宮崎神青ブログ - 守ルベキモノ、伝ユベキモノ。
去る8月15日、当会の大東亜戦争終結七十年記念事業として準備を進めておりました
『大東亜戦争終結七十年記念誌~守ルベキモノ、伝ユベキモノ。~』を上梓することができました。
殊に本書内の県内慰霊碑等につきましては、各会員が現地へ足を運び調査撮影を行い、また各遺族会関係者にお話を伺うことで、心のどこかで遠い昔に遠い国で起こったかのように感じていた先の大戦を、より身近に感じるようになりました。
各々が得たものを、これから先の英霊顕彰はもとより諸活動に生かして参る所存でございます。
機会がございましたら、是非ご高覧いただければ幸甚に存じます。
【発刊趣意書】
昭和三十年三月十一日の宮崎神宮日誌を紐解くと、次のよう書かれています。
昭和三十年三月十一日 金曜日 晴れ
一、護国神社鎮座奉祝祭 午前十時
宮司以下奉仕(齋服) 伶人(笛、篳篥二管立、笙、鞨鼓、太鼓)七人外ニ琴
縣神社庁支部長九名参列(齋服)
奉賛会総裁田中縣知事、奉賛会長日髙県議会議長、宮崎縣遺族会長外市町村関係者、遺族壱萬伍阡名参列 社前廣場を埋む、歡喜に沸く
一、祭典終了後、宮司、知事、縣議長、縣遺族会長の挨拶あり、一同隨喜の涙をながす
一、神職退下後遺族に本殿石階下まで参入参拜を許す、遺族の感激一入なり
一、午後西神苑にて、相撲、剣道、弓道の奉納試合あり、風もなく照りつけもせず暖き春日和に恵まれて、神苑は午後四時頃まで賑ふ
参列者一五,〇〇〇名とあることからも、県民が如何にこの日を待ち望んでいたか、護国神社の創建が県民の切なる願いであったことが伺えます。
また、宮崎県護國神社社務所には、昭和三十八年三月十日(現在は四月十日)例大祭の写真が飾ってあります。巫女が「みたま和め」の舞を奉奏しており、その後ろにはご遺族をはじめとした参列者が、境内を埋めつくしています。全員が立ったままでの参列であり、その多さは現在では想像もつかないものであります。
しかしながら、現在では遺族の高齢化とともに参拝者は年々減少の一途を辿り、さらには各地に点在する忠霊塔、慰霊碑においての祭典が滞っているとの話も耳にします。この状況に危機感を抱き、戦没者遺族の意思を継承をすべく、御英霊の孫、曾孫を中心とした組織が設立されるなど新たな活動も行われいるようです。
大東亜戦争終結七十年の節目にあたり、宮崎県神道青年会といたしまして、靖国神社をはじめ全国の指定護国神社、宮崎県内の慰霊碑を一冊の本に纏め発刊致したく存じます。期するところは、ご英霊の顕彰はもちろんのことながら、神職の本分である「祭り」を遺族の方々と共に、絶やすことなく、恙なく斎行していくための一助にならうものに他なりません。
【目次】
【あとがき】
その記事を目にしたのは、今から五年ほど前でありました。
宮司は県より終戦の事実を知らされると全職員を集め、
「自分らが神職であることを自覚せよ、また、今後どのようにして大神さまの御心に
添い奉るかを各々充分に考へてその結論を報告せよ」
宮崎神宮史に掲載されていた終戦当日の話であります。敗戦という国史上未曾有の危機に際しての問いに、当時の私は結論に至ることはできませんでした。
しかしながら、日々の奉仕や今回の大東亜戦争終結七十年の事業を通して、それはやはり祭なのではないかと考えるようになりました。神職の本分である祭、すぐにこの結論に至らなかった私が、如何に徒に時を重ねていたか、神職としての自覚の低さを唯々情けなく思うばかりであります。
神社新報の第一号「創刊の辞」にはこう記されていたそうです。
「一言にしていふならば、日本人の宗教的真心の結晶が神社として成立してゐるのである。」
神社を取り巻く環境が変化しようとも、我々は覚悟を持って氏神さまや祭を通して日本人の心を守り、次世代へと伝える使命があるのだと思います。各地域の祈りが、御英霊が願って止まなかった美しい祖国の繁栄はもとより世界の共存共栄へと繋がりますことを切に祈念致します。
最後に本誌発刊にあたりまして、ご理解とご協力を賜りました関係各位、尽力いただきました会員一同に対して、心から感謝を申し上げます。
平成二十八年八月十五日
宮崎県神道青年会会長 串 間 慶 士