宮崎県の神社
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霧島神社(きりしまじんじゃ)日南市
当社のご縁起、勧請の記文は、両社号を口称するのみ、幾年を知らずという古文書があり、それによると、寺尾にあった山王宮は御形鏡座、山上にある霧島大権現は御形鉾座也という。これはご神体を記したもので、「淡路国滋賀郡日吉の神始に彼山に顕て一切諸民守護の王となる」と文書もあり、弘仁十年始めて勧請、とも称している。山王宮の宮跡は今も残っているが、いつ合祀されたのか不明。
山上の宮は現在、通称乱杭野という日南市内の飫肥、吾田、油津を一望に見おろす山上に鎮座しているが、元宮は、さらに奥の高い山 上にあったものを現在地におろしたものという。日南地方では、山上の霧島さまは、子供の神様として崇敬され、この宮は、大正年間、悪性の感冒が流行した後から参詣者が増え、現在でも例祭には、気候のよい時期でもあり、近郊から子供を連れた登山参拝者が多い。電話番号(0987)25-1412郵便番号889-2532住所日南市大字板敷5516番地 -
田ノ上八幡神社(たのうえはちまんじんじゃ)
『日向地誌』によると、彦火々出見尊、豊玉姫、応神天皇を祀るとある。大隅国桑原郡に稲津弥五郎というものがおり、その地の一宮正八幡の神体を背負い来て、この地に祀ったという。社殿は天永元年庚寅十月二十五日創建すると伝える。島津氏が飫肥を領した時代にも大いに崇敬したが、伊東氏の飫肥初代主伊東祐兵(報恩公)が楠原八幡原にあったのを現在地に遷座したともいわれる。(天正十六年、『日南市史』による)伊東氏が領主となってからも、領内尊社四座の一つとして社禄五十四石八斗を寄付し、尊崇が篤かった。
明治四年、寄付禄も廃止されたが、同五年鳶が峯西麓の春日大明神、今町の北にあった広木田大明神、加茂東隅の加茂大明神、中島田東麓の糺大明神、願成就寺原の北の大将軍の五座を合祀し、板敷神社となった。このため、外七柱の祭神は次の通り。
蹈韛五十鈴媛命(たたらいすずひめのみこと)
磐長比咩命(いわながひめのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
国常立命(くにのとこたちのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
別雷命(わけいかすちのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
明治二十四年に、再び田ノ上八幡神社と改称され、同四十年二月、神撰幣帛料を供進すべき神社に指定された。
明治五年までの十月二十五日の例祭には、流鏑馬二頭が祭りを盛り上げ、長人弥五郎の偶人形が町内を練り歩いた。流鏑馬はいつかすたれたが、竹龍を編んだ一丈半以上の巨人の人形が衣袴を付け、長刀を帯び、右手に長槍をつかせ四輪車で子供たちが引く弥五郎の神賑行事は、町の電線に触れるなどで中絶されたこともあるが、いまなお続けられている。
この弥五郎は、鹿児島県の岩川八幡などで同様な行事が行われている。『日向地誌』は「弥五郎は、稲積弥五郎の縁故なり」といい、寛政年間の薩藩の自尾国柱の著書で、武内宿祢とか、川上梟師をかたどったものとかの言い伝えがあることを紹介、みな八幡神社の神輿渡御の先駆をしている点から武内宿祢を擬したものではないかとしている。
「神社明細帳」 によると、境内神社一社、末社門守神社、祭神豊石窓神櫛石窓神
境内の楠は、伊東祐兵が楠原字八幡原にあった八幡神社を天正十六年(1588)、現在地に移した記念に、祐兵自身が手植えしたと伝えられ、樹高30.5㍍、周囲8.8㍍、樹齢三百八十年といわれ、日南市の天然記念物に指定されている。電話番号(0987)25-1412郵便番号889-2535住所日南市飫肥10町目3番12号 -
吾平津神社(あびらつじんじゃ)
当社は元明天皇の御代の和銅二年(709)の創建にて乙姫大明神と称して、江戸時代、飫肥十一社の一つとして歴代藩主の崇敬篤く、明治維新の際し伊東裕帰知事の意により吾平津神社と改称され、明治五年平野村の春日神社、八幡神社、稲荷神社、妻万神社を合祀し、一時期平野神社と改められた。その後八幡神社が再遷座されたため、もとの吾平津神社となった。
明治三十二年の宮崎神宮の神武天皇御降誕祭に際し、社殿、神苑の拡充をはかり、同四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定され、昭和八年郷社となった。大正十五年には、氏子河野宗四郎氏が単独で社殿を改築、昭和九年には神武天皇御東遷二千六百年祭にあたり、聖蹟として顕彰された。現在の社殿は昭和四十八年、第六十回伊勢神宮式年遷宮と時を同じくして、神殿、幣殿、拝殿など一切、氏子崇敬者の熱意と浄財で改築された。
主祭神の「阿平津毘売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野命と称され、また日向に在られた頃の妃であり古事記によればお二人の間には「多藝志美々命」、「岐須美々命」二人の皇子ありとあり、また「日本書紀」によれば「手研耳命」お一人の皇子ありとある。神武天皇が皇子や群臣将兵と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時「阿平津毘売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りにされました。電話番号(0987)22-2863郵便番号887-0005住所日南市材木町9番10号-1 -
曹子神社(そうしじんじゃ)
景行天皇の御代に熊襲が反いたため、天皇が親征され日向に六年おられたことが『日本書紀』に記されているが、社伝によると、皇妃襲武媛命はお伴をされて内助の功をたてられた。皇妃並びに二皇子を祭神とする雑司権現は棟札によると、後柏原天皇の永正三年三月建立され、西支弁分後河内山下にあった。同じく西弁分後谷堂山にあった荻原権現と二社とも安政六年(1859)現在地に遷座合祀したという。
安産、子育ての神として、また開発の神として近郷、近在の住民尊崇が篤い。
曹子とは部屋住みの貴族の子弟の意味だが、『日本書紀』によると、襲武媛の子は、国乳別皇子、国背別皇子、豊戸別皇子三人で国凝別皇子は高田姫との間の武国凝別皇子かとみられる、小碓命は稲日大郎姫との間の第二子で日本武尊の別名である。その間の事情も不明だし、『日向地誌』二社の合祀を明治五年としている。電話番号(0987)22-2863郵便番号887-0024住所日南市大字西弁分4848番地 -
五百禩神社(いおしじんじゃ)
五百禩神社の前身となる旧報恩寺は、飫肥藩初代藩主伊東祐兵公(報恩公)のために建立された寺です。江戸時代には、飫肥三大寺の一つとして、寺禄百石の伊東家菩薩寺でした。明治五年に廃仏毀釈によって廃寺となり、その跡地に五百禩神社が建てられました。本殿が完成したのは明治九年四月九日で幣殿及び渡殿を改築しています。
五百禩神社の『五百禩』とは、伊東祐持が西都の都於郡に城を構えてから、最後の藩主伊東祐相まで五百三十五年経ていたため、五百年祀るという意味で名付けたと言われています。五百禩神社の庭園は、旧報恩寺の庭園として作庭されたと言われています。山の斜面に三連の石橋を架けるという意匠は大変珍しく、日本の庭園史上でも注目されています。この庭園は、大正時代に飫肥で活躍した庭師 田嶋万之助が手を入れたと伝えられています。
現在、神社本庁13期教化指定モデル神社となっています。電話番号(0987)25-1412郵便番号8892514住所日南市大字楠原1番地