宮崎県の神社
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鈴嶽神社(すずだけじんじゃ)
鎮座地は日南市と串間市の境界に位置する標高783.4メートルの男鈴山の頂上で、飫肥の西方にひときわ目立つ山で、晴れた日は、屋久、種子島が見渡せる。
薩摩の藩士丸目八郎なる武士が、この地に大山祇命を勧請したという古文書が伝わっている。日南市塚田神社の縁起に島津の樺山安芸守、男鈴山鈴嶽神社に参詣の帰途云々のくだりがある。これだけの山上にもかかわらず、数多くの燈籠が奉納されているが、文字の風化したものが多く、分かるもので天明、寛政三年(1791)、弘化と相次いでおり、古来の信仰が伺える。崇敬者は、飫肥方と串間方と分かれ、社殿も二棟並列して建てられたものを昭和二十八年、地元が浄財をつのり、同三十年三月、串間方奉納の社殿の跡を中心に造営した。
平成九年十月に参道を一二〇〇メートル延長したとのこと。
現在の社殿は平成十一年四月十日に竣工である。電話番号(0987)28-1068郵便番号889-3156住所日南市大字大窪1番地(男鈴山山頂) -
塚田神社(つかだじんじゃ)
勧請の年月は明らかではないが、所蔵の棟札に天正十一年(1583)大壇藤原忠広……大願主鎌田丹後守、云々とあり、飫肥城主島津忠広が、伊東義祐(三位入道)と戦いを繰り返していたころ、島津の支将が再興したものとみられる。また旧称を早馬大明神といい、地区古老の話によると、当社境内を万山の嶺と称していた。島津の支将、樺山安芸守が榎原村字大窪の男鈴山(標高783㍍)に鎮座する鈴嶽神社に参籠祈願し、名馬「早馬」に乗って塚田村に至る途中病死したので、塚田神社境外に葬った。この故事にもとづき、ここを早馬崎といい、お宮も早馬大明神と称していた。島津氏が支配していた時代は、樺山安芸守の木像を本殿に安置し、太刀を奉納するなど、神社の造営、維持に当り、伊東氏になってからも神領として田五反五畝余を寄進して来た。明治四年塚田神社と名を改め、塚田160戸の総氏神として崇敬されている。
電話番号(0987)28-1068郵便番号住所日南市大字塚田2737番地 -
萩之嶺神社(はぎのみねじんじゃ)
「日向地誌」によると、宮の原にあった鳥巣大明神は棟札に和銅2年の創建で、その後飫肥藩主伊東祐兵が再建した。もと宮ノ尾にあり、中古祠廟が失火したため寺の馬場に遷座された有徳大明神にはには倉稲魂命が祭られていた。明治4年、この2神を的野の現在地に遷座し、今の名に改められたという。このほか経津主命、大山祇命が祭神として合祀されている。
電話番号(0987)27-1644郵便番号889-3153住所日南市大字萩之嶺2845番地 -
毛吉田神社(けよしだじんじゃ)
由緒沿革ははっきりしないが、旧南那珂郡細田村の西畔にあった年の神(祭神、大年神)は、「細田町史」によると、元禄の勧請と伝えられ、明治5年、諏訪神社(祭神、健御名方神)を年の神の地に遷座合祀し、社殿も造営して毛吉田神社の名に改めた。
電話番号(0987)27-1644郵便番号889-3152住所日南市大字毛吉田530番地 -
上方神社(かみかたじんじゃ)
もと村内にあった5社、天神、鎮大明神、八幡宮、北斗寺大権現、稲荷大明神を明治2年現地に遷座合祀し上潟神社としたのを現在名に改めた。
創建は天神の宮の勧請による。「日向国神祇史料5」によると、明治42年4月、木之下神社(祭神、彦五瀬命)、霧島神社(祭神、伊弉諾命、伊弉冉命)、磐貫神社(磐長比売命)の3社をさらに合祀したとある。電話番号(0987)27-1644郵便番号889-3151住所日南市大字上方1110番地 -
九社神社(きゅうしゃじんじゃ)
下方海門島にあり、蛇王権現といった。慶安五年飫肥藩主の勧請と伝えられているが、「日向地誌」によると明治五年廃寺となった海門寺-飫肥願成就寺(真言宗)の末派、この地慶安以前は湾海たりし時、海門なりしゆえに名づけしと見ゆ-と関係があるのかも知れない。また享保五年(1720)の勧請という書もあるが、慶安説が事実らしいという。下潟海門五社大明神は、薩州から来た中島氏が崇敬した、韓皇の女、異国に流れ著きてより尊う、という文書もあり、由緒、縁起とも、はっきりしたことは不詳。明治五年大堂津の三島神社に合祀されたが、地元の要請強く、同二十五年復旧が認められ、再遷座された。昭和五十四年本殿、拝殿などを改築した。特殊神事には神楽保存会による作神楽が奉納される。
電話番号(0987)64-0509郵便番号889-3143住所日南市大字下方1630番地 -
三島神社(みしまじんじゃ)
古記録によると、寿永元年壬寅の創立で、享保五年(1720)十一月十五日、飫肥藩主伊東家の産土神三島神社(伊豆国田方郡三島町鎮座)の祭神大山祇神の分霊を奉持して、隣村外浦港に上陸、古来大堂津に三島の森といわれていた鎮守の杜に、勧請されたという。寛永年間奉納の石燈籠と寛文二年ご造営の棟札が残っており、享保以前にもご造営があったことが明らかである。享保の勧請後は開運勝利の神として藩主の尊崇篤く、参勤交代の往路、帰路には必ず立ち寄り、毎年例祭には三石六斗の寄進があり、藩主の代拝を待って祭りが行われていた。
その後造営は宝暦三年(1753)九月、文化十二年(1815)九月と重ねられた棟札が残っており、改築修理は全部伊東藩主においてなされていた。明治の始め内門町の大火により社殿が焼失したが、藩主・氏子の協力により再興された。明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定され、大正九年二月村社に列せられた。
末社には恵比須神社、稲荷神社があり、御旅所の住吉神社は昭和五十五年に復元新築した。現在では、大堂津漁港を守る海の守護神として、氏子七百余戸により崇敬されている。秋の例祭のほか、夏の御神幸祭には獅子二頭舞が出て賑わう。電話番号(0987)64-0509郵便番号889-3143住所日南市大字下方4586番地イ号 -
岩井原神社(いわいばらじんじゃ)
飫肥藩主の勧請により寛文二年(1662)創建と伝えられ、上酒谷の鎮守として崇敬されて来たが、明治四年に酒谷神社に合祀された。しかし、明治十四年二月、復遷座が認められ、従前のように祀り続けられている。明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定され、同四十三年八月村社に列せられる。
電話番号(0987)25-0390郵便番号889-2512住所日南市大字酒谷甲1789-イ -
酒谷神社(さかたにじんじゃ)
中古から飫肥城の右翼となり、ひとたび伊東義祐(三位入道)飫肥平定後も左翼となった郷ノ原城とともに長期間にわたった島津、伊東両氏の戦いに重要な役割を果たした酒谷城趾の東隈にある。旧称を諏訪大明神といい武の神として祀られたものとみられる。『日向地誌』によると、棟札に永禄六年(1563)十二月飫肥城主島津忠親が再興した。その後、大阪夏の陣も終わった元和三年(1617)十一月、飫肥城主伊東祐慶のとき、その命で、談義所の僧祐遍が再興したという。明治維新に際し、村内にあった栗領の白山権現、懸野にあった懸野大明神、阿田越の愛宕大権現、石塚の大将軍の四座を明治四年に遷座して合祀、いまの名に改めた。明治四十年二月神饌幣帛料供進すべき神社に指定されている。
懸野大明神はその後、再遷座され懸野神社となった。電話番号(0987)25-0390郵便番号889-2511住所日南市大字酒谷乙6463番地 -
伊比井神社(いびいじんじゃ)
社伝によれば海辺に続く尾崎の山があり、これを天神の尾という、瓊瓊杵尊が高千穂峯にご降臨ののち、海辺に遊幸され、大山祇命の娘木花開耶姫をご覧になったと所と伝える。「県史蹟調査第六輯」によると、相殿に大山祇命、木花開耶姫の姉君、磐長姫を祭る。「日向地誌」によると、旧称を一ノ宮大明神、また若宮といい、もと天神の尾に祀られていた。棟木札によると康正三年(1457)丁丑十一月藤原祐堯(伊東十一代)以来、寛政四年(1792)、平氏大松丸、弘治三年(1557)、藤原虎房丸、永禄六年(1563)藤原義益(伊東十七代)慶安三年(1650)藤原祐久(伊東二十一代、飫肥藩主三代)と改築され、貞享三年(1686)の大風雨で、社殿が壊れたので、現在地に移されたという。
明治維新後、現社名に改称されたが、社宝として祠中に蔵められていた古鏡数面があり、漢式鏡の精白鏡、神人画像鏡など明治四年飫肥藩主伊東祐相が東京博物館に提供した。明治十二年村社に列格、同四十年二月、神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。電話番号(0987)23-4567郵便番号889-2311住所日南市大字伊比井1991番地 -
富土神社(ふとじんじゃ)
創建年月日、由緒ははっきりしないが、いくつかの棟札は残っている。古来、山宮大明神と称して来たが、「日向地誌」によると、明治五年小目井にあった天満大自在天神を遷座して合祀、現社名となり、明治七年村社となる。
電話番号(0987)23-4567郵便番号887-0102住所日南市大字富土2131番地 -
宮浦神社(みやうらじんじゃ)
創建の年月ははっきりしないが、社伝によると、玉依姫ご住居の跡に社殿を立つとあり、桓武天皇の延暦年間に再興すという。永禄三年(1560)に伊東三位入道義祐が社殿を造営したが、その後寛永三年(1626)に伊東祐慶(飫肥二十代藩主)が再興し、文化九年(1812)三月、伊東祐民(同二十九代)が、本殿ならびに拝殿の総修繕をした。藩政中は社録五石を寄進されていた。玉依姫大明神と称して来たが、明治維新に際し、玉依姫神社と改称、一度鵜戸神社に合祀されたが、明治七年に復社、現社名となり、社殿の改造も行われた。更に明治四十年二月、神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。
中古以来、ここに鵜戸山仁王護国寺の末寺である弥勤院が置かれ、当社と玉依姫御陵伝説地を管理してきたが、のち弥勤院は仁王護国寺内の脇坊となった。玉依姫は、鵜戸神宮の祭神鸕鷀草葺不合尊の母君豊玉姫が海に帰られたので、代わって育てられた叔母で、のちに葺不合の皇妃となられた。神武天皇ほか四柱の母君で、御陵跡は当社の南、七、八丁の田の中に円形の岡が、前方後円の前方がやや崩れた形で残っている。この地の草を牛馬に食わせると、たちまち腹痛を起こすとして土地の人は恐れて近づかないという。
伊東義祐の「飫肥紀行」に「里人に問はすはいざや白波の玉依姫の宮の浦とは」の一首が残されており、古来、山越えの時代から安産祈願に参詣するものが多く、とくに毎月午の日に参るのが古い慣わしである。
神社明細帳によると境内末社、祭神稲水氷命、由緒不詳とある。電話番号(0987)23-4567郵便番号887-0101住所日南市大字宮浦688番地