宮崎県の神社
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若宮神社(わかみやじんじゃ)宮崎市
文治元年平家壇の浦に滅亡後、その侍大将悪七兵衛尉景清は源右大将頼朝公より日向国宮崎郡に三百町を給わって下向した。当神社はその景清公によって勧請されたといい伝えられている。その後寛正六年(1465)丙戌年大主伊東大和守祐堯・祐国公に依り社殿の再興がなされたとある。当社所蔵の棟札によると「奉再興若宮八幡宮元禄八年(一六九五)亥年御代官源朝臣今井九右衛門尉賢富」。
「享和元年(一八〇一)酉辛九月若宮八幡宮於広前競馬乃檻觴御領主内藤能登守武運長久村中安全」と記されている。明治維新により若宮八幡宮を若宮神社と改めた。また奉納競馬がいつから行われたか不明だが、明治の中ごろまで地区の中央より神社の境内を一周する長馬場があった。元の境内は小松905番地の1だったが、県の大谷川河川改修工事のため、現在地に昭和46年遷座した。
末社
素盞男命(すさのおのみこと)(牛馬の神)
稲荷神社(稲作の神)電話番号(0985)47-8372郵便番号880-2112住所宮崎市大字小松780-1 -
跡江神社(あとえじんじゃ)
古来、神明宮と称し、伊勢の豊受大神を祀ることから、この地を伊勢といった。天文10年(1541)6月再興されてより、以後領主並びに氏子の厚く崇敬する社であった。維新の改革により跡江神社と改称し、村社に列せられた。
また、この跡江台地には、県内有数の古墳群の1つで、国史跡(昭和18年指定)の生目古墳群がある。
特殊神事は旧暦の8月7日、8日に豊年踊。現在も奉納祭る。流鏑馬は宝暦4年に始まるが、今は中絶。電話番号(0985)48-1041郵便番号880-2101住所宮崎市大字跡江810番地 -
八坂神社(やさかじんじゃ)宮崎市跡江
不詳
電話番号郵便番号880-2101住所宮崎市大字跡江3323-1 -
八坂神社(やさかじんじゃ)宮崎市跡江
不詳
電話番号(0985)47-1356郵便番号880-2101住所宮崎市大字跡江2402番地1 -
長嶺神社(ながみねじんじゃ)
当地長嶺は、平安末期には宇佐宮領として成立しており、建久八年「日向図田帳」には、長嶺別府三十町と記されている。社伝によれば、旧称長嶺八幡宮といった。宇佐宮領長嶺別府に宇佐神宮の分霊を祀ったもので、当地の産土神として崇敬されてきたものである。
当社の造営を棟札より見れば、下記の如く造営再興が繰り返されている。
○永禄二年(1559)九月
○元和九年(1623)九月
○延宝三年(1675)三月
○享保十一年(1726)九月
○宝暦十年(1760)八月
○安永五年(1776)十一月
○天保十四年(1843)九月
○明治二十四年二月電話番号(0985)48-3794郵便番号880-2115住所宮崎市大字長嶺292番地 -
小松神社(こまつじんじゃ)
本殿勧請の年月は定かではないが、伊東祐堯領主の時社殿を再興。
棟札には僅かに卯月七日の四文字を見るのみである。また領主伊東祐堯云々により推察すればそれ以前に勧請されたものと思われる。正徳辛卯年九月吉日御所公郷代官竹村太郎左衛門時代と享保二十年(1735)七月吉日に社殿の修理造営がなされ、幾多の星霜を経て明治四年十一月四日それまで白雉八幡宮の称号を村社小松神社と改称し今日に至っている。
昭和五十六年十一月七日神殿及び神殿上二重屋根(瓦葺)、拝殿改築銅板葺にて竣工する。電話番号(0985)48-1041郵便番号880-2112住所宮崎市大字小松1930番地 -
柏原神社(かしわばらじんじゃ)
古記録によれば、正和四年(1315)八月惟康親王の御時、守護職土持参河守栄嗣が国土治安を祈り豊前国宇佐宮のご分霊を勧請したと伝える。
当時社録を有し社司を置き神意赫々としていたが、爾来幾多の星霜を経て、康正年間(1455)以後南北兵乱の地となり、社録を失い一時衰頽を極めた。元禄年間(1688)再興神意赫々と揚り、氏子の崇拝篤く社殿の改築等を行い、明治四年十一月八幡宮の称号を改め村社柏原神社と改称し以て今日に至る。電話番号(0985)47-1444郵便番号880-2111住所宮崎市大字柏原821番地 -
浮田神社(うきたじんじゃ)
天善5年(1057)国司管野政義が、旧生目村の発祥地と言われる浮田庄を設立し、その折京都祇園の八坂神社の御分霊を勧請したと言われている。古来祇園社と称されていたが、明治8年今の社名に改められた。20余年前までは、陰暦6月15日の例祭には、浮田・柏原・長嶺等の各方面より編笠打扮に鐘太鼓を打鳴らしつつ行列を作って同社に繰り出し、俚歌・手踊を奉納し、終わって火縄銃空砲の打合いがあるなど頗る賑やかであったが、今はただ昔話に残るだけである。
電話番号(0985)30-4187郵便番号880-2104住所宮崎市大字浮田2816番地 -
富吉神社(とみよしじんじゃ)
八幡宮の本宮である宇佐神宮のご分霊を勧請したもので、富吉村の産土神として祀られてきたと伝える。文安四年(1447)には、領主藤原(伊東)祐堯公により社殿造営。文明十年(1478)には時の領主牧野越中守により社殿の造営が行われている。さらに慶長五年(1600)、元文二年(1737)、文政十年(1827)にも社殿の造営が行われ、明治二十四年にも半年の期間を要してご造営されている。現在の社殿は平成十二年に造営されたものである。
明治四年十一月村社に列格、同三十九年四月神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。
大正三年頃まで十一頃に流鏑馬が行われていた。現在、水流地区に躍蚕馬場と地名が残る。電話番号(0985)47-1841郵便番号880-2114住所宮崎市大字富吉4898番地ノ1 -
生目神社(いきめじんじゃ)
元亀天正の兵火で資料を焼失し詳かではないが「宇佐大鏡」には天喜四年(1056)に建立されてあったと記されている。昔より眼疾に霊験あらたかなりとして崇敬殊に厚く「日向の生目八幡様」として、広く知られ、九州はもとより、北は北海道、本州から直参祈願される参拝者も多い。
その縁起には種々の説があり、何れを真ともなしえないが
一説には影清公、日向下向に際し居を此地に撰び閉居され生を卒えられた。公の没後、公の活けるが如き霊眼を斉き祀ったこと。
一説には当地は古より霊地として眼疾患者を活かすに不思議に著しき霊験があった。
一説には活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)(垂仁天皇)を奉斎した社ともいわれ、御子影行天皇熊襲征伐の途、御父君のご命日に偶々之の地にて御霊祭を営まれたのを住民等が歓迎し聖地として永く奉斎し活目八幡宮と称え奉ったとも伝わる。
明治三年に生目神社と改称、同五年郷社に列し、翌六年には県社に昇格した。電話番号(0985)47-8272郵便番号880-2103住所宮崎市大字生目345番地 -
磐戸神社(いわとじんじゃ)
当社の創立は成務天皇(131~190)の御宇、武内宿禰を使いとして崇祀されたという。
神殿は吾平山岩窟を以て本殿と成し、窟前に祝詞殿1宇、拝殿1宇の構造をして参道の石階広さ3間、旧延岡城主、有馬左衛門尉並びに後の城主、牧野備後守等、代々崇敬の神社にして、祭祀料の地を寄進し、社殿修理をも行われた。また幕府勘定奉行今井九右衛門が御供田2石の地を寄進し、前者の5石と合わせ7石の御供田があり、崇敬もっとも丁重の神社にして明治維新後村社となった。『日向地誌』によると、神社名も村社磐戸神社とし、「天然の岩窟なり、窟口の広さ1丈余、深さ15間、その中に鎮座す」となっている。
なお、大祭には33番の神楽があり、5色のご幣等持って舞をし、鬼神、荒神、山の神舞、あるいは日籠舞として陰陽2神和合の舞、手力雄の舞等があり、宵宮等その昔は、賑わったという。 ご神像は、黒塗金泥の厨子に納めた高さ、76センチメートルの光り輝く、天照皇大神も神像で、鎌倉時代の作といわれている。電話番号(0985)41-2641郵便番号880-0043住所宮崎市上北方町751番地 -
倉岡神社(くらおかじんじゃ)
薩摩藩祖島津忠久が、「図師大明神」として花見村城ヶ峯に、旧倉岡郷の総廟として創建したのに始まると伝える。天和三年(1683)五月再興、寛政十一年(1799)十二月には、島津斉宣により再興されている。薩藩支配時代には島津直轄領だったためもあって、厚い崇敬を受け、毎年祭典料として米四斗九升を寄進され、神殿修繕の場合は、入費の半額を下付されていた。現在の社殿は昭和三十四年十月に改築されたものである。
明治四年三月、稲荷大明神・天満自在天神・白山妙理大権現三社を合祀、さらに図師大明神・若宮八幡・池王大明神・熊野三所大鳥尾権現・大将軍神社・厳島大明神を合祀して倉岡神社と改称した。
○明治六年 現在地に遷座
○明治三十七年十二月 愛宕神社を合祀
○明治三十九年四月 郷社に指定され、神饌幣帛料供進神社に指定電話番号(0985)41-0501郵便番号880-2231住所宮崎市大字糸原3295番地