宮崎神青ブログ - 最新エントリー

知っちょる?宮崎の祭㉖

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sashi 2022-2-21 9:17

 

◯六月灯◯

 

鹿児島県を中心とする旧薩摩藩領の神社や寺院で、それぞれ日を定めて行われる夏祭りです。一般的には七月(旧暦六月)に行われています。「ろっがっどー」の呼び名で夏の風物詩として親しまれています。梅雨明けの季節である為、人畜の疫病、田畑の病虫害、台風等の災害がないよう、無病息災・五穀豊穣、また氏子の健康・安全を祈る祭りです。六月灯の時期になると毎週のように各所で花火が上がり、踊りや夜店で賑わいをみせます。また、氏子の子どもたちが思い思いに描いた灯篭が奉納され、境内に灯されることも特徴の一つです。
 
由来:初代島津忠久の供養で家臣が灯籠を灯し、それが庶民に広まりました。島津本家第十九代藩主島津光久公が、鹿児島県城下の新昌院の上山寺の観音堂を再建した記念に沿道に灯籠をつけさせた(旧暦六月十八日)ことで、家臣や領民たちもこれにならい奉納したことが始まりとされました。牛馬の疫病や田の害虫駆除の民間行事が洗練され六月灯へ変化していった等の諸説あります。
 
時期:七月を中心に行われる。
 
神社:神柱宮(都城市前田町鎮座)7/7、8  http://www.kanbashira.net
   科長神社(都城市上水流町鎮座)7/29
       乙戸神社(都城市下川東町鎮座)7/18
       早水神社(都城市早水町鎮座)7/13
       小鷹神社(都城市上長飯町鎮座)7/7
   旭丘神社(都城市姫城町鎮座)7/28  https://hinoo.net/
       兼喜神社(都城市都島町鎮座)7/30
       御年神社(三股町宮村鎮座)7/7  https://mitosijinja.net/
       御﨑神社(北諸県郡三股町)7/20
   竈門神社(北諸県郡三股町)7/28
   早馬神社(北諸県郡三股町)7/23
   稲荷神社(北諸県郡三股町)7/25
   的野正八幡宮(都城市山之口町)7/25
   熊野神社(都城市山之口町)7月
   走湯神社(都城市山之口町)7月
   南方神社(都城市山之口町)7月
   諏訪神社(都城市高城町)7/21
   春日神社(都城市高城町)7/8
   熊野神社(都城市高城町)7/15
   南方神社(都城市高城町)7/25
   霧島岑神社(小林市細野)7月

 

「神輿」 御年神社

 

「灯籠」 御年神社

 

「ダンス」 御年神社

 

旭丘神社

 

「灯籠」 旭丘神社

知っちょる?宮崎の祭㉕

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sashi 2022-2-21 9:16

 

◯苗代田祭(ベブがハホ)◯

 

二月十八日に行われる五穀豊穣と子孫繁栄を願う神事です。
先づ春の訪れを喜び、種まきの道理を説き、水利を願う三種の神歌が奏上されます。
御神田に見立てた斎庭を造り、その中で親方の「太郎次」と田人衆によって、方言を交えた即興の田遊びの演劇が行われます。大げさな身振りで転げ回りながら田掻きを行い、世情風刺を交えたユーモラスなやり取りが交わされ、観客の笑いを誘います。
満を持して木彫りの牛(べブ)が「牛方」に引かれて登場すると、神田を大きく回って田を掻きます。ここが一つの見どころとなっており、よくテレビ等で紹介される場面です。
その後、太郎次の「ハホ―(母)」との掛け声で奥方を呼ぶと、臨月を迎えた身重の「ハホ」役が女面を付けた姿で登場します。ハホは頭に乗せた種もみの入った折敷を宮司に渡すと、宮司が種もみを神田に撒き、それに続いて田人たちも、神田を周回しながら「庭立の歌」を歌います。歌には子孫繁栄の願いが込められ、神事は納められます。
 
由来:べブは牛、ハホは妊婦を表す方言で、地元ではこの神事を「べブがハホ」と呼んでいます。
五百年前から続いており、方言を用いた問答で苗代を整える道理や田作りの要領を語り聞かせながら行う田遊び神事です。
五月の御田植祭、十二月の狭野神楽と続く年中行事の始まりで、御田植までの苗代の成長や水利の安全を願います。
以前は実際の御神田で神事を行っており、牛も氏子農家からおとなしい牛を連れてきていたようです。いつからか木彫りの牛が使われるようになりました。江戸時代の書物に、「噴火によって木彫りの牛が焼けたので作り直した」とあるように木彫りの牛も歴史が長いようです。現在の牛は昭和初期の作成で、先代の江戸末期の牛も保管されています。
 
時期:二月二十八日 
 
神社:狭野神社 (西諸県郡高原町鎮座)
 

写真②

 

写真③

 

写真④

知っちょる?宮崎の祭㉔

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sashi 2022-2-21 9:13

 

 

◯御田植祭◯

 

毎年五月十八日に行われる祭事で、棒踊と奴踊が奉納されます。狭野神社の境内で行われるため御田植行事は行われないものの、踊りの奉納を見に多くの参列者で賑わいます。
棒踊りは氏子男手で奉納され、槍に見立てた六尺の棒、木太刀、薙刀、鎖鎌の組合を四人一組となり十二人で踊ります。一挙手一投足に気合を入れた勇壮なもので、境内で踊りを奉納した後、地区内の新築の家や赤ちゃんが生まれた家を踊ってまわります。
奴踊は昔は楽と踊りのどちらかが尽き果てるまで威勢よく踊られる勇壮なものでしたが。戦中男手が居なくなった折に婦人方に引き継がれて現在でも婦人会を中心に、心の嬉しさを顔に出して元気よく楽しく踊り祝う奉納舞となっています。
 
由来:棒踊の起源は島津藩の剣法「示現流(じげんりゅう)」から来ており、慶長年間に義弘公の朝鮮征伐の凱旋祝として踊ったのが始まりとされています。
また奴踊は新納忠元が秀吉軍から八代城を守り切った際に顔にひげを書き即興の歌と踊りで祝ったものが始まりとされています。各武将によって薩摩に広く伝わっており、新納忠元公からの崇敬が厚かった当社にも伝承されています。
 
時期:五月十六日 
 
神社:狭野神社(北諸県郡高原町鎮座) 
 

写真②「棒踊り」

 

知っちょる?宮崎の祭㉓

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sashi 2022-2-21 9:11

 

◯弥五郎どん◯

 

的野正八幡宮で神事が斎行された後、弥五郎の館に向けて浜殿下りが行われます。お旅所となる弥五郎どんの館前では、中学生による浦安の舞や、田の神舞などの神楽が奉納され、続いて郷土芸能が奉納されます。「弥五郎どん」ゆかりのものに触れると病気をせず一年中元気であるという言い伝えがあります。祭りの見どころはなんといっても子どもとともに浜殿下り行列の先祓い(先導役)を威風堂々と務める弥五郎どんです。毎年県内外より沢山の方が見に来られます。
 
由来:弥五郎どんは隼人の首領だったと言われ、現在、南九州の3カ所で、大きな弥五郎どん人形が登場するまつりが続けてられています(都城市山之口町的野正八幡宮、日南市田之上八幡神社、鹿児島県曽於市岩川八幡神社) 養老4年(720年)、この地にいた隼人族が大和朝廷に反乱を起こし、押し寄せる政府軍と闘うも次々に城が落ち、犠牲者も弥五郎どんをはじめ1400名余にのぼりました。大和朝廷はその霊を慰めるために、首領であった弥五郎どんの人形をつくり、全国で放生会(ほうじょうえ)を行ったのが、祭りの始まりといわれています。
 
時期:十一月三日
 
神社:的野正八幡宮(都城市姫城町鎮座) 
 

写真②

 

写真③

 

写真④

 

写真⑤

知っちょる?宮崎の祭㉒

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sashi 2022-2-20 9:00

 

◯牛越祭り◯ 

 

境内に直径25cm、長さ4mの丸太を50cmの高さに設置し飛び越えさせます。祭事に参加する牛は身軽な子牛であり、赤い毛布を腹帯で背中に乗せ、藁束に白い布を巻いたものをその上に背負い、首にはカンコビをつけます。このカンコビとは、赤・青・黄の布でアゲ鼻を作り、先を30cm程垂らしたものです。この様子は童謡界の三大詩人と謳われた野口 雨情(のぐち うじょう)が「威徳天神 祭りの日には 牛も化粧して いそいそと」と詠んだ記録が残っています。
意味としては、本来は、田植え後の牛の健康を神様に見てもらうための行事であったが、現在は農耕で牛を使役することも少なくなったため、畜産牛の体育状態をみせる品評会の役割を担っています。また、祭事の歴史も長く平成四年三月二十一日付で宮崎県の無形民俗文化財に指定されています。
 
由来:神社の由来としては、菅原道真(みちさだ)の子孫の道正(みちまさ)が京都の北野天満宮から、馬関田郷(現・えびの市の一部)に道真の分霊を迎え威徳天神とし、現在の菅原神社となりました。後に馬関田郷を治めた道正の子孫が農業や畜産が奨励され、役牛を守る神として豊受神社を建立し祭りました。現在は菅原神社の境内に現存しています。
祭りが行われるようになったきっかけは諸説あるが、貞享(1684)頃といわれており、徳川綱吉の時代であり、「生類憐み」の世俗的風習があったとされている。祭りの名前の由来は、農耕で疲れた牛を静養させる為の牛の肥育を意味する牛肥えから来ているとされる。
 
時期:七月二十八日 
 
神社:菅原神社(えびの市西川北鎮座)
 

写真②

 

写真③

知っちょる?宮崎の祭㉑

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sashi 2022-2-19 13:10

 

◯高木あげ馬◯

 

高木のあげ馬は参勤交代の道中無事を願い、馬に乗った稚児を中心とした行列を大名行列に模したもので、現在は四年に一度毎に奉納されます。稚児の家を「宿」に定め、修祓の場とし、青年団長宅「二才ん宿」といい、神事をした後行列を組み、稚児を迎えに行きます。「馬方節」にのせて南方神社へ進み、神社到着後には花馬が境内に焚かれた薪の火の上を二、三度駆け渡ります。その後稚児と馬が神前に拝礼し、神舞が舞われます。本来であれば昨年行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの関係で中止になり、本年も中止となりました。
 
由来:1591年島津家君主が島津家崇拝の諏訪神社に戦勝祈願し、帰国後そのお礼参りのため、大名行列を仕立てて諏訪神社に馬を献上し神楽を奉納したのが起源と言われています。その後、第十七代島津藩主の島津義弘の戦勝を称え、都城北諸県地域の四つの神社(高木町、高城町桜木、高城町穂満坊、山之口町花木)の例大祭に余興として「あげ馬」を奉納。以後、三百年余り継承されています。
 
時期:十一月二日
 
神社:南方神社(都城市高木町鎮座)  

知っちょる?宮崎の祭⑳

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sashi 2022-2-18 19:39
 

 

〇花木あげ馬〇

 

当日は稚児宅で神事の後、献上馬の上に稚児を乗せ、南方神社に向けてあげ馬行列が行われます。神社到着後神事が行われ、その後神楽が上演されます。県内においては、諸県地方にしか残っていない貴重な文化財であり、平成六年二月二十五日に県指定無形民俗文化財に指定されました。四年に一度の行事で、2019年には花木地区の住民ら約90人が着飾って大名行列を組み、南方神社まで約1.2キロを練り歩きました。

 

由来:古来より、霧島盆地内には戦勝と、その成就、五穀豊穣などを祈願して、神社に鎧、兜、刀、槍、馬、穀物などを奉納したり、土地や祭米を寄進するなどの風習がありました。このあげ馬祭は地区の鎮守である南方神社(旧諏訪神社)に奉納するものです。あげ馬「献上馬」とは、都城北諸県地域にある諏訪神社のみに伝えられてきた大名行列の様子を模した祭りと言われています。1591年島津家君主が島津家崇拝の諏訪神社に戦勝祈願し、帰国後そのお礼参りのため、大名行列を仕立てて諏訪神社に馬を献上し神楽を奉納したのが起源と言われています。その後、第十七代島津藩主の島津義弘の戦勝を称え、都城北諸県地域の四つの神社(高木町、高城町桜木と穂満坊、山之口町花木)の例大祭に余興として「あげ馬」を奉納。以後、三百年余り継承されています。山之口町のあげ馬は一時途絶えたが、地元に保存会が結成され、1991年に復活しました。

 

時期:七月(四年に一度)

 

神社:南方神社(都城市山之口町花木鎮座)

 

写真②

 

写真③

 

写真④

 

写真⑤

 

写真⑥

 

知っちょる?宮崎の祭⑲

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執筆 : 
sashi 2022-2-18 12:03

 

 

〇神門御神幸祭(比木神社)、師走祭(神門神社)〇

 

児湯郡木城町に鎮座の比木神社に祀られている百済の王族福智王が、父である禎嘉王と対面するために、東臼杵郡美郷町鎮座の神門神社を訪れる祭。比木神社から神門神社までの行程は約九十キロ。従来は九泊十日かけて行われていたが、現在は車で移動を行い、二泊三日の御神幸となっている。道中では百済王伝説に因む祭事が各所で行われる。袋神(別御魂)を奉持し比木神社を出発し金ヶ浜で禊、その後伊佐賀神社で出迎えの神門側と合流し祭事を行う。その後、禎嘉王の墓と伝えられる塚の原古墳を三周し、神門側の先導により神門入り。この際畑や畔に火を放ち野焼きを行う。これは、敵の目をくらます為野に火を放ったという故事に因むものと伝えられている。神門神社にて神事・直会が催され、両祭神を本殿に奉鎮する。二日目は神門神社御神体の衣替えを執り行う。その後、土地の豪族どん太郎の塚でお礼参りの神事が執り行われる。その後も、山宮さま、洗濯の神事が執り行われ、夕方から直会・神楽が奉納される。三日目は朝から別れの行事が進められ、比木側からの先導で御還幸の行列が動き出す。別れの悲しみを笑って隠す、へぐろ(一時は白粉の時も)塗りが夫々の顔に施される。比木側の一行が遠く去りゆく際に「おさらば」の掛け声と共に炊事道具などを手に高く持ち、高く振って互いに別れを惜しみつつ比木側の一行は御還幸する。

 

由来:天平勝宝八年(756年)、百済国内の内乱の為、父の禎嘉王と共に日本に逃れた福智王が、追ってより逃れる為安芸国から九州へ向かったが、途中嵐に遭い禎嘉王は日向國の金ヶ浜(日向市)、福智王は蚊口浦(高鍋町)に漂着した。それぞれ向かうべき土地を占ったところ禎嘉王は西方八里ほどの場所が良いと出たので、そこに向かいついた場所が神門であった。福智王は西方の比木という地が良いと出たのでそちらに向かった。やがて禎嘉王の元に再度追手が迫り戦いとなった。伊佐賀(旧南郷村)の戦いは最も激しく、王の次男である華智王は戦死、禎嘉王自身も流れ矢により亡くなった。福智王も急報を受け、神門に入り父を助け戦ったが苦戦を強いられ、土地の豪族どん太郎の援軍や支援のお陰で、追手を撃退する事が出来たという。その後禎嘉王は神門神社に、福智王は比木神社に祀られる事となった。祭りはこの福智王が父の危難を知って神門へ赴いて対面したという故事にならい始まったとされる。

 

時期:一月下旬の金曜~日曜日

 

神社:比木神社、神門神社

(木城町ホームページ http://www.town.kijo.lg.jp/event-gyouzi.html

 

写真②

 

写真③「おさらば~」

 

写真④「夜神楽」

知っちょる?宮崎の祭⑱

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sashi 2022-2-17 10:14

 

 

 

 〇ししとぎり〇

 

西都市銀鏡神社の銀鏡神楽、式三十二番「ししとぎり」爺と婆の面様を付けた二人を主役に、狩行司を務める禰宜の三人で行います。主役の二人は豊磐立命と櫛磐立命の仮の姿とする。「ししとぎり」とは、猪の通った跡をたどる、という意味で、狩りの様子を模しており、前述の二柱の神が猪の足跡をたどり、仕留めて持ち帰るまでを、地元言葉を使い、狂言風に表現している爺と婆が弓矢を片手に、社務所の台所から出てくるところから始まり、神楽を奉納する舞台である「外神屋」まで、猪の足跡をたどるかのようにやってくる。二柱の神が猪狩りにまつわる「まぶし割り」(射手を各要所に配置する)などの問答を交わしながら、最後は猪を模した柴をまな板に括り付けたものを背中に背負い、大きな猪であることを表現するようにヨタヨタと立ち上がり、ゆっくりと台所にもどる。そしてまな板の猪を台所の梁につるしかけて終了します。三人のやり取りが面白く、まるでコントをしているような神楽で見ている人は皆笑ってしまいます。ししとぎりは狩人ではない人に、狩りの様子を見せて、その作法の大切さを知ってもらい、豊猟をともに祈ってもらうものであります。
 
由来:銀鏡神楽は、長享三年(1489)三月十六日に銀鏡神社が創建される以前から存在していて、南北朝時代からの起源といわれています。そこに修験者の持ち込んだ神楽等が影響し、さらにその後、銀鏡神社の社家である濵砂淡路守重賢(しげかた)が鵜戸山道場に出仕していた時に取得した「鵜戸神楽」と「鵜戸鬼神」の舞を持ち帰り、これが多くの神楽に影響して発展し現在の銀鏡神楽の形になったと言われています。銀鏡神楽は昭和五十二年五月十七日に国指定重要無形民俗文化財となり、宮崎県の数多い神楽の中でも一番最初に国指定になった神楽であります。銀鏡神楽は銀鏡神社例大祭の宵宮毎年十二月十四日の夜に奉納されます。
 
 
時期:毎年十二月十四日
 
神社:銀鏡神社 https://www.pmiyazaki.com/siromi_j/
 
写真②
 

 

知っちょる?宮崎の祭⑰

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sashi 2022-2-16 16:10

 〇更衣祭〇

 
七月六日の「浜下り神事」と呼ばれる高鍋町堀之内海岸での禊行事による潔斎から始まり、7日の都萬神社本殿での「更衣祭」までの二日間にわたって行われます。「更衣祭」では、本殿より御祭神木花開耶姫命の御神像がご出座され、宮司により、白粉や紅でお化粧が施され、真綿の御被衣を着け、新たな衣を着せ替え、嫁入りのお姿を再現します。着せ替えする衣は毎年氏子崇敬者より奉納され、その衣も枚数でその年の寒暖を占うとされ、前年より多ければ寒く、少なければ暑いと言われております。なお、西都市大字清水の清水神社でも同日に同様の更衣祭が斎行され、御同神祭と称されております。
 
由来:御祭神木花開耶姫命は、天孫瓊瓊杵尊に逢初川の辺で見初められ、事勝国勝長狭神を仲人に立てて結婚されます。これが日本における「仲人を立てた結婚儀礼の始まり」とも言われております。
その御入内のご様子を神事の中で再現するようになり、起源は不詳ですが、室町時代には行っていたと記録がございます。
 
時期:七月七日
 
神社:都萬神社(西都市大字妻鎮座)https://tsumajinja.webnode.jp/
   清水神社(西都市大字清水鎮座)