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宮崎県の神社

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  • 鵜戸神宮(うどじんぐう)

    鵜戸神宮(うどじんぐう)

    主祭神、鸕鷀草葺不合尊のご誕生の旧蹟と伝えられる鵜戸岬の岩屋、東西約三十八㍍、南北約二十九㍍、高さ約八・五㍍、広さおよそ千平方㍍(約三百坪)の洞窟内に鎮座。社前は渺々として果てしなき太平洋から朝日が直射し、眼下数丈の絶壁には、黒潮の怒濤が岩間に奔流して、流れる日は、飛沫天に沖する。霊石亀石(枡形岩)御船岩、二柱岩、扇岩、雀岩、夫婦岩、などの奇岩がそそり立ち、岩屋を護っているが、潮煙が洞窟内に立ちこめることも珍らしくない。後背の山は、千古から斧を入れたことのない照葉樹林が生い繁り、最高地の速日峰の頂に主祭神の御陵墓伝説地の指定を受けた吾平山陵があり、地元からは「鵜戸さん」と親しまれ、全国から崇敬を受ける天下絶勝の神域である。
     創建は、一説に景行天皇の御代とも、また推古天皇の六所権現建立のときとも伝えられるが、はっきりしない。桓武天皇の御代に、天台宗の僧光喜坊快久が勅命を受け、延暦元年(七八二年)秋に神殿三宇と、寺院僧堂を再建し、鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の勅号を賜わったという。その後、文安二年(一四四五)の伊藤六郎四郎の起請文に「鵜戸宮牛王宝印」の文字と鵜の絵が版で刷られており、地域信仰の一つの核だったことは明らかである。『鹿児島県史料』によると、文明十二年(一四七八)の島津武久の起請文や、天正六年(一五七八)には、島津義久が大友宗麟との合戦に際し、戦勝祈願をしているなど日向の国の鎮守として、島津氏からの篤く崇敬されていた。永禄三年(一五六〇)飫肥領主伊東義祐が神殿を再興し、寛永十八年(一六四一)に領主伊東祐久が修復、宝永六年(一七〇九)から正徳元年(一七一一)の二年余にわたって領主伊東祐実が権現造の神殿など全般を新改築した。
     仁王護国寺は、光喜坊快久が第一世別当となって以来、九世までは天台宗で、後三代は真言宗仁和寺門跡が別当を兼摂、以後真言宗の別当がつぎ、二十九世別当頼祐法印の時になって新義真言宗智山派に転じ、そのころから鵜戸山大権現は宇内三大権現の一つで、両部神道の大霊場として広く知られ、西の高野山といわれた。寺領は一時千石を越えたが、飫肥藩が伊東領となって以来、鵜戸領として四百三十一石の地を寄付し、藩主は毎年正月六日の修正会に必ず臨でいた。明治維新の神仏分離、廃仏棄釈で、権現号ならびに、六観音を安置した本地堂はじめ十八坊を教えた堂坊は廃止毀却され、仁王門は焼却された。はじめ鵜戸神社と改称され、明治七年に鵜戸神宮(官弊小社)となり、同二十九年に官弊大社に昇格された。
     終戦後、別表神社となり、昭和四十二年洞内の湿気と潮風のために神殿の老杤が進み、岩の亀裂もできて危険となったので、改修の工を起こし、全国からの浄財により、前回の造営より二百五十七年ぶりに同四十三年洞内の本殿および末社のすべてが復元された。昭和四十五年七月、かやぶきで文政年間(一八一八~三〇)に建てられたという書院造りの社務所が、原因不明の火災で、古文書類の大半とともに焼失した。同四十七年に儀式殿と社務所が再築され、そのあと神門二棟が建てられ、現在の近代的な鵜戸神宮となっている。
     窟内には、維新後、吹毛井船形山にあった王子大権現を遷した皇子神社など、次の末社がある。皇子神社 住吉神社 九柱神社 火産霊神社 福智神社 
     窟外にも、維新後、山陵上り口に遷された稲荷神社など三末社が祭られている。稲荷神社 門守社
     神仏習合時代本地堂に安置されていた六観音のうち、準胝観音だけは所在が確認されていないが、如意輪観音が日南市平山、四本久美方にあるほか、聖観音(風田、日髙弥方)馬頭観音(松永、外山幸方)十一面観音(油津上町、歓楽寺、なお『南郷町史』によると、南郷町目井津稲沢イサヲ方にも、鵜戸山にあったという十一面観音がある)、千手観音(油津上町正行寺)が現存している。
     日向灘を見下ろしながら御岩屋に下る前に、神橋玉橋を渡らねばならない。この反橋は、橋板三十六枚で作られ、金剛界三十七尊のうち三十六尊をあらわし、橋を渡る本人が一尊となって三十七尊の仏をあらわすという。宝暦十年、鵜戸山別当隆岳撰の『鵜戸玄探記』に「住古より此の橋を限りとして是より奥に不浄之草履木履を履事を禁ず」とあるから、ここから素足になることは、随分古くからの風習で、子供は嘘をつくと目が眩んで渡れないと教えられ、不浄のもの、邪心のあるものを恐れさせていた。現在の橋は児湯郡穂北村三宅の庄屋で、家出して受珍といった人が架けたというが、その後修理が加えられ、橋の下に別の参道も設けられてこの風習も今はない。
     いまは海岸をめぐり車祓殿前まで自動車で行けるが、戦前までは、神杉のうつ蒼と繫がる上り四百三十八段、下り三百七十七段、社殿まで八丁あるので、八丁坂と呼ばれた坂を通ってお参りした。延暦年中(七八二~八〇六)に石を頭に担いでこの坂を築いたという坊薗の尼という人があり、その石塔も残っている。
     八丁坂を下ったところに、大願主別当隆岳、明和元年(一七六四)銘の雄健な不動明王の磨崖仏と、近くに閻魔王の像もある。また境内にある歴代別当の墓地と墓には古い五輪塔などがある。八丁坂、磨崖仏、墓地とも日南市の文化財に指定されている。
     鵜戸山が両部神道で西の高野と称される修験道場であったことから、相馬四郎義元(正平六年-一三五一-奥州相馬生れ)が参籠して剣法を覚り一流をはじめて、念流と名付けた。のち慈音と号し、念流から中条流、富田流、一刀流などが生まれた。また足利中葉のころ、鵜戸に参籠、剣法の奥義を極めた愛州移香があり、その陰流から、その後塚原ト伝、柳生宗厳の新陰流が生まれたことから、剣法発祥の地として称えられ、いまは、その記念碑が立っている。
     それより時代は古く、仏教伝来とほぼ同じころ、欽明天皇の御字、十一歳にして鵜戸窟に流された祐教礼師が、伝来した琵琶を読弾しながら、地神陀羅尼経を習って九州各地に伝えたのが薩摩琵琶の始めとして琵琶楽の発祥地ともいわれている。剣法発祥と直接関係はないが、新刀の巨匠といわれた井上真改が鵜戸の窟の霊水で鍛えた三刀を禁裡と、主君と井上家の宝剣とした記録が残っている。(伝説など)
     黒潮がただちに洗う日南海岸周辺には、『古事記』、『日本書記』に書かれた山幸彦、海幸彦の民族神話が、豊かに息づいており、その神話と前後する神々も数多く祀られている。まず、鵜戸の祭神の父君で山幸彦の彦火火出見尊が狩りをされた時の行在所あとと伝える串間神社、釣針探しから三年後帰り着き上陸された所という青島神社、また、意地悪をされた海幸彦、火闌降命が逃避されたという潮獄神社がそれで、これらの伝承の中心となっているのが、当宮の伝承である。
     山幸の彦火火出見尊が、兄の海幸火闌降命の釣具で、海の釣りをされたが、一魚だに釣れず釣針をなくされた。塩土老翁の教えで海神の国へ行き、海神豊玉彦の娘豊玉姫と契を結ばれ、三年の後、失われた釣針と潮満珠と潮乾珠を携えて故郷に帰られた。この折、豊玉姫は既に身重だったので、尊に向い「私は既に妊り、産期も近いので風濤の激しい日にみ許に参りますから、あらかじめ海辺に産屋を作ってほしい」と言われた。尊は海浜に鸕鷀の羽(うがやともいう)で屋根を葺き、その工事が終わらぬうちに、豊玉姫は大亀に乗り海を光らして到着、そのまま産屋に産屋を絶対のぞかぬようにとの強い請にもかかわらず、尊がのぞかれると、姫は龍(一説には鰐)になっておられたという。姫は深くこれを恥じ、子を海辺に棄て、海神の国に帰られた。それで、この御子は日子波限建鸕鷀草葺不合尊と名付けられたという。御子は、乳母などつけられ愛育されていたが、豊玉姫が御子の瑞正しさを聞き、自分の身代りに妹の玉依姫と、彦火ヶ出見尊のお歌の贈答も記紀に残っている。
     鵜戸さんは、古来、安産、漁業、航海の守護神として、日向、大隈、薩摩地区の男女のほとんどは鵜戸参りするのがならわしで、近郷では、六,七歳までは必ず参詣し、これは初詣としていた。結婚した晴れの新婚旅行に、花嫁は盛装して、美しい尻掛を置いた馬の背に乗り、花嫁が手網をとるシャンシャン馬道中が、旧三月十六日に長く続き、祭礼のようだったというが、この風習も明治の中ごろにすたれた。

    電話番号
    0987-29-1001
    郵便番号
    887-0101
    住所
    宮崎県日南市大字宮浦3232番地
  • 益安神社(ますやすじんじゃ)

    益安神社(ますやすじんじゃ)

    神社明細帳に、由緒詳ならずといえども、和銅年中創建の神社なりとして、祭神があげられている。『日向地名録』によると、益安村の中央の山麓にあり、本村南隅の田の中にあった旧称髪長、伊勢大神宮、高佐山(現在高砂城山と表記)の西北、字銀杏の旧称大将軍の二社を明治五年ともに遷座して合祀し、いまの名に改めたという。また同書は、『飫肥伝説録』から引用し、天文年間、伊東義祐が、島津兵と戦った高佐城砦址は、益安村に屹立した山の上に陣どった所で、景行天皇熊襲征伐のときご駐輦の蹟と伝う、と述べている。それによると、「下の方に髪長姫の祠あり、姫は益安に生れ、天皇に奉仕したり。それに続いて伊勢神宮あり、ご駐輦中の遥拝所なりしとぞ云々」。『日本書紀』には、応神天皇がめされた諸県君牛諸井の娘に類似の名もあるが、景行天皇には、次妃日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)との間に日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ)がある。天皇の十二年十一月熊襲征伐のための日向国に行宮、高屋宮をたてられ六年間おられた。隣り地区の神田に、襲津彦皇子を祭った皇子権現があり、この地区の伝説とつながっている。

    電話番号
    (0987)25-0390
    郵便番号
    887-0032
    住所
    日南市大字益安3331番地
  • 隈谷神社(くまやじんじゃ)

    隈谷神社(くまやじんじゃ)

    勧請年月は不明だが、和銅年間(七〇八~七一五年)の創建と伝えられている。『日向地名録』は、『飫肥伝説録』から引用し、益安に生れ、景行天皇に仕えた髪長姫を祭る祠、遥拝所跡という伊勢神宮があることを伝え、「西一里余にして熊谷村あり。昔熊襲の棲みし谷なりといえり。そのほか熊襲が陣せし所」という熊陣の名を紹介している。この伝説と、祭神がどうかかわるかは詳らかではないが、『日本書紀』によると、景行天皇は、その十二年、七月熊襲がそむいたため筑紫に御幸され、十一月には、日向国に行宮、高屋宮をたてられ、六年おられたとある。

    電話番号
    (0987)22-2863
    郵便番号
    887-0023
    住所
    日南市大字隈谷甲1015番地
  • 大宮神社(おおみやじんじゃ)

    大宮神社(おおみやじんじゃ)

    社縁起によると、景行天皇熊襲征伐のおり、本園遊地に立ち寄り休息されたところという。その後和銅元年(708)、素戔鳴尊外二柱を祀る。『日向地誌』によると「社地内に老楠二株あり、いずれも、六、七百年を経し老木なり」とある。また文明二年(1468)藤原忠続寄進の古鏡ありとしているが、老楠は現在、樹齢七百年以上と推定され、根回り13.9㍍、高さ18.4㍍の巨木で、高さ二㍍のところで椋を抱きこみ繁っており、国の天然記念物の指定を受けている。数年前、近くの大川田に楠の老木が埋れているのが発見され、約三首年前、広渡川の氾濫で流され、土中に埋まったもので、往時、夫婦楠と呼ばれていのといわれる。
    古鐘は現在失われているが、忠続は、当時飫肥城主だった新約近江守忠続で、島津の族将だった。永禄五年(1562)、伊東義益が再建、寛永十四年(1637)伊東祐久、貞享四年(1687)伊東祐実が相次いで営繕、社禄十二石五斗を寄進した。旧称は大宮大明神といい、明治五年、神田にあった皇子権現(襲津彦皇子を祭る)土楽ヶ迫の諏訪大明神、神田の大将軍の三座を遷座、合祀し現社名に改称した(『日向地誌』)。明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定されている。『日向国神祇史料』には三祭神のほか岩長姫命も祭神にあげられている。襲津彦皇子(そつびこのみこ)は、『日本書紀』には、景行天皇と次妃日向髪長大田根姫(かみながおおたねひめ)との間に生れた皇子として出ており、隣り地区には、同様に景行天皇の熊襲征伐のとき、ご駐輦の跡と伝える伝説地があり、髪長姫を祭る益安神社がある。境内には門守社、祭神櫛磐窓神、豊磐窓神の二社がある。
    特殊神事には、昔から二月はじめの初午に五穀の豊穣を祈願する初午神楽が奉納される。また旧暦の一月十日に稲の品種選び稲初植祭が行われる。斎主の祝詞奏上ののち、神歌で年の始を寿ぎ、神前、東、南、西と歌いつぎ、西は「千代千代と波のをりめは七をりめ八重のをりめに福の種を蒔く」と歌い収め、秋穂の方を決め、社人が鋤で作られた田の形に彼岸花の根(凶作のときの救荒植物だったといわれる)で田植えをする、年ごいの祭である。
    甲、乙地区の御旅所に一年交代に巡幸される例大祭のご神事には、獅子舞保存会の青壮年による二頭獅子舞いも奉納される。

    電話番号
    (0987)25-0390
    郵便番号
    889-2521
    住所
    日南市大字東弁分乙35番地
  • 皇子神社(おうじじんじゃ)

    皇子神社(おうじじんじゃ)

    縁起、創立とも不詳であるが、天明七丁未年(1787)九月の棟札によって、それ以前のものが再興されたことがわかる。広渡川と酒谷川に挟まれて位置し、東は松永、東弁分村が対岸にある殿所村の中央に鎮座。西方の中ノ尾の嶺には、天文十八年(1549)伊東勢が飫肥城を攻めたとき、中ノ尾砦に籠った伊東勢三百余人の戦死者の首塚を島津側が供養した国指定史蹟の供養碑が立つ。社殿は、その後、伊東祐相公によって文政十二年(1829)九月再興され(棟札あり)、明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。明治四十二年に本殿拝殿ともに改築された。昭和五十四年、横山被次郎の大口寄進と地元氏子の浄財により、拝殿を改築、鳥居、玉垣なども面目を一新した。
    『日向地誌』によると、明治五年皇子権現を今の名に改むとあり、『神社考』 には火明命火折命を祭るとある。社伝では鸕鷀草葺不合尊の皇子を祀るゆえ、崇敬とくに篤しとされて来たが、火明命は火折命(彦火火出見尊の別名)とともに、瓊瓊杵尊の皇子である。
    境内には明治二年再興の末社大将軍神社(祭神、磐長姫命)、大山祇命を祭る山之神社があるが、これも明治四十二年、本社に合祀されたことになっている。
    毎年春には、五穀豊穣と家内安全、産業繁栄祈願の春まつり、神楽が百四十戸の氏子中によって斎行される。

    電話番号
    (0987)25-1295
    郵便番号
    889-2524
    住所
    日南市大字殿所1199番地
  • 山宮神社(やまみやじんじゃ)松永

    山宮神社(やまみやじんじゃ)松永

    創立は不詳だが、棟札の写しによると、延宝三乙卯(1675)歳三月再興とあり、和銅年間云々の文もあり、かなり旧い創建とみられる。
    松永は広渡川(東川)下流左岸、鵜戸山系東岳の麓に位置し、水利豊かな耕地が広がる。天文年間から永禄八年(1565)にわたって、都於郡領主伊東義祐(三位入道)が飫肥城島津氏との攻防で、争奪を繰り返した鬼ケ城跡は、東弁分村と界し、水ノ尾城(貝殻城)と山続きである。伊東氏の飫肥領主三代を継いだ祐久が弟祐豊に松永など三千石を分知し、元禄二年(1689)孫祐賢が旗本蔵米取りを願出たため、松永村は幕府領となった。広渡川下流の伊東領の用水を確保するため、天領となる際、飫肥藩は井堰の水番四家を村内に移住させた。旧伊東領の古い神社の造営には、必ず伊東家の領主の名が出て、神領も寄進されているが、当社ではその後元禄二年(1889) 二月、享保九年(1724)九月、安永八年(1779)九月の造営の棟札には、神主と大工の名が記録されているだけである。明治になってからは、二十五年に改築され、明治三十九年、神饌幣帛料供進社に指定された。現在の社殿は昭和三十年の造営によるものである。
    『日向地誌』によると、旧称を山宮大明神といい、明治五年、川津留の諏訪大明神、右田の大将軍の二小社を遷座合祀し、今の名に改めた。また、二祭神のほか祭神に健御名方命があげられている。鎖鎌の武芸で伊東氏に仕えた倉田某なる武士が出陣に際し、主命により北郷町曾和田の神社に預けたご神体が、洪水で松永に流れ着き、村民に祭られていることが、後にわかった。そのため、宵宮には必ず仕えよとの家訓が残されている家があり、それが本社か、別に祠の残る大将軍かは、はっきりしない。
    境内には松永祖霊社が祀られ、神葬祭の氏子七十世帯が、春分、秋分の日に霊祭を行なう。毎年春、五穀の豊穣と家内安全祈願のために、区主催による春まつり、神楽が特殊神事として受け継がれている。

    電話番号
    (0987)22-2394
    郵便番号
    889-2523
    住所
    日南市大字松永1239番地
  • 吾田神社(あがたじんじゃ)

    吾田神社(あがたじんじゃ)

    創建後幾度か改築が重ねられ、天正十七年(1589)飫肥藩初代藩主伊東祐兵が再興、社領十二石五斗の寄進が続けられ、飫肥藩十一社の内二社、吾田神社、田ノ口神社ともに崇敬が篤かった。「日向地名録」によると、田ノ口大明神、一名火焼ノ宮と称し、本社の東北の田の中にあったものを明治五年合祀した。また手研耳命は、神武天皇と吾平津媛命の間に生まれられた長子であり、命は天皇が宮崎におられたころは、平山の駒山あたりに住まわれたので、駒宮辺りを別府、宮崎を新別府と称した。手研耳命が亡くなられると、吾田の小埼は、今の神社の下を昔から小埼といっており、宮の上の古墳とみるべき地があるのを手研耳命御陵としている。(飫肥伝説録)
    明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定される。
    昭和九年神武天皇御東遷二千六百年祭に際し、神殿、拝殿ともに改築して宮崎県奉賛会から顕彰され、昭和十五年には、県奉賛会が「神武天皇巡幸伝説地吾田」の石碑を献納、「神武天皇御東遷ニ先立チ宮崎ノ宮ヨリ妃吾平津媛命及皇子達ヲ随ヘ妃ノ御出生地タル此ノ地ニ至リ暫ク御駐輦アラセシト伝フ」と刻されている。

    電話番号
    (0987)23-3018
    郵便番号
    887-0031
    住所
    日南市大字戸高879番地
  • 岩崎稲荷神社(いわさきいなりじんじゃ)

    岩崎稲荷神社(いわさきいなりじんじゃ)

    当神社のある此の浄地「星倉新山」は、飫肥城本丸の東南即ち巽(たつみ)の位置に当たる。往時より巽の方は正收福分の地とし、万物の斉う所とされ諸願成就の聖地とされていた。星は即ち黄金財宝の意味で、その收まる所が倉であり星倉の地名もそこに発すると言われている。又巽の候は、春暖の天地万物の生々成長するときであるが、当神社はこの意味で諸民万物の弥益々の栄光を祈願し、その福分を收めるための守護神としてこの地を選ばれたものである。
    当神社は元伊豆の国田方郡岩崎に大社して鎮座ありしを、建武元年戌伊東祐持日向国都於に社殿造営遷座し奉り、岩崎稲荷神社と称す。その後、天正拾弐年甲申飫肥藩主伊東祐兵
    本郡平野村に仮社を造立安置し、其の後元和四年にこの浄地に遷座、郷社にて社領高弐拾六石弐斗を藩主より寄進の上厚く崇敬ありしが、御維新の際社領を廃止せられ一村一社の藩規に基き村社に定めらる。
    末社に粟野神社、松尾神社、御門神社を祭る。
    ご社殿は寛永十九年三月藤原朝臣祐久公の建立
    舞殿は文化五年六月に建立

    電話番号
    (0987)25-1295
    郵便番号
    889-2533
    住所
    日南市大字星倉5426番地
  • 駒宮神社(こまみやじんじゃ)

    駒宮神社(こまみやじんじゃ)

    「日向地誌」は「文武天皇の大化元乙未創建、神武天皇を祭る」としているが、元禄二年(1689)、飫肥藩主伊東祐実が再興したとくの棟札が正しいとして、「県史蹟調査第六輯」では、丁酉説を是としている。旧称を駒宮大明神といい、神武天皇の幼少時の少宮趾として伝えられ、「駒宮大明神縁起」によると、弘治二年(1556)六月には駒宮領二町、足洗田一町を御供田として有し、ほか屋敷一ヶ所を所有していた。往古は相当な大社であり、神宮寺という寺跡があり、神社の別当寺だったかもしれないが、安政初年の広渡川の氾濫で水没、また入田原に大馬場があって流鏑馬神事で賑わっていたという。(日向地誌)
    鵜戸神宮の縁起に関連して、「駒宮あり、龍石という龍馬を祭る。天皇御幼穉の時、吾平山に住み賜ひけるが、折々鵜戸に通ひ給ひし時の船繋の松(駒繋松)、草履石、駒石形石などがあり、土地の人が尊崇す」という(日向国神祇史料)。また天皇が鵜戸方面に向かわれるとき、愛馬龍石を草原に放たれたという立石(当社より四キロ)はその後牧場となり、藩政時代は牧奉行が置かれ、その駒追には必ず馬を引下し、駒宮に参る習いから、例祭には各地から着飾った馬が集まり、シャンシャン馬もこれに始まり、馬踊りも奉納されたという。明治四十三年の日州新聞には、数多くの馬がお参りしたことを伝えている。
    棟札によると、元禄の再興は正保年間の災上によるもので、その後宝永三年(1706)十一月拝殿、宝暦十三年(1763)九月に造営が行われ、伊東家からは神領三石のほか領主参拝の都度、銀二両が奉納されている。明治維新に際し、平山神社となったが、のち駒宮神社と改められた。明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。
    昭和九年の神武天皇御東遷二千六百年には少宮趾として、全国奉賛会から顕彰され、本殿の修理と境内を拡張整備した。同十五年の紀元二千六百年祭には、県奉祝会の顕彰と地元氏子崇敬者  の浄財で、本殿の修理をはじめ祝詞殿、拝殿などの大改修を行い荘厳さを加えた。
    伝説地には、先ほどあげた他に天皇の御鉾を大岩の下に埋めたという御鉾の窟、御手洗池、天皇に煮花を差し上げたという別府、天皇の井戸などがある。
    特殊神事には、旧暦二月九日、煮花祭がある。菓子代わりに餅籾を煎ったものを差し上げた故事が続けられ、神事となったという。材料の餅籾を祭典に供え、祭典終了後、持ち帰って焙烙で煎り、半分は神社に供え、半分は家内安全を唱えて家族一同がいただく。
    祭りは五穀豊穣の祈年祭で、祝詞奏上などの後、煮花祭の神歌を歌った後、三方の籾を神前にまき、その後鍬代わりの又木で地割をし、苗(草を代用)を植える。

    電話番号
    (0987)23-8520
    郵便番号
    887-0033
    住所
    日南市大字平山1095番地
  • 風田神社(かぜたじんじゃ)

    風田神社(かぜたじんじゃ)

    「日向地誌」によると、海浜の松林の中にあり、山下前にあった川上大明神と、御崎本にあった大将軍を明治五年遷座合祀し、いまの名に改めたという。
    日本書紀によると、天孫ヒコホホデミノ尊がワダツミノ神の娘豊玉姫を妻に迎えられ天孫の御子を海辺にて産むことを希望され、現在の鵜戸の岩屋にて鵜戸神宮の祭神ウガヤフキアエズノ尊を出産された。
    出産に際し夫と約束したことを夫が守らなかったことで、御子の養育を妹の玉依姫(宮浦神社御祭神)に託された。
    この時の豊玉姫の御歌
    赤玉の光はありと人は言えど君が装し貴くありけり
    そして豊玉姫は夫と別れて亀に乗ってこの風田川を登り居住され、のちにその地に姫を偲んで地元民は川上神社を建立し、祭神として祭られた信奉篤く現在も元宮と尊ばれている。明治の世になり野中神社と合祀されて、この奥風田川の左側に新たに社殿を建立し鎮座された。当時は社殿は海の方を向いていたと伝えられている。地元ではこの伝説を尊んで亀は神の使いと信じられて食さなかったと古老は伝えている。
    この地方には鵜戸神宮の祭神縁り深い神社が点在し、往古を偲ぶ神社としてその一社である。

    電話番号
    (0987)22-2394
    郵便番号
    887-0034
    住所
    日南市大字風田3964番地
  • 山宮神社(やまみやじんじゃ)吉野方

    山宮神社(やまみやじんじゃ)吉野方

    当社はもと天満宮と称し、菅原道真公を奉祀して来た。明和元年十一月二十五日再興、伊東藩より社禄五石五斗の寄進を受けた。
    『日向地誌』によると、この社を安政三年(1856)永吉の里に遷座、それを再び五年後の文久元年(1861)旧地に遷座し、明治四年、山宮神社をここに合祀し、社名を今の名に改めた。さらに同地区小字倉掛に鎮座の鞍懸権現、同小字山本の霧島権現と袈裟懸権現三社を遷して合祀した。明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。

    電話番号
    (0987)25-1412
    郵便番号
    889-2513
    住所
    日南市大字吉野方10860番地
  • 愛宕神社(あたごじんじゃ)

    愛宕神社(あたごじんじゃ)

    伊弉諾、伊弉冉尊の御子、軻遇突智命は、またの名を火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)ともいい、夜芸は焼、迦遇は光り輝く意味で、この火の神を主祭神とする。「日向地誌」によると、飫肥初代藩主伊東祐兵が天正十七年(1589)己丑十一月十四日に創建したもので、飫肥城址の真向いに当る愛宕山の現在鎮座地より、さらに山上にあったが、天保十四年(1843)癸卯閏九月二十四日、藩主伊東祐相が遷座、社禄十二石を寄付したという。主祭三神のほかは、境内末社を配祀した。神社明細帳によると、境内に祖霊社があったが、明治四十二年七月、廃社となる。
    旧飫肥町の楠原の鎮守神として、子供が生まれると初詣するのを常とし、藩政時代から火祈念として講でお参りし、いまでも代表が、一年の火除けを願う講組織もまだ近郊農村に残っている。広渡川支流の酒谷川をへだてて前鶴地区があり、遥拝所があったが、昭和五十九年前鶴橋が完成、参詣に便利になった。

    電話番号
    (0987)25-0057
    郵便番号
    889-2514
    住所
    日南市大字楠原3700番地
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