宮崎県の神社
-
嶽宮神社(たけみやじんじゃ)
御創建の年代は明らかではないが、高千穂町押方二上嶽鎮座二神大明神の外宮として勧請せられて嶽の宮岳大明神とも称した。
天文八年(1539)領主三田井越前守親武が再建、また同十八年(1549)己酉二月十八日藤原朝臣甲斐若狭守鑑昌が社殿の建立を終っている。
元禄四年(1691)藩主有馬氏から神領五斗が寄進され、その後寛政元年(1789)十二月五日社殿再建された。明治六年(1873)村社に列し本組神社と改称し、昭和四十四年二月二十四日に嶽宮神社と改称して今日にいたっている。電話番号(0982)73-1009郵便番号882-1102住所西臼杵郡高千穂町大占押方325番地 -
二上神社(ふたがみじんじゃ)
高千穂町と五ヶ瀬町の境界に位置する二上山は、南西の男岳、北東の女岳からなり、当社は北東山ふもとに鎮座する。(西山麓鎮座は現三ヶ所神社)
当社の由来は、古来二上山にあった二上大明神を東と西の山麓におろして祀り、醍醐天皇の昌泰六年(898)に創建されたと伝える(郡内神閣簿)。永正八年(1511)十二月十九日三田井右武の再建に預り若干の神領地が与えられた。明治四年に山附神社、更に明治三十四年一月二十九日に二神神社と改称、昭和九年には二上神社に復した。
二上山は『日本書記』に記された天孫降臨の山といわれ、『日向国風土記』逸文に出てくる高千穂の二上峯である。北麓に乳が窟があり天照大神の岩戸隠れに因んだ場所とも、あるいは当地方の伝説に出てくる鬼八のすみかとも伝えられる。永正八年(1511)辛己十二月十九日大神朝臣右武の棟札もあり三田井家の信仰が篤かった古社であることがわかる。神跡明細記に小谷内(神社鎮座地)を子種落ともいうと書かれていることから、「イザナギ、イザナミ二神の神子種生み給う所」とも伝えられている。二上山の右に神塚山があり、高屋山陵のことでもあるといわれている。電話番号(0982)73-5621郵便番号882-1102住所西臼杵郡高千穂町大字押方2375番地ノ1 -
槵觸神社(くしふるじんじゃ)
当社には記紀に記されたところの「久士布流多気」、「槵觸二上峯」に鎮座し、この地は古来天孫瓊瓊杵尊御降臨の地と伝えられている。
江戸時代に三浦候が延岡城主となるや、十社宮(高千穂神社)の大宮司、田尻乗信の要請を容れ、元禄七年六月十五日に社殿が建立された。しかしこの地は、社殿建立以前から久士布流(くしふる)峰そのものが神山と崇められ、高千穂八十八社の一社に数えられていたから、その信仰はさらに上代にまでさかのぼるであろう。
元禄時代、延岡城主三浦直次の家臣岡田定賢の著した『串振記』には、
「ここに槵觸大明神の来歴を稽ふるに、日向国高千穂二上槵觸嶽は日本秋津州神道流布根源の地なり・・・天児屋根命即ち槵觸大明神の御事、春日大明神と同一体の御神なり」と書き記されている。
従って創建当時の祭神は天児屋根命を槵觸大明神として祀ったのであり、それゆえに天孫降臨の地として久士布流多気を日本神道発祥の地として理解し、神官職の宗源神ともいうべき天児屋根命を主神として祀ったのである。
明治六年五月二十五日、旧称槵觸大明神は二上神社と改称せられ県社に列したが、明治四十年二月神饌幣帛供進指定神社となっている。そして明治四十三年十一月十九日に旧社名に復し、槵觸神社と改められた。
明治時代は高千穂を訪れる識者も少なく、坪井正五郎・吉田東伍などその稀なる人であるが、大正に入りて学者文人の往来漸く繁く、鳥居・高柳・喜田・宮地・筧の諸博士などが来宮された。就中、宮地博士は高千穂神社をはじめ当時の古文書を隈なく渉猟し、神祇資料を整えてその保存を指導せられた。喜田博士は日向史編纂にあたり高千穂を特に重視せられ、筧博士は大正の御代貞明皇后に惟神の道と高千穂の神蹟を講ぜられ、皇后宮の思召にて版本となった筧博士著『惟神の道』の講本は、全国の地方庁、官国弊社とともに、特に高千穂・槵觸両神社にも下賜なされている。この御縁によってか大正十四年春三月には秩父宮雍仁親王殿下の参拝があり、その後昭和の御代に入りては、梨本宮同妃両殿下の御成(九年秋)、秩父宮同妃両殿下(九年十月)、久松侍従(十年十一月、特別大演習)、皇太后宮側近女官(十五年秋)、三笠宮崇仁親王殿下(十七年九月)他、朝香大将宮、賀陽の姫宮など相前後して参詣をかたじけなくしている。
戦後は昭和三十年六月に高松宮宣仁親王殿下が初めて御成賜ったが、四十一年十一月には、天孫降臨の聖地高千穂顕彰のため、槵觸神社横、高天原遙拝所裏に建立された「高千穂碑」建立の名誉総裁として、除幕式御親修のために再び御参詣を賜っている。常陸宮正仁親王殿下の御成は昭和三十八年八月であった。
槵觸神社の鎮座する槵觸嶽の裾には、樹齢約三千年とも云われるケヤキの神木に囲まれた天真名井があり、その下を神代川(くましろがわ)が流れている。その創建の由来からして、槵觸の峰は高千穂宮縁由の聖地であり、高千穂宮は高千穂宮は高千穂皇神神号の淵源であって、槵觸の社殿が高千穂神社の分祠として建立された事跡を思えば、まさに両社は一体不離の関係にあり、ともに天孫降臨の聖地高千穂を代表する重要な神社といえよう。
当神社は、昭和五十八年十二月に約三百年ぶりの御造営が行われ、本殿拝殿や社務所などの造営が完成している。電話番号(0982)72-6354郵便番号882-1102住所西臼杵郡高千穂町大字三田井713番地 -
高千穂神社(たかちほじんじゃ)
天孫降臨の神話の地、高千穂御88社の総社であり、平安時代の古書に2度にわたって記載され、日向国最高の神階を奉授された古社である。
鎌倉幕府の代参として参詣した秩父の豪族畠山重忠が参拝記念に植えた「秩父杉(樹齢800年)」や、根元がつながって夫婦円満・縁結びの信仰のある「夫婦杉」など境内には樹齢数百年の杉が林立している。
鎌倉時代に奉納された鉄製の狛犬と、江戸時代に造営された本殿はともに国の重要文化財に指定されている。
境内の神楽殿では、毎晩国指定重要無形民俗文化財の高千穂の夜神楽4番が一般公開されている。○猪々掛祭(ししかけまつり)
日時 旧暦12月3日
由緒 鎌倉時代から伝わる霜除神事で、この祭典で奉納される神楽は「笹振り神楽」といわれて高千穂神楽の原型といわれる。
神代の昔、荒振る神鬼八(きはち)を十社大明神が退治したが、鬼八の霊は何度も生き返り、早霜を降らせて作物を害したため、鬼八の好物である猪1頭を神前に捧げて鬼八の霊を慰め、五穀の豊穣を祈った。この祭りで炊いて供える新穀の器は、天正年間のもので、この猪々掛祭のみに使用される木の鉢(おわん)である。電話番号(0982)72-2413郵便番号882-1101住所西臼杵郡高千穂町大字三田井1037番地 -
中畑神社(なかばたじんじゃ)
高千穂町西部五ヶ瀬川上流の山間地に位置し、地内中央には標高513メートルの小丘ながら300度以上の視界で高千穂盆地を一望することができる国見岳があり、祖母傾国定公園の特別地域として高千穂観光の目玉になっている。
当社は初め中畑大明神と称し、神武天皇の第二子の御子神八井耳命の第六子健磐龍命をお祀りし、明治六年には村社に列し、五ヶ村神社と改称され、後に昭和十一年、氏子の願いにより村社中畑神社と社号を改められた。
一名阿蘇津彦ともいわれる命が、宮崎の吾田より高千穂を経て阿蘇に向かわれた時、此処(字中畑)に行在所を設けられ、上の岳(現在国見ヶ丘)より高千穂及び阿蘇の国々を国見された。その間この地方の民に田畑を耕し五穀を作ることを教示され、阿蘇に向かわれた。其の御神徳を仰ぎ、行在所を設けられた聖地に社殿を建立し命を奉祀した社である。
当社に存する棟札写しによると、永享十一年(1439)三河守貞貫の命により中畑大明神宮上棟と記されている。しかしこれ以前すでに社殿は建立されていたと伝えるが、存する資料がなく鎮座の年代については不詳である。永禄三年(1560)三田井越前守親武により社殿が再建され、宝永八年(172)舞殿、安政三年(1856)鳥居が建立された。その後天保十一年(1840)社殿を再建し現在に至る。
本殿向拝柱には、龍の彫刻がほどこされ、その丸身を帯びた姿はまことに見事で、とくに人目を引いている。電話番号(0982)72-5547郵便番号882-1102住所西臼杵郡高千穂町大字押方6417番地 -
向山神社(むこやまじんじゃ)
高千穂町南部、五ヶ瀬川上流右岸の山間地に位置し、東から北は五ヶ瀬川の断崖で、名勝高千穂峡谷となっている。
古くより丸小野権現、向山熊野十二社権現と称し、向山村(現大字向山)一村の大社として三田井氏の尊崇が篤く、十社大明神大宮司田尻弾正物部則之の『神社由緒改略記』には、三田井越前守親武が再建した棟札があると記している。また天正七年(1579)に親武の弟である三田井親貞が向山丸小野権現に土地を寄進した(田尻文書)とある。明治六年丸小野神社と改め村社に列せらる。更に同三十一年六月向山神社と改称した。
『日向地誌』によると、丸小野神社と改称されたのは明治四年で、旧称熊野十二社権現といい、現祭神のほか二神が祭神としてあげられている。
当社所蔵の鉄造狛犬一対は町文化財に指定されている。電話番号(0982)72-2413郵便番号882-1103住所宮崎県西臼杵郡高千穂町大字向山1805-3 -
黒仁田神社(くろにたじんじゃ)
当社の創建は、社殿によれば文久三年(1863)正月とあるが、『宮崎県地名大辞典』によれば、享保十三年(1728)社殿が全焼し、翌十四年再建したとの記事があり一定しない。
『日向地誌』には黒泥田神社と記され黒泥田にあり、伊弉諾尊を祭り旧称天神というとある。伊邪那岐命を祭神として、土地の氏子たちは若宮様と呼んでいる。明治四年黒仁田神社と改称された。大正十五年三月黒仁田地区火災により社殿焼失したため、昭和二年十二月再建された。又、昭和四年六月には神饌幣帛料供進の神社に指定されている。
二月十日には高千穂夜神楽の一つである黒仁田神楽が奉納される。電話番号(0982)72-2413郵便番号882-1103住所西臼杵郡高千穂町大字向山4040番地 -
椎屋谷神社(しいやだにじんじゃ)
天文年間、領主三田井越前守親武が再建したと伝えられ、享保四年(1719)十月十九日延岡領主牧野越中守の時代に再建し、御内岩屋大明神と称した。明治六年椎屋谷神社と改称した。
電話番号(0982)72-2413郵便番号882-1103住所西臼杵郡高千穂町大字向山500番地 -
秋元神社(あきもとじんじゃ)
天和三年(1683)の創建と伝えられ、明治六年村社に列せられた。
建磐龍命が諸塚大白山腹に創建し、1683年現在地に創立される。
太白大明神又太子神と称し、村人の氏神様として祭られる。
明治四年(1872)に秋元神社と改称し、村人をはじめ、県内外より多くの方々により信仰されている。
春は野の草花が、秋には御神木の銀杏が境内を彩る。また参道入口と拝殿横のお手水は諸塚山より長い年月かけて湧き出る山水で、昔から御神水として多くの方々に重宝されている。
昭和十一年五月二十日社殿の改築。
現在の社殿は、平成二十一年に改築。電話番号(0982)72-2413郵便番号882-1103住所西臼杵郡高千穂町大字向山6781番地