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宮崎県の神社

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  • 科長神社(しながじんじゃ)

    科長神社(しながじんじゃ)

    当社の勧請は第一一三代東山天皇の御代元禄六年(1693)正月十日と神社明細帳に記されているが、北郷領内神社由緒調・神社改帳には科長神社の名なく、志和地宗廟志和地天満宮はみえ、この天神は第一〇五代後奈良天皇の御代大永八年(1528)四月二十九日馬関田(現えびの市真幸)の天神を北原氏が志和地宗廟鎮守として移し勧請したものである。察するにこの志和地天満宮に科長の大神も合祀されていたのを、明治初年三島通庸が庄内計画の時、志和地天満宮を庄内に遷し、志和地の人々は志和地天満宮に、科長の大神を旧殿舎に科長神社として祀ったものではないか。あるいは天満宮辺りに科長神社が祀られていたかは不明である。
    明治十七年志和地と島津家に災厄相次いで起こった。それは志和地天神を神意に背き庄内に遷したためであると祈祷師がいうので、同年志和地水流小学校に庄内より遷し祀り、さらに明治二十五年現科長神社に合祀したと言われる。
    末社荒人神社は旧志和地城主白坂下総守兼次の霊を祀る。天文十二年(1543)八月二十日小山川合戦にて戦死した兼次の亡霊怪気があり、人々これを畏れ当社を旧新山寺内に勧請し、荒人神社として祭祀を行ってきたが、社殿破損したので、科長神社の末社として境内に遷し祀り今日に至っている。
    現科長神社太鼓は、延宝四年(1676)丙辰四月八日と内側に墨書きされている。なお当社市無形民俗文化財からくり花火(仕掛花火)は、江戸末期の頃より夏の夜を賑わして有名である。

    電話番号
    (0986)36-1951
    郵便番号
    885-1103
    住所
    都城市上水流町1189番地
  • 諏訪神社(すわじんじゃ)野々美谷町

    諏訪神社(すわじんじゃ)野々美谷町

    明治四年四月旧藩命により北諸県郡安永村(現庄内町)諏訪神社へ合祀したが、明治八年十一月許可を得て同年十一月二十日複社遷宮した。明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
    社宝の由緒巻物は天和三年(1683)己戌八月吉日清原信成書写。盆四個径一尺五寸朱書「文明十五年(1481)癸卯三月初八日願主弥友太郎判代」とある。
    「日向地誌」によると、野々美谷城墟の領に鎮座し、旧称諏訪大明神と称していたが、明治三年に改称したとある。

    電話番号
    (0986)36-1951
    郵便番号
    885-1104
    住所
    都城市野々美谷町774番地
  • 水流神社(つるじんじゃ)

    水流神社(つるじんじゃ)

    元禄十二年(1699)八月十五日社殿改築、さらに天明二年(1782)寅八月には社殿が再興された。「日向地誌」によると、旧称諏訪大明神といい、明治三年安永村の諏訪神社に合祀されたが、明治十二年九月、地元の請願により複社が認められ、現社名に改称、同年十月、複社遷宮が行われた。同二十二年十月には拝殿を改築、昭和三年ご即位大典記念事業として九月に下水流字南鶴より現鎮座地へ移転改築遷座、昭和十年十一月村社へ列格された。

    電話番号
    (0986)36-1951
    郵便番号
    885-1102
    住所
    都城市下水流町1637番地
  • 王子神社(おうじじんじゃ)

    王子神社(おうじじんじゃ)

    往古より霧島神宮の一の王子と称し、人々の厚く尊敬した神社で、旧称を王子権現といい、明治三年村社になった。同六年一月上水流の科長神社に合祀された。「日向地誌」によると、宮本十介という者の宅地の傍にあり、明治三年遷座して科長神社に合祀したとある。その後、復社の時期は明らかでない。脱漏神社のため昭和二十一年十一月十五日神社本庁より許可を得て今日に至る。

    電話番号
    (0986)36-1951
    郵便番号
    885-1101
    住所
    都城市岩満町223番地の4
  • 黒尾神社(くろおじんじゃ)

    黒尾神社(くろおじんじゃ)

    本社地は都城市に鎮座せる県社神柱神社の旧社地で明治18年当地より御遷宮し、その跡へ梅北字黒尾に鎮座の社を遷座したのである。永和3年(1377)3月旧領主島津氏久の再興に係る。伊東、相良、北原の3家、薩摩、日向、大隅の城主63人を誘い、北郷讃岐守義久が都城を攻めたので、永和3年3月志布志より救いの軍が来り陣ヶ峯に陣取り西生寺脇坊、井之上坊をして黒尾権現と稱した。
    創立年月日不詳。永和3年3月1日藩主島津氏久実実従来仝村字黒尾へ鎮座の処、明治6年10月神柱神社旧社地遷宮(現在地)、明治6年1月12日村社に定め、明治18年暴風の際金御嶽神社社殿破損につき合祀する。

    史蹟 神柱宮跡
    万寿3年(1026)に島津荘開発の祖と伝わる平季基(たいらのすえもと)が、「速に斯地に社を建て祭り、神社の名を神柱と称すべし」という伊勢神宮の神託により、神柱社を梅北村益貫の地に創建したと伝わる。その後島津荘惣鎮守として崇敬を集めた。

    本殿改築
    昭和50年12月 拝殿改修工事
    昭和53年3月 本殿末社改築、境内整備を計画
    昭和53年8月20日 仮殿遷座祭
    昭和53年9月1日 地鎮祭
    昭和53年10月13日 上棟祭
    昭和53年11月23日 正遷座祭
    昭和53年12月17日 竣工奉祝例大祭
    本殿を銅板葺流造に要した

    電話番号
    (0986)39-1134
    郵便番号
    885-0063
    住所
    都城市梅北町4013番地
  • 早馬神社(はやまじんじゃ)

    早馬神社(はやまじんじゃ)

    創立の由来は不詳。
    往古より早馬天神と称し、早馬大神(馬頭観音)を祀り、牛馬の神として農民より厚く崇敬されてきた。
    「宮崎県史跡調査報告」によれば、延徳三年(1491)十一月「早馬天神御正体垂逑」とあり、また大永八年(1528)二月「早馬天神尊像奉造立」とあり、更に永正十六年(1519)九月、天神宮社造の記事が見えることから、延徳年間に勧請されていたとも考えられる。明治二年早馬神社と改称した。

    電話番号
    (0985)39-1134
    郵便番号
    885-0063
    住所
    都城市梅北町8069番地
  • 林田神社(はやしだじんじゃ)

    林田神社(はやしだじんじゃ)

    往時当地の豪族であった紀藤氏が、京都の某社の分霊を奉祀し、勧請したと伝える。以来紀藤家代々の崇社とする。旧称熊野三社権現。天文13年(1544)11月の棟札によれば、北郷今平により再興、社地2畝10歩を有したことが記されている。明治6年1月都城県設置の際、下長飯村旭岡神社へ合祀されたが、同年10月金田村民の請願により復旧許可の上同月遷宮、明治7年2月25日村社に列す。大正元年9月神饌幣帛料供進社に指定された。

    電話番号
    (0986)38-2339
    郵便番号
    885-0001
    住所
    都城市金田町1985番地
  • 母智丘神社(もちおじんじゃ)

    母智丘神社(もちおじんじゃ)

    本社は創祀の年時を詳にせず、往時より石岑稲荷明神と称し、古く地方民の崇敬頗る厚きを致せる社である。
    社地は丘阜の頂きに在るを以て持尾と書せしを、後世に至りて母智丘と改書したのである。該頂上には巨大なる岩石多数累列せるに依り、一に石無禮又は石岑の石に呼ばれたのである。社殿の後方に二穴ある、左方を白御毛津、右方を赤御毛津と称せり、往年同所に久保田寶樂院(現社司の祖先)鬼塚光明院交々祭祀を営み、神意を受けて庶人の祈願吉凶を判し、五穀成就諸病息滅、就中家畜の保護蕃蕃殖に神験ありとし、賽者少なからざる霊地なるを、時の地頭三島通庸が之を聞き社殿を興し、木田九郎を鹿児島より招きて祠官となし、神がかりに依り(人に憑りて神意を傳ふるもの)神託を受けしめ、祭神豊受昆賣なりと云、且誕生の霊跡と称せり。
    通庸は各所よりの参拝道路を拓きて、賽者の便を策り、社下正面八町の道路両側に、桜樹を併植し、屢々自ら参拝して敬神の範を一般民衆に示せり、茲に於いて社観大に整ひ居りしが、明治三十三年七月二十日炎上の厄に罹り、さしも壯厳なりし往時の俤を失ひ、現時の社殿は、仝三十六年二月の再興にして、其規模狭小なるも、祭時即ち四月二十三日の例祭には、遠く鹿児島縣下並縣下各所より参集するもの、絡繹として絶えざる而己ならず、境域参道等に充満、賽客咽嗔、其盛況他に見を得ざる殷賑である。明治四年四月四日郷社に、同年五月二十五日縣社に、累進したるは、是三島通庸が捧げたる至誠の偉大なる力に興かりし所である。

    電話番号
    (0986)22-2133
    郵便番号
    885-0091
    住所
    宮崎県都城市横市町6691番地
  • 早水神社(はやみずじんじゃ)

    早水神社(はやみずじんじゃ)

    当社は諸県君の娘・髪長媛出生地に、媛と父、牛諸井とを祭祀したものといわれる。応神天皇を正祀したのは、天皇と髪長媛の因縁によるもと伝える。都城市上長飯の地名は、髪長媛の転化、牛諸井は早水神社の境内の湧水(井水)にちなむもの、また早水は古語で泉の「そうず」が転じたものといわれる。祭神髪長媛の誕生の地と言い伝える県指定の史跡沖水古墳もあるが、本社は当地を領した都城島津氏の崇敬が厚く、天文十二年(1543)十一月、島津忠相、忠親父子が社殿を再興した。江戸期には神領三石三斗八合のほか神田もあり、正月中卯、三月三日、九月九日、十一月卯の中の年四度の祭りが行われていた。戦前までは旱魃(かんばつ)の時は郡内各地より雨乞神事に訪れ、雨乞行事が連日行われた。
    一日の湧水量が八千立方メートルという早水池を中心に、早水公園として指定され、体育文化センター、市立植物園などがあり、市民の憩いの場となっている。このアヤメは明治初年まで庄内アヤメとして有名であったが、昭和四十五年頃わずかに残っていたのが報道されたため、全部盗まれたとのことである。
    現在のアヤメは、正式にはアヤメではなく、「釜山ショウブ」といって韓国から伝わってきた品種であります。

    電話番号
    (0986)25-2608
    郵便番号
    885-0016
    住所
    都城市早水町3866番地
  • 島津稲荷神社(しまづいなりじんじゃ)

    島津稲荷神社(しまづいなりじんじゃ)

    旧藩始祖島津豊後の守忠久の創建なり。
    旧記忠久の母丹後の局(※1)懐妊の時、治承(※2)三年伊豆の国より日向の国へ赴任の途次、摂州(※3)住之江の里(※4)で、産時となった。当たりに産屋を探したけれども適当な所がなく、十二月晦日の夜住吉の杜より南樹の下の石の上に乗り、そこにてご出産の際大雨となり、もとより闇黒のため進退きわまったところ、畏くも神あり、火を灯して終夜補佐してくれた。
    やがて忠久成長し、その霊験著しいことを感じ、十八歳にて薩摩・大隅・日向三州の守護職に任ぜられ、任に赴こうとし京より稲荷を奉り来て、薩摩国出水郡山門院に着任したのは建久(※5)七年(1196)丙辰八月二十三日であった。その後日州へ移り、領内を庄内と称し、北郷の安久村堀之内村へ居を構え、堀の内御所と称えた。後島津の庄郡元祝吉へ本拠を移し、祝吉御所と称した。初任の地安久には、八文字島津民部大輔と称する豪族が居住していたが、忠久公入所後土佐へ移住し、忠久公は島津民部の旧称を襲い、島津判官忠久と称し、これを不朽に伝えるに至った。居館も島津殿または島戸といい、或は稲荷の御立所で郡元とも称したと言う。
    稲荷神社は、祝吉御所を西方に至る十町の地にあり、その創建は建久八年(1197)丁巳九月七日午の日に社柱立てをし、同月十九日の午の日に勧請する。当日をもって年中の大祭日と定め、今にこの日を奉祭施行している。以来島津家の産土神として殊更に崇敬を極めた。社殿の両側に大杉二本があり、これは忠久自ら植えおきしたもので、当社を往古は「島津稲荷」といっていた。また祭事には代参を恒例とし、さらに別当正覚院和光寺(真言宗鹿児島大乗寺の末派)を草創、山号命婦山と称した。神領は慶長十七年七月に二百三十石となり、その後元文元年には神領高五十三石に減じたが、領主領民の厚く崇敬する社で、参拝のたえることはなかった。明治維新後稲荷神社と改称し、村社に列した。明治四十年二月、神饌幣帛供進社に指定された。
    境内社として、命婦神社(祭神 倉稲魂神)、御年神社(祭神 大年神、若年神)、神門神社(祭神 櫛磐牖神、豊岩牖神)、貴船神社(祭神 高龗神)がある。

    ※1 鎌倉初期の女官、高階栄子、浄土寺二位・丹二品と称す。後白河法皇に寵せられ、後白河院政の陰の実力者として威を振るい、関東の折衝にも当たった。
    ※2 高倉・安徳天皇の年号。1177年8月4日~1181年7月14日。
    ※3 摂津は今の大阪府、兵庫の一部。
    ※4 大阪市南部の住吉区から堺市北部にまたがる地名。仁徳天皇時代海上の守護神住吉の神を勧請して、墨江または住吉と書き「すみのえ」と称したが、平安時代に「すみよし」と生じた。
    ※5 後鳥羽・御鳥羽天皇朝の年号。1194年4月11日~1199年4月27日

    電話番号
    (0986)23-3442
    郵便番号
    885-0013
    住所
    都城市郡元四丁目23番地17
  • 羽山神社(はやまじんじゃ)

    羽山神社(はやまじんじゃ)

    大淀川上流、高木町字中原に鎮座する。由緒不詳であるが、羽山戸神は大年神の御子で、羽山は端山の意で山に功徳あった神。大宜都姫神は伊弉諾、伊弉冉二尊の御子で五穀の主宰神である。

    電話番号
    (0986)38-2255
    郵便番号
    885-0002
    住所
    都城市太郎坊町1727番地
  • 南方神社(みなみかたじんじゃ)都城市

    南方神社(みなみかたじんじゃ)都城市

    創建不詳なれど高木主水なる者、この地を領した時の氏神として伝える。明治六年十月十二日村社に指定される。
    南北朝期に肥後菊池氏の支族高木久家が三俣院にいた。高木主水はこの久家のことか、また日向国造の子諸県牛諸井、その子大建持命は三俣連となり、その子孫に高木氏を名乗るものがいたという。そのいずれかは、はっきりしていない。
    十一月二日の夜、都城市郷土芸能指定揚げ馬がある。神の「寄り坐し」とする七歳の稚児を馬に乗せて行列し、祖先の霊や役ずみの作神を鎮め送る神事である。

    電話番号
    (0986)38-1682
    郵便番号
    885-0003
    住所
    都城市高木町4390番地
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