宮崎県の神社
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大野神社(おおのじんじゃ)
勧請年月日は不詳であるが、古来より氏子崇敬者が祭祀、造営等を厳修しており今日に至っている。
○明治三年 村社小山神社に合祀される
○明治十四年七月二十二日 旧社地へ複社許可
○明治三十八年十月三日 境内末社若宮神社の合祀も許可
なお、祭神応神天皇の合祀も明治三十九年五月二十八日追加許可され、以後、今日まで祭儀も続けられている。電話番号(0982)34-4645郵便番号882-0086住所延岡市大野町1354番地のロ -
方財神社(ほうざいじんじゃ)
市の中心部を流れる五ヶ瀬川が日向灘にそそぐ河口方財島に鎮座する。
創立年月日は不詳であるが、享保六辛丑年(1721)八月二十一日、安永八己亥年(1779)九月二十五日の棟札を有することから(『宮崎県史蹟調査』)、それ以前の創建と思われる。元は大将軍神社と称して、往古より、方財島の産土神社と尊崇され、島民の厚い信仰に支えられて、祭祀、造営を行って護持されてきた。明治維新の神社合祀で、明治四年同島に鎮座していた稲荷神社(祭神、事代主命、倉稲魂命)、川口神社(祭神、平定霊神、少童命、隈隠霊神)を当社の境内に移して、社号を方財神社と改め、村社に列せられた。
戦後の苦難の時代も、氏子である漁民の篤い信仰に支えられて、度々の改修や境内整備が行われ、今日では海上渡御のご神幸祭などが復活し賑々しく行われており、祭典は厳然として護持されている。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0853住所延岡市方財町167番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)
創立年月日不詳といえども数百年前の創立と伝えている。
維新の際旧藩制度の廃止にともない、明治四年十一月村社川島神社へ合祀された。明治十一年九月氏子一同が再復鎮座の出願し、明治十四年九月許可され、現在にいたるまで祀り続けられている。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0012住所延岡市鹿小路町1041番地 -
竹谷神社(たけだにじんじゃ)
市の北部を南流する北川の西岸の町で、町名のように北は可愛岳、南は長尾山に挟まれた大きい峡谷に位置し、当社は西部の深い谷間に鎮座する。
昭和八年(1771)の創立にして由緒は次のように伝えている。
当時、大峡村に長左ヱ門という農民がり、長い間病に苦しみ、神明に祈願していたところ、ある夜霊夢に白髪の翁が立った。汝は正直で慈善であり、敬神の念が篤いが、いま病に苦しむのは禍津神のためである。自分は皇孫邇々杵尊である。私の骨を納めたのは此の可愛岳の麓で、谷の上に竹が繁っているところに六尺ほどの大石がある、この石を立て祈願すれば、病はたちまち平癒しようと告げ、光とともにご神体の翁が消えたという。
霊夢からさめ、夜が明けるのを待ちかねて山を尋ねると、竹の繁るところに大石があり、再拝して石に手をかけた途端、大石は自ら立ったという。長左ヱ門恐れをなし平癒を祈願すれば、身心たちまち全快した。この神慮に村民大いに驚き、これを伝え聞いた遠近の老若男女、昼夜参詣するもの幾万となり、邇々杵尊の霊蹟と称えたという。
特に領主の崇敬篤く毎月参詣したため、仮屋ができ、また参道にも八軒茶屋という地名が残っている。
明治四年十一月村社川島神社へ合祀されたが、明治十一年九月、氏子一同該社再復鎮座出願し、明治十五年二月十五日許可となる。
『日向地誌』には「竹谷神社趾」として三岩並び峙つ云々とある。当社は高さ1.8㍍の立石一基、1.5㍍の立石二基を祀り、考古学者故鳥居龍蔵博士はこの石をメンヒル(立石)と断定した。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0001住所延岡市大峡町7967番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)
創立年月日不詳であるが数百年前の創立と伝える。北川が延岡港に注ぐ河口水尻町の山丘に、延岡港を見下ろすように鎮座し、産土神として崇敬されてきた。明治三年東海神社に合祀されたが、同十一年九月氏子一統の請願により、同十四年十月復社が許可となり現在に至っている。
電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0015住所延岡市水尻町250番地-3 -
川島神社(かわしまじんじゃ)
当社は紀伊国那智大権現のご分霊を勧請したもので、旧称那智権現と言う。山名に那智の滝があり懸崖十数丈に及び遊所に適した所である。
大友宗麟の兵火後、延岡領主三浦壱岐守が再興し、毎年五月十三日と九月十三日の両度祭祀料の供進があった。その後牧野備後守の時に至り前領主の恒例を取り、また内藤備後守が領有するようになり厚く尊崇し、寛延二己巳年(1749)社殿再建、祭時には領主の代参等があった。明治四年十一月他の神社を合祀して現在の社名となり、明治四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。境内神社として大将軍神社(祭神、岩長姫命)がある。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0017住所延岡市川島町1453番地1 -
大歳神社(おおとしじんじゃ)
延岡市北部を流れる北川河口の三角州にある水田地帯二ツ島町恋島に鎮座する神社で、大歳神を奉祀する。大歳神(大年神)は素盞鳴尊の御子神であり、稲作・五穀豊穣の守護神として、また家内安全、家運繁栄の神として広く崇敬されていることから、当地においても産土神として厚く崇敬されてきたものと思われる。
電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0022住所延岡市二ツ島町8764番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)
当社の創建は不詳であるが、棟札によれば寛永十七年(1640)十月の記録があることから、それ以前の創建と思われる。宝永年間(1704~1711)字山脇の里に遷座され、宝暦十三年癸未(1763)十月五日には、延岡城主内藤能登守政陽再興の記録があり、領主領民の厚く尊崇する社であった。
明治維新の際、旧藩制度の廃止にともない明治四年十一月村社川島神社へ合祀されたが、明治十一年九月氏子一同該社再復鎮座出願をし、同十四年九月二十八日許可となる。
当社は、境内が低地であったため、洪水の度に浸水となり、特に夏の祭には氏子の参拝も難をきわめた。また周辺の民家が殆ど社殿より高地にあり「社殿を見下ろすことになり不敬にあたる。何処か適地に移転しては。」との声が高まり、昭和十年現在地に移転遷座した。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0002住所宮崎県延岡市差木野町5782-2 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)
稲葉崎、粟野名、祝子、三須など各地に点在する円墳、横穴などが延岡古墳として県史蹟に指定されており、円墳の大半には神社や祠堂が立っている。当社も前方後円の古墳の上に、社殿を後円部に置き、前方部を参道として祀られている。車塚の形で、この古墳は県北最大のものという。
創建年月日は不詳、明治四年神社改正の際、旧社号正一位天満宮を菅原神社と改称し昭和三年十一月十三日には村社に列せられた。
昭和五十九年九月二十六日夕刻、幼児の火遊びの為、古来の社殿を焼失したが、不思議にも御神体は火難を逃れられたこともあって、氏子崇敬者の敬神の念、さらに深くなり、翌昭和六十年再興に着手し、一年余の歳月をかけ新しい現社殿を建設した。
昭和六十年十二月二日遷座祭、十二月五日落成奉祝祭を執行し、栄えある社殿を仰いだ。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0003住所延岡市稲葉崎町1802番地 -
今山八幡宮(いまやまはちまんぐう)
延岡市の中心部、市街地を一望する今山の山上に鎮座する。
当宮は孝謙天皇の御宇、天平勝宝二年、豊前国宇佐八幡宮を蓬莱山辰巳の尾上に社地を構えて勧請したもので、国司、郡司の崇敬最も深く、天平宝字二年(758)社領を加増されてから、当山は最も隆盛を極めたので、今盛んなる山、と言うので、今山と呼び、社号を今山八幡宮と称した。古代、臼杵郡内には、宇佐八幡宮に奉仕する神戸が六十戸あり、神戸の民のよりどころとして今山八幡宮が勧請されたのであろう。神戸の存在が、日向国に宇佐神領が設定される端緒になったという。
長承元年(一一三二)類焼、治承四年(一一八〇)には時の領主土持栄綱が宇佐神宮に準じて社殿を再建、とあり、以来、歴代の領主土持、有馬、三浦、牧野の諸氏相継いで崇敬し、社領の寄進、社殿の修築等を行っている。
寛喜二年(一二三〇)の火災や、正平元年(一三四六)肥後の菊池氏、天正六年(一五七八)豊後の大友氏等の兵乱により、その戦火の為、社殿、宝物、書物等が焼失してしまったのであるが、代々の領主の祈願所であったので復旧も他より早く行われたと言われており、内藤家に至っては延岡領内守護の神社として、最も崇敬篤く、造営はもとより、神事能の奉納等が常例となっていた。
明治四年岡富村内の小社を合併して郷社に列せられ、岡富神社と改称、さらに明治三十四年八月に今山八幡神社と改め、同三十四年に県社に列せられた。昭和四十九年、本殿拝殿等の造営事業竣工を機に、当初の今山八幡宮に社号を改称した。
城山にある内藤記念館には、明歴二年(1656)藩主有馬康純が当社に寄進したという梵鐘が保存されており、その地名に延岡が刻されている。これが延岡の名を記録した最古のものではないかとみられている。
今、延岡市はもとより、近郷近在、大分県、熊本県からも祈願の為、参詣多く、県北第一の大社として、広い尊崇の念を集めている。
特殊神事としては、水無月の大祓式がある。これは六月晦日五ヶ瀬川の岸辺に参集し、氏子崇敬者層参加による流し火行事で、各自、家庭の人数ほどのローソクに火を点けて形代と共に川から海へ流す祭礼行事である。
また、南正参道入り口にある末社今山恵比寿神社の祭礼「延岡十日えびす」は従来旧正月十日に行われていたが、現在では新暦二月十日に行われており、夜賑わう祭で、露天商の灯りに福笹が浮び、数万人の人垣が揺れ動き、九州三大えびすの一つといわれ、また、日向之国七福神の恵比寿神にて、遠方から福を求めて参詣社が多く独特の雰囲気のある祭りである。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0055住所延岡市山下町一丁目3875 -
鯛名神社(たいなじんじゃ)
元正天皇の御宇に勧請されたもので、当時より国常立之神、豊斟渟之神、大物主之神を祀って、比叡大明神と称してきた。
当時鯛名の産土大神と尊崇し、祭祀を行い造営等も執行して護持してきた社であって、明治四年神社改正の際、当地字汐汲の稲荷神社(祭神・倉稲魂神、大宮姫神、大田之神)、同字迫頭の金山神社(祭神・金山彦之神)、同字南山の恵比須神社(祭神・蛭児之神、事代主之神、大己貴之神)等を合祀し、同年十二月二十三日旧来の社号であった比叡大明神を鯛名神社と改めて、村社に列せられ今日に至っている。以前の社殿は、建立以来117年の歴史を刻み、その間台風、白蟻、更に老朽化等で危険な状態となり、平成九年八月十七日の当町臨時総会に於いて、総意により神社建設を議決、延岡市内各企業、当町出身者及び各世帯より、奉賛金のご協力をいただいた。
電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0516住所延岡市鯛名町337-ロ -
櫛津神社(くしつじんじゃ)
もと天神宮と称して往昔より当地櫛津の産土大神と尊崇され、祭祀、造営等が行われてきた。
明治四年神社改正の際、櫛津エンセキ山鎮座の天神社(祭神 天槵津大来目神)を十二月朔日に合祀して、旧来の天神宮の社号を櫛津神社と改め、村社に列せられた。
更に、明治四十年十二月九日には神饌幣帛料供進神社に指定され、今日に至っている。
『日向地誌』によると、櫛津神社として櫛津の海浜にあり、彦火瓊々杵尊を祭るとある。天槵津大来目神は『日本書紀』の一書などにより、天孫降臨の際天忍日命とともに先駆をなした武神である。大久米命ともいい、久米部の大祖神である。電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0514住所延岡市櫛津町3515番地のイ号