宮崎県の神社
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平清水神社(ひらしみずじんじゃ)(高九社神社)
勧請の年月日は詳らかではないが、古来より尊崇されてきた社であって、徳川家康の時代には、神号を高九社大明神と称した。寛永元年(1624)八月二十一日を祭始めとした。明治維新によって平清水神社と改称した。
昔は、裸体参拝の風習があったがその後風紀取締りによってこれを禁じたため、下着一枚に注連飾を腰にまとい寒中に参拝する遺風がある。
当社は天正十九年(1591)九月領主高橋元種公によって滅された三田井越前守親武公の弟庄次郎、左平太及び安右衛門(寛政三年五月二十一日付高九社大明神御縁記にある豊後の国夘田村大太夫と言う長者の娘花の元という姫に生まれた緒方三郎昱吉、佐伯次郎是春高千穂太郎昱行とある三人と同人)を神として崇め合祀したものである。
元和八年(1622)の棟札には高大社とあって、慶安元年(1648)のそれには鷹九社大明神と記されている。高を鷹とし、六社を九社としたのは、有馬候上阪の時海上難風に遭い、無事を祈られたところ鷹が飛来し、三つ来て舟を守り、恙なきを得たことから鷹三羽の上を加えて六社を九社に改めたといわれる。左平太等の名を記した棟札様のものには、寛永五年(1628)高六社大明神とあり、その場合は庄次郎三名を加えて九社にしたとも考えられる。庄次郎等は親武没落後における最後の三田井氏である。電話番号(0982)74-8239郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折8029番地 -
大菅神社(おおすげじんじゃ)
菅原道真公を祀ったため、古くは天満宮と称したが、明治四年に大菅神社と改称した。
電話番号(0982)87-2751郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折6310番地 -
平底神社(ひらぞこじんじゃ)
古老の言い伝えるところによると、元禄年間に村中の者が申合わせて、雷除の神として創建したとのことであるが、詳しい創立年月日はわからない。後に織田大明神並に熊野権現も合祀されている。
電話番号(0982)72-2413郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折11986番地 -
竹之原神社(たけのはるじんじゃ)
勧請の年月は詳ではないが、昔より尊崇されてきた社であり、天正年間村中の者申合せて諸病除の神として建立したとの伝えがある。後、享保十一年(1726)領主牧野越中守より許可を受け神名を石神大明神と称した。其後代々竹の原の氏神として崇敬し来り、明治四年神社改正の際竹之原神社と改称した。
電話番号(0982)87-2751郵便番号882-0401住所宮崎県西臼杵郡日之影町七折3620-1 -
宮水神社(みやみずじんじゃ)
勧請年月日は詳かではない。天正十九年(1591)九月三田井越前守親武公が松山の城主高橋元種公に滅され、その首級を元種公の実験に供せんとここまで運んできたが、首級にわかに重くなり動くことができなくなったためにこの地に埋葬した。旧領民は親武公を朝に夕に哀慕追悼したが、享和三年(1803)八月石碑を建立し、くだって天保十五年(1844)に至って神として祭祀したいとの願いを、時の神祗管領吉田家に願い出、親武大明神の神号を許され、安政三年(1856)十一月十五日社殿を創建した。その際袴谷に鎮座していた北山大明神を此処にうつして合祀し、明治初年郷社に列せられ、宮水神社と改称した。北山大明神は大山祗尊を祀り、天正十五年十一月の勧請にして、代々領主の厚く尊崇する社であった。
なお宮水神社にちなんだ次の伝説は、当社の歴史をうかがい知る上で面白いと思われるので紹介しておく。
日之影町宮水に雨社という社祠がある。三毛入野命(高千穂宮の祭神で、十社大明神)が鬼八退治の途中で俄雨にお会いなされたとき、路傍にあった楠の木の洞に御急速になり、雨がやんで再び御出発なさる時、祈念として、自然石二戸を安置された。里人はこの石を神体として三毛入野命を尊崇し、楠木の傍に小社を建て雨社水神と称して厚く尊崇した。この小祠は明治初年宮水神社に合祀されたが御神体の自然石は今なお存しているという。また、七折村に袴谷という所があり、三毛入野尊が俄雨に会った際、袴の裾に付着した泥を洗ったところという。里人はそこに樟を植え大山祗尊を奉祀してきたが、安政二年、この社は宮水神社に合祀されたと伝える。(『日向の伝説』)電話番号(0982)87-2751郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折9246番地 -
一水神社(いちのみずじんじゃ)
勧請月日は詳にしないが古老の言い伝えによると、村中で申合せて雷除のため寛永年間に祀ったといわれる。
旧称天満宮といい、明治四年現社名に改称した。
昭和二年七月から本殿改築、祝詞殿、拝殿、玉垣、鳥居などの新築工事にかかり、翌三年三月完工した。
当社の鎮座する一水は、三毛入野尊が鬼八退治の途次、路傍の清水を掬って召されたところ、たいそう美味であったので「一の水だ」といわれたことにより、この地名が起きたという。電話番号(0982)87-2751郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折11623番地の2 -
波瀬神社(はぜじんじゃ)
古伝によると三毛入野命(高千穂神社・十社大明神)が鬼八退治にお出ましの折、この境内に御休息に立ち寄られた。このとき休息に用いた石を三毛入野命の「腰掛石」と称して、今でも里人は注連縄を張って崇めている。また元和年間島原に戦乱起り、当国城主有馬左衛門直純島原に御出陣のみぎり、当社境内にて召馬が俄に病気でたおれたため、村の長老を召して当社はいかなる神かとお尋ねになった。長老が「その昔、三毛入野命が鬼八退治のためにこの社にご休息された際、イザナキ・イザナミ二神を形代として山神と称して祭ってきたことを聞かれて、三毛入野命は改めて当社に名字大明神の神号を賜った」との古伝を説明した。これを聞いて有馬公が召馬の病気平癒と戦捷祈願をされたところ、召馬たちどころに勇み立ち、有馬公は島原の戦いにおいて大いに武勲を立てられた。有馬公はその奉賽のためにと内宮を建立されたという。現在では牛馬守護の神として崇敬されている。
明治四年波瀬神社と改称された。電話番号(0982)87-2751郵便番号882-0401住所宮崎県西臼杵郡日之影町七折9742番地 -
椎谷神社(しいやじんじゃ)
古老の伝説によれば、村中の者が雷除けのために元禄年中に奉祀したと伝える。旧称天満宮と称したが、明治四年椎谷神社と改称した。
電話番号(0982)72-2413郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折14261番地-乙 -
深角神社(ふかすみじんじゃ)
古来より伝えるところによれば、天より降ってきた神と伝え、古い大木にかけた二面の鏡がある。鏡面に神のすがたがあり此の神は諸病除の神として天正年間に祀ったという。
鏡一面には少し影があり一面を素戔嗚尊、一面を大己貴命と言い伝えている。
元、杵築神社と称したが明治四年神社改正の際、織田神社を合祀して深角神社と改称された。
祭神名に織田信長公霊とあるが、これは織田半平命のことであろうか。織田半平命については次のような伝説がある。深角神社はもとは織田重美という人の霊を祀ってあったが、何時の頃からか付近の素戔嗚命を祀った社と天満天神を祀った社とをここに合祀した。織田重美(当地に来てからは半平と称した村人は信長の子孫だといっている)はその弟杢之丞と共に何かの罪によって日向に流され、暫時延岡藩主有馬氏によっていた。ある時有馬氏が重美の下駄をはいたら足に着いて離れなかった。その時重美が「許す」といったらすぐ離れた。家老は殿様に対して「許す」とは失礼だと怒り七折村に遷された。
ある時お上から何日に彼等を殺せとの状が届いた。しかしその日の来ないうちに「赦免」の状が着いた。ところが代官は遂に彼等兄弟を殺してしまった。重美を殺しに向った者達はその窓下で火事だと叫び、彼が首を出した所を挾木で絞殺した。
その後代官は頓死した。付近には火災が多くなった。「火事」といえば「深角だろう」という程であった。人々は織田様の祟りだと考え、小石に大般若経を書いて埋めた。
社を建てて織田大明神として崇め祀った。神体の鏡は周りは一尺位で、中央に一寸位のお姿があり、これは閻浮檀金で作られているという。弟の杢之丞は平底に平底大明神として祀られている。(『日向の伝説』より)電話番号(0982)72-2413郵便番号882-0401住所西臼杵郡日之影町大字七折12718番地 -
鹿川神社(ししがわじんじゃ)
宝永五年(1708)十二月九日、三神を勧請し熊野三社大権現と称し、産土神として尊崇してきた。境内に大己貴命を祀る黒尊神石があり、村民の一人が霊夢により見い出して祭祀したものと伝えられる。年々正月十六日、霊夢の縁起の日を祭日にしているが、霊験あらたかなる石という。
『日向地誌』によれば、当社祭神について伊弉冉尊、事逆解男命、速玉男命を合祀すると記してある。
明治四年鹿川神社と改称、現在に至る。電話番号(0982)87-2751郵便番号882-0401住所宮崎県西臼杵郡日之影町七折4894-1 -
天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)
記紀にある「天岩戸」を御神体とする神社。徒歩10分の所に、八百万神を祀る「天安河原」あり。
九州山地の中央部、高千穂町の東に位置し、地内を流れる岩戸川岸に鎮座する。当社周辺には、県の史跡に指定された岩戸古墳が散在する。当社の由緒は、記紀に皇祖天照大神が、弟の素戔嗚尊を御避けになられ、暫く天岩戸へ御籠りなされた事を記してあるが、当神社はその霊蹟「天岩戸」を斎い奉る社である。天孫瓊々杵尊が御降臨され、初て天が下知食し給ひし時に斎い創め給われたと伝える古社で、境内(西本宮)対岸の断崖の中腹に天岩窟があり天照皇大神が籠らせ給いし処と伝え、古より其御神域を御神体として祭祀している。社殿は御霊代鎮祭の東本宮(氏神社)と天岩戸直拝の西本宮(天岩戸神社)であり、岩戸川の渓谷を挟み御鎮座する。昌泰(898~901)の記録に、天照皇大神天岩戸より御出ましの節、思兼神其の御手を取り、東本宮の土地に御造営の御社殿に御鎮り願ったと記してある。弘仁壬辰三(812)歳中秋、三田井侯の遠祖、大神太夫惟其公、霊夢に恐惶して荒廃せる東本宮社殿を再興し、深くその神明を崇敬した。しかし、戦国の乱世に炎上し、以来幾多の汚隆顕晦を経て、宝永四丁亥年(1707)に至り漸く再興の緒に着き、それより藩主の崇敬頗る篤く、弘化三年以来藩主の参詣が度々あった。皇室の崇敬も厚く、陛下の御代参、秩父宮、同妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、常陸宮殿下外皇族、侍従の代参等、御参拝があった。往時は、名士の尊崇をうけ、大宝年間、京都の神祇官、卜部朝臣参拝、寛政の奇士、高山彦九郎参詣紀行、薩摩の歌人、八田知紀、三井寺の座主、伊井大老を討ちたる水戸の烈士、井上主人義秀等八名参籠あり。又、江戸時代には江戸の旗本、奥女中、商人等の崇敬をうけ石燈籠をはじめ数々の寄進の品がある。
『日向地誌』によれば、天岩戸神社について、天照皇大神を祀り旧称天磐戸といい、明治四年今の名称に改称したとあり、氏神社について、伊邪那岐尊、伊邪那美尊を祀り旧称氏神といい、明治四年今の名称に改めたとある。その後、氏神社の御祭神は、昭和五年二月天照皇大神に変更された。昭和四十五年三月、天岩戸神社、氏神社の合併が商人され、天岩戸神社西本宮、東本宮となり、同四十六年七月別表神社に加列された、昭和六十年、本殿、拝殿、お旅所、神楽殿、内玉垣の改修に着手し、翌六十一年四月竣工した。
例祭は五月二日と三日が西本宮祭で、豊作と平穏を祈る願掛け祭りである。東本宮祭は九月二十二日と二十三日の両日に稔りと平穏を感謝する願ほどきの祭りとして行われる。祭りには二基の神輿に棒術組、神面(男面の手力男命、女面の天鈿女命)たちが従い棒術や荒神舞が披露される。十一月三日には、国の重要無形民俗文化財に指定されている高千穂の夜神楽の一つである岩戸神楽三十三番が公開まつりとして、朝十時から夜の十時まで舞い続けられる。又十月二十一日には天安河原宮祭りが斎行される。神社周辺には天安河原・天の浮橋・天御汐など神話の伝説地が残る。西本宮境内には天岩戸神社徴古館があり、考古資料など二〇〇〇点を展示、古代高千穂地方の貴重な学術資料である。電話番号(0982)74-8239郵便番号882-1621住所西臼杵郡高千穂町大字岩戸1073番地1 -
熊野神社(くまのじんじゃ)高千穂町
高千穂町西部の山間地、五ヶ瀬川支流田原川流域に位置する。地内には県史跡に指定された田原古墳が散在する。
当社は人皇八十八代後嵯峨天皇の御宇に紀州熊野より勧請し、田原村総鎮守として奉斎したと伝える。九州熊野三社権現。社蔵の記録によれば、慶長十五年(1610)領主高橋右近太夫元種が社殿を再建したが、宝暦六年(1756)八月二十九日社殿炎焼、同八年夏、願主田原村大庄屋矢津田吉左ヱ門再建とある。
明治四年地区に散在せる小社を合祀し村社に列せられた。
明治三十五年九月大郎に鎮座し、旧称牛神と称した村社田原神社(祭神、素戔嗚尊、譽田別命)を合祀、同四十年五月宮尾野越に鎮座していた村社広福神社(祭神、少彦名命、天道根命、菅原道真公)、染野に鎮座し、旧称天満宮と称した染野神社(祭神、菅原道真公)を合祀し現在に至る。電話番号(0982)75-1470郵便番号882-1413住所西臼杵郡高千穂町大字田原640番地