宮崎県の神社
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菅原神社(すがわらじんじゃ)日向市幸脇
日向市の南部耳川下流域に位置し、付近には金ヶ浜と呼ばれる美しいリアス式海岸があり、風光明媚な名勝地として観光客も多い。
鎮座地である耳川河口周辺は、耳川古戦場として有名である。天正六年十一月児湯郡高城で豊後大友氏と薩摩島津氏が激突し、大友勢が敗れて潰走、耳川まで島津軍の追撃を受け、多大な死傷者を出した。当時島津、大友の戦乱により戦火を蒙った神社は多数あり、当社もその一つであろう。旧記・由緒等一切不明である。電話番号(0982)57-2323郵便番号889-1112住所日向市大字幸脇字飯谷1812番地-1 -
愛宕神社(あたごじんじゃ)日向市平岩
平岩神社明細書に「文禄年中(一五五八~七〇)より旧記有之候共、正徳四年に焼失仕候由申伝候」とあり、創立年月日は不詳であるが、安土・桃山時代の文禄年間か、それ以前に山頂に社殿が造営されたのは確かである。
その後、沖を通る船がしばしば転覆するという事などもあり、現在地に遷御されたと伝えられている。
なお、『神祇史資料』に記載された古文書によると次のようにある「日向国臼杵郡平岩村愛宕神社祠官児玉石見大夫平直貞着風折烏帽子狩衣件先例可専神役者神道裁許状如件安永四年(一七七五)七月四日 神祇管領長上正二位卜部朝臣」
また、この地区には平岩神楽が古くより伝えられており、毎年例祭には奉納されている。電話番号(0982)57-2323郵便番号883-0022住所日向市大字平岩9694・9695番地 -
大御神社(おおみじんじゃ)
大御神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されてと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
また、神武天皇御東遷の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ヶ浜(港)に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と、東に隆起する米の山(久米の山)は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであると言う。
その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで崇敬し、且つ親しんできたのである。最近ことに、御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。
大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名とした、と伝えられているが、本殿に残る天保・安政年間より大正5年までの祈願木札には天照皇大神宮と記されている。
現在の社殿は、昭和13年(1938)10月に全面改築されたものであり、建物全体が直線形の木造銅板葺で切妻屋根を支える力柱を持ち、棟の両端にV字型に千木を突き出す神明造りが特徴。本殿裏の波打つ柱状岩と相まって独特の雰囲気を醸し出し、特に海岸より観る姿は実に美しい。
設計施工は当時全国的に活躍していた宮大工・谷山武義(四国出身)で、建築資材は高千穂地方の神社の境内木(杉材)が使われている。
その後は改築もほとんどされておらず、当時の関係者の日記に立案から落成までの経緯が克明に記録されており、設計図も原本のまま、又建設中の写真も保存されている。電話番号0982-52-3406郵便番号883-0062住所日向市大字日知屋1番地 -
海神社(かいじんじゃ)
寬永二年、当地仏崎の浜に連夜不思議なる燈明を漁夫が発見し、現地を調査したところ、不思議なご尊体の鎮座したところを拝見した。村人等は、驚喜して直ちにこれを村中に議して寬永二年旧十一月十七日仏崎の浜に接する、字ナゴラに一宇を建立しご尊体を迎え奉安したところ、たちまちにして航海漁業等ご神威が顕れたので、村中が同日を以て大祭日(現、新暦十一月二十三日)と定め、儀礼を崩さず龍王権現と崇敬し、村中の氏神として今日に及んでいる。ご尊体座したところはいまなお、人に知られ殊に石の美しいことを不思議として伝えている。
電話番号(0982)53-2535郵便番号883-0062住所宮崎県日向市日知屋15782-乙 -
安之神社(やすのじんじゃ)
安之神社の社名は、古記録によれば安宮大明神と呼ばれていたが、ご祭神の大己貴命(大国主命)は招福・繁栄・縁結びの神として、天鈿女命は安産、塩土翁命も生産と製塩の神であるので、民生を安んずる神として「安之」と言われるようになったと伝えられる。
『日向地誌』によると、安野神社あり「大御神社の北十五町許ニアリ。社地広二反七歩祭神審ナラズ例祭ハ旧暦十一月七日ナリシカ明治六年以来は一定セス」とある。
日向市の日知屋地帯は、海が入り込んでいて、遠浅の砂浜であるので、天日を利用した製塩「塩たき」が行われていて、地名にも塩田、塩屋、塩田ヶ浜、塩田出口、塩田屋敷などがある。
それは天正の頃の話であるが、人々は塩たきに精を出していた。ところがあちこちで塩が固まらない現象が発生した。そこで山伏に祈祷を頼んだが効果がない。やむを得ず野々崎(東郷町)の丹後守という強い法力を持つ人を招いて祈祷してもらったところ、もと通り塩が固まるようになった。ところが法力に負けた恨みを抱く山伏たちは、野々崎の茶屋で丹後守を待ち受けて殺害してしまった。
彼の法力で助けられた野々崎の人々は、彼を慕うあまり、その霊を仲瀬神社に合祀したが、日知屋の人々もまた安之神社に丹後の霊を祀り慰めたとも伝えている。
摂社に須賀神社がある。素盞男命を祀ってあり、家内安全、病気平癒を祈念する。
安之神社は、天正十三年(1585)二月地頭藤原祐盛が再興したとあるから、それ以前の創建が想像されるのである。何分古い神社でもあり久しく荒廃していたが、昭和五十九年十月ご社殿並びに摂社まで改築され、全く面目を一新した。電話番号(0982)54-8918郵便番号883-0062住所日向市大字日知屋7310番地