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宮崎県の神社

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  • 大武神社(おおたけじんじゃ)

    大武神社(おおたけじんじゃ)

    当社は大永二年八月に創建され、古来、天満宮と称した。宝永五年(1708)12月に類焼し、弘化三年(1846)には社殿造営したことなど伝えられているが、古文書等はない。
     明治4年、村社に定められ、大正七年には清高島に鎮座していた八坂神社(祗園社)を合祀して、社号を大武神社と改め、大正十四年九月には神饌幣帛料供神指定神社となった。昭和十六年一月に境内全面両側の宅地五十七坪を購入し、さらに四十九坪の土地の寄進を受け、境内拡張をなして、面目を一新した。
     昭和二十年八月、九月の二回の大暴風雨の為、本殿倒壊し、境内樹木三十須本が倒木したが、昭和二十一年八月に本殿新築、祝詞殿拝殿修理の工事を起し、同年十一月竣工して現社殿を建設した。
     昭和二十一年九月十六日宗教法人令による宗教法人として設立登記し、昭和二十六年六月十四日境内国有地参百拾八坪六号弐勺の無償譲与移転登記をして、今日に至る。

    電話番号
    (0982)36-0433
    郵便番号
    882-0024
    住所
    延岡市大武町196番地
  • 大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)

    大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)

    市の北部を流れる北川の河口右岸に位置する。古くは牟志賀とも書き、天正六年豊後の大友氏が日向へ進攻した際、当地に本宮を置き、社寺を破壊して仮会堂を建設するなど、キリスト教的理想国の建設に着手した地である。また西方の旧国道の頂上は明治十年の西南戦争の激戦地和田越で、野口雨情の歌碑が建っている。
    当社は明暦二年九月の勧請と伝えられており、明治四年十一月郷社粟野名神社に合祀されたが、明治十三年十一月復社の許可があり、旧社地へ遷座した。
    昭和二十年九月大暴風雨の為、本殿、祝詞殿が倒壊したが、氏子の奉仕により同年十一月復興した。
    昭和四十四年七月には荒廃した拝殿の屋根瓦を除去し、着色鉄板に葺き替え、境内整備事業を行い現在に至っている。
    当社は特殊信仰があり、二股大根を奉納すると、子供のひきつけ等の病に効があり、子供のつり神様として願掛けする風習を残しており、遠く大分県宇目町や重岡方面、あるいは日之影町や高千穂方面からも願掛け参拝がある。

    電話番号
    (0982)21-4525
    郵便番号
    882-0021
    住所
    延岡市無鹿町二丁目3368番地乙
  • 牧神社(まきじんじゃ)

    牧神社(まきじんじゃ)

    文明元年十一月の勧請で、諏訪大明神と称していた。寛永五年(1628)十一月、時の領主有馬左衛門の時代に社殿を修復し、諏訪春日の両社を勧請合祀、毎年六月二十五日、十一月二十六には祭典がとり行われ、領主の代参があり祭祀料が寄進されていた。
    万治二年(1659)には社殿を焼失したが、翌三年には再興された。元禄十四年(1701)六月領主三浦岐守明敬が社殿を改築し、享保元年(1716)八月牧野備後守貞通時代にも社殿が改築された。代々の領主の代参があり、崇敬が深かった。
    明治四年十一月、郷社粟野名神社に合祀されたが、明治十三年一月には旧社地へ復社を許され、同年十一月社殿を改築し復社した。
    昭和二十年八月、九月の二度にわたる暴風雨襲来のため、社殿傾斜し、十一月に修理したが、その折、境内樹木四十数本が倒木した。
    戦後、氏子崇敬者により、境内も整備され、祭祀も厳修されて今日に至っている。
    尚、平成十六年十月の台風により、神殿の屋根の部分が損壊、飛散したため、翌六月に同屋根、大床張替、同土台を改修した。

    電話番号
    (0982)36-0433
    郵便番号
    882-0023
    住所
    延岡市牧町4412番地
  • 大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)寺島

    大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)寺島

    当社は明暦二年九月の勧請と言われ、二ツ島の内の寺島に鎮座する。明治四年十一月には郷社粟野名神社に合祀されたが、氏子崇敬者の願いにより、明治十三年十一月復社の許可を得て、旧社殿へ遷宮した。
    昭和二十年九月の大暴風のため、本殿、祝詞殿が倒壊したが、氏子の奉仕により、同年十一月に修理復興した。
    昭和二十一年九月十六日宗教法人令により宗教法人として設立登記をなし、今日に至る。

    電話番号
    (0982)33-6716
    郵便番号
    882-0022
    住所
    延岡市二ッ島町9749番地
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)延岡市

    熊野神社(くまのじんじゃ)延岡市

    本社は元正天皇の御宇、霊亀二年(716)沙門正覚が紀伊国玉置山より熊野三尊の分霊と称する神鏡三面を捧持し、四海安穏万性安楽を折らんがため諸国を行脚中、養老二年(718)当地に来り須佐山に露宿をした。その時夢に三尊が姿を現わし、「吾爰に鎮座せん」と申された。夢から覚めて神鏡を動かせども微動だにしない。よって此に衆生のために神縁を結び、鶏頭山長岡寺を創建し、神鏡を奉安して熊野三社大権現と尊称した。
    桓武天皇の朝延暦五年(786)沙門信宥が来りて住し堂宇を大に興した。光孝天皇仁和三年(887)七月地震により社殿倒壊したが、寛平四年社殿再建された。のち高倉天皇の治承年間、土持氏田部栄網が再建、二十七代土持弾正は社領八十石を寄進した。後土御門天皇御宇文明十七年(1483)己巳、伊東修理亮領内を侵したために祭祀も衰頽した。天正五年(1577)社殿寺院共に兵火を罹り、文禄元壬辰年(1592)大蔵朝臣高橋元種再興、更に慶長十三年(1608)寅有馬左衛門尉直純再興、元禄十三己卯年(1700)三浦壱岐守再興、延享四卯年(1747)内藤右京亮政修補修、寛政元己酉年(1789)六月社殿再興し、爾来領主並びに領民の篤く崇敬する社寺であった。明治四年十一月川島神社へ合祀されたが、同十四年九月氏子の復社請願が許可となった。
    明治二年別当寺職還俗して玉置須計と改め、正覚より五十二代永続して本社は尚今日に及び隆盛である。

    特殊神事『歳頂火(せとき)』
    1280年の伝統を持つ熊野神社の歳頂火は、旧暦の一年の最後の日(1月14日)の夜、一年間の罪や穢れを焼き払い、新しい年小正月(1月15日)を迎える火祭りです。
    一週間前に大きな生木を切り出し、高さ4㍍程の井型に積み上げる。当日午後7時に宮司が御神火を奉じて点火する。夜空を焦がす真っ赤な炎を高さ十数㍍に達し、吹き上げる火炎と周囲に降り注ぐ火の粉は壮観である。
    この祭は一年も欠かしたことがなく、また周囲の山や人家に燃え移ったこともない。この火にあたると病気をしないといわれており、参拝者は餅を長い竹竿の先に付けて焼いて食べる。この木が燃え残ると作物が不作で、燃え尽くすと豊作とも占われる。それで消防団員は夜を徹して残らないように燃やす。
    現在は旧暦の1月14日に近い土曜日の夜に執り行われている。

    電話番号
    (0982)36-0433
    郵便番号
    882-0011
    住所
    延岡市須佐町5357番地
  • 霊山「愛宕山」

    霊山「愛宕山」

    ・愛宕神社
    愛宕山はかつて、笠沙岬とか笠沙山と呼ばれていました。古事記上巻神代には「瓊瓊杵尊、笠沙の御前に麗しき美人(おとめ=木花佐久夜毘売)に遇ひたまひき」とあり、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出会われた地である神話が残ります。
    愛宕神社は往古は現在の城山に祭られていましたが、慶長年間(1603年)高橋元種が延岡城を築く際、現在の愛宕山の頂上付近にお遷しし、それに伴い旧称の笠沙山から愛宕山と改められました。一時期、恒富神社(現 春日神社)に合祀されましたが、崇敬者のたっての願いで現在地に複社しました。火伏の神様として信仰が篤い神社です。

    ・極天様
    山頂は極天様(天空を極める聖地)と称して崇められた霊山で、男坂を設けて国主が直接斎主を務めたため、女人禁制とされていました。今でも奥宮とかごってんさんと呼ばれ参拝者が多く、また徳川家康公のひ孫である日向御前が女人禁制の禁忌を破り登頂した際、奉納した鳥居(笠木部分)が現存しています。

    ・御手洗水神社
    極天様の少し下手の鬱蒼と茂った杉林の中に、御手洗水神社があります。かつては霊域(極天様)に参拝する際の清め処でした。現在は水神様としての信仰が非常に篤く参拝者が絶えず、参道には奉納の鳥居が立ち並んでいます。

    電話番号
    (0982)-32-2520※春日神社
    郵便番号
    882-0871
    住所
    延岡市愛宕山6112番地ロ号
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