宮崎県の神社
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諏訪神社(すわじんじゃ)都城市穂満坊
創建年時は不詳であるが、諏訪大神として高城町中心部に鎮座し、古くから地区民の崇敬を得た産土神社である。明治四年七月村社に列格、諏訪神社となる。
昔から、模擬大名行列である「上馬」が祭りの際奉納される。
「上馬」は「あげ馬」「あげんま」「揚げ馬」「献上馬」「上げ馬」の字があてられる。由来はいろいろ言われているが、秀吉の文禄慶長の役に天晴れな武功をたてた島津の殿様が、出陣にあたり、島津家第一の崇神諏訪神社に戦勝祈願をされ、凱旋後願をとくため馬と神楽を奉納した際の行列を模したものと言われる。一種の野外劇として藩政期に創作された舞楽である。都城市高木町および高城町桜木の諏訪神社にも伝わる。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1202住所都城市高城町穂満坊2987番地 -
熊野神社(くまのじんじゃ)高城町
創建年時不詳。明治四年七月村社に定められる。同三十九年四月神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。石山地区の氏神である。
電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1205住所都城市高城町石山1729番地 -
三島神社(みしまじんじゃ)高城町
有水地区国道十号線を衷心に東西に延びる集落の西、十号線より1キロメートルの地に鎮座し、一校区をもつ集落の産土神として崇敬されてきた。
伊予の豪族勤王家、河野・越智の二氏当所へ下落住するに及び建立した。その年時明らかでないが貞治三年とも伝える。『三国名勝図会』には、「三島大明神宮原村にあり、越智氏、河野氏予州より下着して貞治三年建立すと、再興の棟札に見えたり」とある。明治四年七月村社に列せられる。大正九年十二月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
境内に大杉が三本あり、昔から鐘踊りが神社に奉納され、今はとだえているが角力も行われていた。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1311住所都城市高城町有水字辻3051番地 -
長野神社(ながのじんじゃ)
創建年時は不詳であるが、『三国名勝図会』に、「大永二年(1522)再興棟札を蔵したり」とあり、よって本社の創建の古さを窺わせる。明治四年七月村社に定められる。
祭典の際、態襲踊りが若い人等十名位で、毎年奉納されている。
この地区には以前、長野小学校もあり、通常長野と呼ばれていたと思われる。市指定有形民俗文化財「長野神社男神像及び女神像」
平成二十六年二月十八日に指定された。
神像は、細部を彫出しない素朴な作風から室町時代後期ころのものと推測され、再建時に製作された可能性が高い。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1312住所都城市高城町四家1776番地 -
的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)
当宮は、和銅三年(710)、大隅国国分正八幡宮(鹿児島神宮)を勧請して創建したと伝える。今の三股・山之口。高城の地にあたる三俣院の宗廟・鎮守として広く崇敬をうけていた。
天文年間(1532~55)三股兵乱の際藩主島津家立願ことごとく成就した事により、それを謝するため、山之口郷花木村・高城郷桜木村の内に神領田を付し置き、祭典の節は神饌を供えたと趣古書には明らかであるが、何時廃されたのかはわからない。しかし旧藩時代は、毎年祭米一斗七升五合あて下渡された。棟札によれば、天文四年(1535)、永禄元年に再興され、その後、慶安五年(1648)、元禄十一年(1698)、宝永三年(1706)に藩主によって社殿の造営が行われている。明治四年七月郷社に列せられ、的野正八幡宮を圓野神社に改称し、明治四十年二月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。その後、平成十四年に幣拝殿を改築したのを機に、平成十五年に元の名号的野正八幡宮に改称した。
『三国名勝図会』等によると、当社は古来正月元日から七日の間、神忌と称して高声を発するのを禁じている。それは、『日向の伝説』では「文政九年(1826)の明き、官吏が来て当社を修築した。作業場を当社の右にある牛洪宮の側に立て翌年の正月に及んだ。土人が高声の禁忌の事を告げ七日の間造営を罷めるように申し立てた。しかし官吏はなかなか聴かなかった。そして二日から造営を促し既に五六日に至った時、作業場から火が発り木材悉く灰燼となった。その時火花が頻りに側の社に散乱し、人々は神社が鳥有に帰するものと思った。しかし社殿は焦げさえしなかった。土民はこれを神霊の威力によるとし、愈々敬し愈々慎んだという」と説明している。
特殊神事として、十一月三日(以前は陰暦十月二十五日に行われ、又、当宮より都城高木まで御神幸していた。)の御神幸祭に三つの神輿が神功皇后をお祭りしてある池之尾神社の仮殿まで下る。その浜殿下りの先導として、朱面を破り大小の刀を佩いた一丈余の大人弥五郎どんが、四輪の車に乗せられ数多の子どもに推されて偉風堂々と下る。儀衛中に多くの武具を携えるのは、北郷忠相が当邑を領した時に始まり、昔は流鏑馬も行われていたという。御旅所に着くや、祭典に続き浦安の舞・太郎踊・矢旗踊など、その他数多の奉納踊があり終日賑う。近郷近在からの参拝者も多い。御神幸(弥五郎どん祭り)は養老四年(720)の隼人の反乱の多くの犠牲者(隼人の霊を慰める為に全国の八幡神社(系)で放生会を行わされていた。その中でも南九州では大人人形を作り放生会(ホゼ)祭を行い、現在残っているのが当宮と鹿児島岩川、日南の三ヶ所であり、又その中でも昔ながら(素朴)に霊慰め、五穀豊穣、諸安全、繁栄を祈して(ホゼ)祭りを斎行している。
また「二月初卯の日にも祭があり、この日は田鍬初といって牛の形を造り墾田の状をなし、なお木刀踊がある」と伝える。電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1801住所都城市山之口町富吉1412番地 -
走湯神社(はしりゆじんじゃ)
当社は土肥平三郎実重が、伊豆国走湯権現(現静岡県熱海市伊豆山神社)の分霊を勧請し創建した神社という。実重は土肥次郎実平三代の孫で、建武三年十二月五日畠河治部大輔に従って日州・三俣院に北。同院内福王寺の地を実重に与え、別当寺を建て、自らも福王寺と号し、地名ともなる。該時は正保年間(1644~48)に廃寺になったという。
天文年間(1532~55)北郷讃岐守忠相当邑を領するに及び、当社を篤く崇敬し別当寺を補修し修善寺と改号した。依頼人々深く崇敬し維新に至る。明治四年七月村社に定められ、大正六年十月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
境内神社は伊勢神社と粟島神社がある。伊勢神社は中郷村安久に鎮座のところ明治四年七月本社に合祀された。粟島神社は、寛政元年(1789)三月の創建で、木村木花に居住の山元金兵衛旧番所境内に奉祀され、明治四年七月村社に列せられたが、翌八年十一月本社に合祀された。ご社殿
大正3年 改築
大正11年 屋根を瓦葺きへ
昭和30年 改修
平成16年12月 神殿幣拝殿改築 他境内整備電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1803住所都城市山之口町山之口386番地1 -
南方神社(みなみかたじんじゃ)山之口町
社伝に和銅二年の創建という。往時は上下諏訪大明神と称し、七月二十七日の夜には民衆行列をなして参詣し、的野八幡宮に次ぐにぎやかさである。応仁元年(1867)弘治三年(1557)等の造営旧記があるので、創建は古いことが窺われる。棟札によれば、正徳四年(1714)四月、正徳六年(1716)二月に再興され、延享二年(1745)には舞殿が修復されている。明治四年七月大字富吉鎮座の諏訪大明神社、大字川ノ口鎮座の諏訪大明神社を合祀して村社に定められると同時に、今の社名に改めた。さらに明治四十一年十月には、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
現在の社殿は昭和55年に改築されたもの。○花木のあげ馬
あげ馬は神に献上する馬、神前に捧げる馬として「あげん馬」「献上馬」と呼ばれ、揚げ馬、上げ馬などの文字をあてている。島津氏(17代義弘)の文禄・慶長の役出陣にあたり、島津家筆頭崇神である諏訪神社に祈願成就と凱旋を祝って、「献上馬」と「神楽」を奉納すべく組まれた行列を模したものであると伝わる。今では4年毎に行列を仕立て、お祭りを行う。
都城盆地内に「あげ馬」が保存伝承されているのは、本町の南方神社と都城市高木町の南方神社、高城町穂満坊・桜木の両諏訪神社の4社のみに残る貴重な文化財である。電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1801住所都城市山之口町花木954番地 -
熊野神社(くまのじんじゃ)山之口町
往時より熊野三所権現と称し崇敬されている神社である。明治四年七月村社に列せられ、同月中郷村大字宮村鎮座の熊野神社ならびに当村木花鎮座同神、本社へ合祀した。さらに大正六年十月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
当社には次のような伝説がある。天保八、九年の頃ご神体の木像の眼に釘を打った者があった。しかし誰のしわざともわからない。時に一塊の火、当社の辺から寅の方に向って飛び、四里余り山之口村飛松の熊野権現廟の辺で消滅した。その火の発した音は石火矢の轟く音より大きかった。土民は「神霊が不敬を怒って飛松の廟に至った。」と思った。
純真な土地の人々は神のお見捨てになったのを哀しみ、修善寺の住僧忍性に請うてその釘を抜き、相集って神楽を奏した。この日社の上空再び火塊が現れ、しばらくの間消えなかった。土民は神霊の遷宮と仰ぎ供に至るまで畏敬している。
また、飛松にも熊野権現の社がある。昔一羽の角鷹が幣をくわえてきて、ここの松の樹に掛けておいた。人々はその幣を熊野大権現と奉祀し、その後別に木像を安置したという。電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1801住所都城市山之口町富吉4670番地 -
御年神社(みとしじんじゃ)都城市
創立不詳。明治六年一月都城県の際、安久村興玉神社へ合祀されたが、同年十月豊満村民の請願に依り復旧遷座され、同七年二月村社となった。昭和四十四年に新築工事を行っている。
「日向地誌」の嶠南が調査したのは、それ以後であるが、祭神としては大年神だけをあげている。大年神は大歳神とも書き、御子の御年神とともに五穀守護の神である。
例祭日は子供たちによる棒踊りが約20年続いている。電話番号(0986)39-1134郵便番号885-0043住所都城市豊満町1866番地 -
千足神社(せんだらしじんじゃ)
創立不詳なるも、古くは千多羅寺六所権現または世足志権現と称した。慶長八年(1603)癸卯十一月出火にて、古来の記録等焼失してしまったが、同十三年十一月、藤原(島津)忠能公により再興された。従前安永村五社の一社にして、島津元祖資忠公以来代々厚く崇敬する神社で、旧領主島津家の記録によれば、祭米として八斗七升八合が寄進され、祭田一町十五歩が免地となり、社領高五石五斗九升余を有していた。明治三年三月千足神社と改称、村社となる。
当社には鎌倉期から江戸期の神像三十余体を有しており、その中で男神像三体と女神像一体は県文化財に指定されている。いづれも樟材の一木造りで、全く内剃りを施さず両眼は彫り出しである。彩色はかなりはげ落ちているが、各像の眉や瞳には墨描のあとがあり、男神のひげや女神の髪にも墨色が残っている。
県下には神像の作例は多いが、大方は素朴な作風のもので、この四体のようにしっかりした出来のものは少なく、小像ながら両相の堀り口も端正で体はまとまりのよい安定感を示し、鎌倉時代の制作といわれ、特に女神像の優しい作りは巧みである。電話番号郵便番号885-0222住所都城市美川町6761番地 -
諏訪神社(すわじんじゃ)都城市庄内町
創立文和4年(1355)社殿本殿(流造)9坪、幣殿3坪、拝殿(入母屋造)12坪。第97代後村上天皇の文和元年(1352)12月12日初代都城領主北郷資忠戦功により北郷三百町を賜り、山田町古江に治所を構えた。これより先、薩洲より発する日、島津氏累代尊崇する鹿児島諏訪の社に参詣しその時一つの鎌飛来し公の直衣の袖に入った。公は大いに喜び神意を拝しその鎌を奉持し、文和4年(1355)諏訪の聖地に一宇を建て件の鎌を社殿に納め、家臣石川氏を祠官として諏訪大明神を勧請、7月28日を祭日と定め鎮祭した。以来各代の領主尊崇深く、応安5年(1372)6月1日、社を再興の樟板2枚に上諏訪大明神・下諏訪大明神と記されていた。天文年間には8代領主忠相神馬を奉献、天正11年(1583)7月24日、享保3年(1718)12月20日社を再興した。明治20年11月20日社殿改築に当り島津久家金5円の寄進あり、代々の領主今日に至るも社参奉幣変わりなく崇敬されてきた。明治3年村社に定められ、明治35年12月村社鹿島神社を合祀し、大正13年2月旧社殿朽敗により改築の議を起し、霧島山官有林欅材の払下げを受け、なお社殿を現在の山上に移し、大正14年11月竣工遷座祭を行う。
昭和49年11月28日ご創建620年、ご改築遷座50年式年大祭を斎行するに当り、記念事業として、大修復工事を起し、昭和52年5月神殿銅板葺替並に改修、同53年幣殿拝殿瓦総掛替修理、参道階段改修を行い、翌54年7月第一期工事を完了した。昭和60年3月天皇ご在位60年記念事業として、神社本庁の許可を得、境内林間伐材を以て、新社務所を建設する。電話番号(0986)37-1851郵便番号885-0114住所都城市庄内町12360番地 -
豊幡神社(とよはたじんじゃ)
創立年月日不詳。本殿(流造)4坪、拝殿(流造)12坪、祝詞殿15坪。元旧領主島津家の始祖(資忠、法名:山久院殿日寛道明居士)菩提の為めに創建した山久院の寺院跡である境内に隣接して都城島津資忠夫妻の墓が今尚存在して居る。当社はもと三俣院志和池城内に鎮座し城内八幡と明応9年(1500)12月7代領主北郷数久が安原権現の末社として宮原の現在地に遷座合祀し豊幡神社と改称した。当社全部欅材を用い建造後百余年を経るも今日なお腐朽損害なく厳然と存在する。しかも島津家は代々夏秋の祭典に社参奉幣された。大正10年幣殿、拝殿を建築す。平成3年平成大嘗祭記念事業として幣殿拝殿老朽敗により改築。平成5年皇太子御成婚記念事業として社務所を建築す。
境内には樹齢約600年、幹廻り約5米の榧の大木がある。電話番号(0986)37-1851郵便番号885-0114住所都城市庄内町13933-1