宮崎県の神社
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高妻神社(こうづまじんじゃ)
旧称を入神大明神と称し、素盞鳴命、猿田彦命、大山祇命の三神を当時の「神谷村」、現在の紙屋村に古くから祀っていた。
『三国名勝図会』によると、「鎮守として、高妻八社大明神があり、猿田彦命を祀り、天明六年(1786)再興の棟札があるという」とある。また『日向地誌』によると、素盞鳴尊を祀り、旧称八社大明神といったが、明治初年に高妻神社と改め、さらに紙屋神社と改めたとある。明治四十三年一月二十五日、旧道沿いの秋社野の小高い丘の中腹にあった秋社野大将軍神社を当神社に合祀した時秋津毘古命を加え、四神となった。
この時より高妻神社と改めた。その後(年代不詳)当神社は火災となり棟板二枚の焼残りを現在奥殿に安置している。
昭和十三年七月当村氏子の念願かなって再興社殿の新築となった。四神を合祀し神鏡を奉祀してある。境内には樹齢四百年以上の杉その他常緑樹が繁っている。大正初期より末期まで城攻踊、棒踊り、伊勢神楽等奉納があった。昭和初期頃より永年例祭には剣道奉納試合が盛んに行われていた。
境内には大正元年九月高木兼寛男爵(海軍医総監)が県下の優良校であった紙屋小を訪問後、当神社参拝したのを記念した巨石の記念石がある。明治十年の役の戦没者十二柱を祭った招魂社を昭和三十五年に紙屋の弓場から移転奉祀し、同年にまた大東亜戦争の戦没者陸軍九十六名、海軍二十二名計百十八柱の忠霊碑が、遺族会によって建立されている。電話番号(0984)22-3534郵便番号886-0211住所小林市野尻町紙屋1468番地 -
八尾神社(やつのおじんじゃ)
創立年代は定かでないが、祭神貫佐貝此売命は、大国主神が八十兄神等の災いにより火傷されたおり、母・刺国若比売命の願いにより神産巣日神が遣わした二神のうちの一神であり、火傷の治療をなされた神であることから、火難消除の神として古くから当地に奉祀されていた。
当社は古来「八王権現」と称されていたが、明治初年の神仏分離により「八王神社」と称するようになった。『日向地誌』によると、伎佐貝姫命を祭り、旧称を八ツ王権現といったとある。のち明治十九年王の一字を改めて「八尾神社」と称するようになり今日にいたる。大正五年八月境内拡張・整備と、本殿、拝殿の造営遷座がなされた。現在の拝殿は氏子崇敬者の篤志により、平成二年八月八日に改築されたものである。電話番号(0984)22-3534郵便番号886-0213住所西諸県郡野尻町大字三ヶ野山2026番地 -
高都万神社(たかつまじんじゃ)
確たる創建年代はさだかでないが、現野尻町が古代より天孫降臨の地霊峰高千穂の麓に陸路の要所として発達していたことが『日本書紀』の景行天皇紀や『延喜式』に日向の駅「野後駅」と出て来る。この頃から天孫降臨の功臣猿田彦大神の徳を仰ぎ、みちびき・開運・開拓の神として、また牛馬の守護神・男女の守護神として奉祀されたらしい。このことは野尻町天神丁在住の長氏の系図にその祖先が日向之国(宮崎県)諸県郡真幸院に下向したとしており、大王権現と称し野尻町天神丁に奉祀し(現在地に古宮跡の石碑と神木が残る)、何代か続いたと載っていることでも推察できる。一説によると、仁安三年三月の再興といわれている。また、当社に残る棟札によると、寬文四年(1664)十二月二十五日島津二十一代藩主・島津光久公により武運長久・領内安全・繁栄・子孫繁栄を祈願して天神丁から大王に遷座されたとある。その後元禄五年(1692)に島津綱貴が再興、宝暦十二年(1762)、天明三年(1783)、文化九年(1812)、明治二十七年と本殿・拝殿の改築や境内地内外の整備がなされた。昭和十五年の皇紀二千六百年記念事業として現在の本殿・拝殿がご造営された。そのおりに境内神社も合祀された。また、昭和五十五年に屋根の全面改修、昭和六十年に今上陛下御在位六十年を記念して玉垣及び境内地の環境・施設整備が行われ今日に至る。
当社は、古来「大王権現」と称されていたが、明治初年の神仏分離令により「高都万神社」と称するようになり(大王権現の扁額は今日拝殿正面にかかげられている)、明治六年(1873)郷社に列せられた。明治四十一年十月神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。電話番号(0984)22-3534郵便番号886-0212住所西諸県郡野尻町大字東麓539番地 -
狭野神社(さのじんじゃ)高原町
社伝によれば、人皇第五代・孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に御創建されたのが当社の創祀という。当社より西方一キロの霊跡に末社皇子原神社が鎮座し産場石と呼称される神石が奉齋されている。ご祭神御生誕の際に産湯を御取りになられたと伝承され今猶安き出産を齎して戴けると伝えられる。また霊峰高千穂の峰麓周辺に皇子川原、祓川、血捨ノ木、宮ノ宇都、鳥居原等の神武生誕にまつわる地名が残っており御祭神のご生業を物語っている。神武天皇は御齢壱拾五才を迎える迄、此の地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ御東征後、彼の橿原の宮居にて初代の天皇としてご即位なされた。
当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座する為幾多の火山噴火の災禍に見舞われている。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦七年・七八八年)七月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(一二三四年)十二月二十八日の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされた。霧島山の噴火も治まった慶長十五年(一六一〇年)には、新たに社殿を造営し狭野の旧跡に還御した。記憶に新しい処では、平成二十三年一月二十六日、霧島連峰新燃岳が再三に亙り噴火し、小林市霧島岑神社に暫し遷御する。旧社領地は東西二千間・南北一千間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主島津当家より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われた。文禄年間、豊臣秀吉の朝鮮の役では、薩摩藩主島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ凱旋の後、慶長五年(一六〇〇年)祈願奉賽として重臣新納武蔵守忠元を遣わし、境内全般に杉を植栽した。大正十三年には狭野の杉並木として国の天然記念物に指定され、現今境内に鬱蒼として聳えるのはその老杉である。明治六年県社に列し、大正四年には官幣大社宮崎神宮の別宮に指定される。また第三十代敏達天皇の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜る。後に霧島仏華林寺神徳院と称するようになり、霧島修験道の大寺として信仰される。慶応二年廃仏毀釈により廃寺となるが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ神徳院墓地を創設し祀っている。高千穂峰近在に鎮座する霧島六所権現(当社・霧島神宮・霧島岑神社・霧島東神社・東霧島神社・夷守神社)の一社としても数えられている。電話番号(0984)42-1007郵便番号889-4414住所西諸県郡高原町大字蒲牟田117番地 -
霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)
創建は第十代崇神天皇の御代と伝えられる。天暦年間(947~957)に、天台宗の僧、性空上人が4年間霧島山に入峰修行。高千穂峰の周囲6ヶ所に鎮座する其々の神社の傍らに寺院(別当寺)を建立し、後に霧嶋六社権現、霧嶋修験と呼ばれる神仏習合の霊場として開山する。以来、当神社は東御在所之宮と称えられ、別当寺として千手観世音菩薩を本尊とする東光坊花林寺錫杖院を有し、最盛期には360名を越す山伏行者が、山内に宿坊を営みつつ社寺の護持に勤めたとされる。度重なる霧島山の噴火に社寺造営を重ねるが、文明18年(1486)の造営の際、圓政法院を中興とし天台宗より真言宗へと改められる。以来、24世の別当職が続き、南九州最大の修験道根本道場として尊崇を極める。明治元年の神佛判然令、及び明治5年の修験道廃止令により錫杖院は廃され、神社名も改称されたが、今日に至りても尚、神意佛心を崇める修行の霊場として、御祭神の祭祀は本より、龍神信仰、天狗信仰、権現信仰を守り継ぐ。社殿は享保12年(1722)の造営より、幾度かの改修を経て現在に至る。殿内奥に雄雌一対の龍柱が祀られ、向拝には寛文6年(1666)、島津家19代当主、薩摩藩2代藩主島津光久公寄進の「東霧島坐(霧島の東に坐す)」の扁額が懸かる。高千穂峰の山頂を飛地境内とし、山頂に從える天之逆鉾は当神社の社宝として祀られている。
電話番号(0984)42-3838郵便番号889-4414住所西諸県郡高原町大字蒲牟田6437番地 -
高須神社(たかすじんじゃ)
由緒は不詳であるが古くより家畜安全、繁栄の信仰篤く、今でも参拝者は年ごとに多くなっている。昭和二十六年十月十四日、ルース台風の災害により社殿拝殿ことごとく倒壊、氏子崇敬者の奉賛により復旧造営、昭和二十七年五月十五日竣工し、現在に至る。
電話番号(0984)48-3123郵便番号889-4411住所西諸県郡高原町大字広原2418番地1 -
霞神社(かすみじんじゃ)
古くから農業、畜産、商売繁盛、縁結びなどの神様として旧くから知られております。
御祭神は大己貴命、少彦名命、保食命の三御柱を祀る。
天保十四年刊の「三国名勝図会」によれば「・・・五色の蛇ありて、巌隙に栖む、これを神と崇めて、別に祠廟を設けず、是、霧島六所権現の使神なりといへり、故に六所権現へ参詣する者は、必ず茲に参詣せり、参詣の者、彼蛇を見る時は、神縁を得るとて、殊に歓喜すとかや、祭祀三月十五日、九月十五日、祭式には、白砂を供す、文化十二年、大信公(注:島津重豪)、神事を新修して、神徳院別当とし、郡山邑、花尾大権現社の大宮司に命じて、祭祀を管轄せしむ」と当神社について記載されております。
当神社は神仏混淆の修験道と深く関わりを有し、その名残が「霞権現」の名前や、石碑などにその痕跡をとどめることができます。
神仏混淆の修験道は、七世紀頃に始まっており、その後霧島連山を中心とする一帯にも広がり、霧島六所権現と云われる諸社が形成され、当社もその一郭に修験者の縄張りとして修験者達の行動域に組み入れられたと想像できます。
因みに“霞”とは修験道の用語として“縄張り”を意味すると云われております。
「三国名勝図会」にも記されておる様に、当神社には体長三十センチメートルほどの白蛇が御神殿裏の岩窟の中に棲息し、今日でも神縁を得ようと岩の間隙に目をやる参詣者の姿を多く見掛けます。電話番号(0984)42-0033郵便番号889-4413住所西諸県郡高原町後川内1553番地 -
鉾神社(ほこじんじゃ)
由緒は不詳であるが、社伝によれば、当郷の士族甲斐忠之助という者の先祖が、甲斐国より来て創立したと伝える。蒲牟田地区の尊崇を受け十二月十六日の例祭には各戸一名は必ず参拝するように申し伝えられている。
昭和四十六年社殿の腐朽はなはだしく、当時の区長等率先発起人となり、鉄筋コンクリート製により、現在の社殿を建築し今日に至っている。例祭日には、狭野の神舞「神帥」神楽を奉納することを通例としている。電話番号(0984)42-3200郵便番号889-4414住所西諸県郡高原町大字蒲牟田2793番地 -
高松水神社(たかまつすいじんじゃ)
ご創建は不詳であるが、延宝年間(1670年代)当社の別当寺坂本寺(狭野神社別当寺神徳院末等)と隣接し鎮座。時の住職権大僧都円純法印は当寺の中興の祖と記録にあり、当社の創建もそれより数百年さかのぼり、社領も現在地数百坪であったものと思われる。当社の文書記録等別当寺坂本寺が管理していたと考えられるが、享保三年(1718)霧島山の大爆発により狭野神社社頭、門前花堂、高松の諸地区等ことごとく焼失(狭野神社由緒)当社、坂本寺も同様であったと思われる。その後慶応二年(1866)廃仏毀釈により、すべて消失した。『日向地誌』によると、高松水神社として、祭神の保食神はあげられていない。その後合祀のものとみられる。
当社は古より”水天堂”と呼び親しまれ、水の守護神・農業の神として、現在も氏子崇敬者の篤い尊崇をうけている。特に旧薩摩藩内各社で行われた、六月燈(通称つるとぼし)は、七月例祭当日行われ、往古は子供達の寄進する燈籠で狭い境内は明るく照り映え立錐の余地もなく賑わったと伝えられている。電話番号(0984)22-5089郵便番号889-4414住所西諸県郡高原町大字蒲牟田719番地2 -
鎮守神社(ちんじゅじんじゃ)
当社の宝物、亀甲文双雀鏡、または天正四年(1576)島津氏が伊東氏の高原松ヶ城を攻めた戦に際し、島津義弘公の鎮守神社参詣の記事が『押領司文書』に見え、『三国名勝図会』にも見えるところから、鎌倉室町時代の南北抗争の時代には、すでに鎮座されたものと考えられる。
『三国名勝図会』には「高原村にあり祭神春日大明神を往昔高原右衛門篤時、南都より神躰を下し、総廟産土神に崇めしとかや。(篤時が祖父税所太郎左衛門篤経肥後の国より来ると、系図に記す。その故詳ならず。篤時に至って税所氏を高原に改む)」とあり、さらに「天正四年松齢公当邑松ヶ城を攻められし、先づ当社へ参詣し、直ちに進んで城を攻め給ひしとぞ。当社に鎮守殿の額を掲ぐ。公の親筆なりといふ。」とある。
大正年間鹿児山、出口等の神社の合祀が行われ、その当時の鎮守神社の鎮座地は大字西麓字城戸であった。昭和十四、五年頃の高原町の都市計画により、当神社の境内にあった日清日露の役の戦没者慰霊碑も新たに忠霊が丘(後日の名称)なる大字広原の広大な敷地に慰霊碑のみ移転(新たに忠霊殿建立)。神社は大字西麓下馬場の現在地に移転新築された。昭和十五年十一月、本殿遷座祭、並びに竣工奉告祭が行われた。
戦時中は当神社の境内の一角に防空監視哨が設置され、国兵団の兵士の一部が強制的に拝殿に居住区し、また高原国民学校の生徒数十名は神社を教室として授業を受けざるをえなかった。このため社殿は破損し、大改築を迫られていた折、九州縦貫自動車道の本町乗り入れに伴い、該道路が当神社の一角を通過することとなった。このためようやく改築の議が進み、昭和四十六年新改築、並びに社務所を建立、今日に至っている。電話番号(0984)42-4114郵便番号889-4412住所西諸県郡高原町大字西麓1041番地2 -
王子神社(おうじじんじゃ)
当社の創建年代は不詳であるが、建久7年(1196)島津忠久日向大隅薩摩の守護職として下向した頃一時所轄が判然としなかったとあるところから、判明している時代でも既に800年の古きに達しているものと思われる。
王子神社とは、神武天皇のご幼少の頃の尊称を取ったものと思われる。
明治6年村社に列せられた。11月10日の例祭、7月23日献燈祭には全高原をあげて盛大な賑わいになる。電話番号(0984)42-3200郵便番号889-4411住所西諸県郡高原町大字広原2073番地 -
水神社(すいじんじゃ)
由緒不詳であるが、明治初年神名帳所載神社として取り扱いを受け、明治年間に社殿造営以後二回にわたり改築された。
昭和二十六年十月十四日襲来したルース台風により社殿が倒壊したので、氏子協力復旧に努め昭和二十七年三月新築社殿竣工し、厳粛に遷座奉告祭を執行した。電話番号(0984)42-4114郵便番号889-4411住所西諸県郡高原町広原144番地