初めて空襲を受け、その後も空襲はつづき被害は続出した。

戦局重大化のため工事は中断のやむなきに至った。

終戦

玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が

国民に公表された。

 

占領軍の進駐となり「神道指令」も出て、国と神道・神社が分離された。

昭和21年  7月20日

県護国神社奉賛会の評議員会が開かれ、下記事項が決定した。
①護国神社の創建中止
②奉賛会の解散
③宮崎市への敷地返還 
奉賛会への献金額は預金利子合わせて総額85万円に達していたが、

そのうち25万円はすでに支出されており、残額は60万2千余円。

これも処分された。
しかし護国神社を創建したいという県民の夢はつづいた。

昭和22年  8月20日

宮崎県遺族連合会が結成されるなどして、護国神社創建の念願は宮崎

県民の総意であったが、これも占領中はままならず、昭和27年の講和条

約発効を待たねばならなかった。
占領が解除されると、県民の間からは、護国神社創建の議が持ち上がり

話はいよいよ具体化していった。

昭和28年

 3月21日

 4月 4日

 

 

 

 

 

12月17日

宮崎県庁内で宮崎県護国神社再建奉賛会の発起人会が開かれた。

正式に奉賛会の発足。役員や予算、敷地は下記のように決定。

総裁 宮崎県知事 田中長茂
会長 県議会議長 日高弥一
予算 1,700万円
敷地 宮崎神宮境内の一部を供用する
事務局 県議会内に置く

奉賛会より宮崎神宮宮司宛に建設計画等の協力要請の正式文書が届き、

造営地供用願が提出された。

昭和29日

 1月 8日

 

 

 

 

 

 

 

   5月15日 

宮崎神宮片岡宮司は宮崎神宮評議員会に護国神社再建地の借用願等を諮った。
評議員会では、護国神社は独立した神社として宮崎神宮神域外に再建されるべき

との意見も強かったが、奉賛会や県民の総意を受け入れて、結局、境内の西側

流鏑馬馬場の南の部分の敷地を提供することを決め、このことにより再建は現実の

ものとなっていった。
護国神社の再建費用は1,700万円で、その内訳は県の補助600万円、各市町

村が600万円、一般募金が500万円。様式は永久建築の鉄筋コンクリート製神明

造りで、設計は県建築課、施工は地元の志多組であった。

起工式斎行。
関係者多数が参列して盛大に斎行された。

昭和30年

 3月10日

 

 

 

  3月11日

午前10時より竣工奉告祭斎行。
宮崎神宮の宮司以下職員らの奉仕、奉賛会総裁田中知事、会長日高県議会

議長、役員はじめ遺族の代表が参列。
同夜8時からは篝火の下、34,871柱の合祀・遷座祭が斎行され、参列者は

只々感激の至りであった。

午前11時から奉祝大祭斎行。
遺族をはじめとする県民15,000人が社前広場を埋めつくし、境内に歓喜の声が

こだました。なお、3万余の御祭神は戊辰の役以来、大東亜戦争までの県出

身戦没者である。

 

本年は大東亜戦争終結より70年にもあたります。

 

先人達の思いを忘れることなく、会員一同心を一つに祭典をはじめ諸活動に邁進していきたいと

思います。

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