宮崎県の神社
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愛宕神社(あたごじんじゃ)日向市美々津
創建は不詳であるが、所蔵の棟札によれば、永正十年(1513)十一月、弘治元年(1555)十月に伊東氏により再興され、その後、慶長三年十一月、元和九年十月、寬文十二年十一月、文化四年十一月、嘉永五年十月に秋月氏により再興されている。
棟札による永正十年は足利時代末期で、当時都於郡にあって、日向を治めていた伊東氏の信仰を得ていた神社であることがわかる。その後伊東氏が島津氏と戦い敗走するなど幾変遷の後、高鍋を領した秋月藩の信仰篤く、たびたび復興ご造営があったことがわかる。
明治四年村社にに列せられ、明治四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。電話番号(0982)58-1638郵便番号889-1111住所日向市美々津町3489番地 -
立磐神社(たていわじんじゃ)
神武天皇ご東遷の際、美々津港よりお船出にあたり、航海の安全を祈念されて、この埠頭に海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎してのにちなんで、第十二代景行天皇の御代に創祀されたと伝える。永禄の頃(1558~1570)より地頭の崇敬があり、祭礼神事行事も整い殷盛となっていた。しかし、天正六年(1578)に至り大友氏との耳川の合戦の為戦火にかかり、宝物貴重なる文献記録等烏有に帰した。
棟札によれば元和六年(1623)、寛文八年(1668)、宝永二年(1705)、享保九年(1728)、享和九年(1903)に再興されている。高鍋藩秋月氏の崇敬も厚く、貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によれば、神領七石五斗を有していたとあり、その後も神事ある毎に寄進を受けていた。さらに境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご聖蹟として崇拝している。往古より立磐権現あるいは立磐大明神と称してきたが、明治初年立磐神社と改称し、同四年郷社に列せられ、同四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和9年の神武天皇ご東遷二千六百年記念事業として、境内の拡張、社殿の修築をなし、記念碑が建立された。さらに沖のお船出の瀬戸に永久に神のみあかしを献灯する意味で、竜神バエに岩上に住居灯籠を模した灯台が設置された。
昭和17年、境内には、時の内閣総理大臣であった海軍大将米内光政の揮毫による「日本海軍発祥の地」の記念碑が建立された。またご東行巡路漕舟大行軍を挙行した。これは神武天皇ご東遷の際のご使用の船を形って新しく船を造り、「おきよ丸」と命名し、日向国の青年150名が漕舟して昭和15年4月18日美々津港を船出し、途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながら、某月28日浪速(大阪)に上陸、御楯を捧持、陸路橿原神宮に奉納した。電話番号(0982)58-1638郵便番号889-1111住所日向市美々津町3419番地 -
多賀神社(たがじんじゃ)
天正六年(1578)豊後国の大友宗麟は日向国に来たり、島津氏がこの地において戦った際、伝来の宝物・古器物・古文書等一切烏有に帰した。
古来白鬚神社と称してきたが、明治四年七月村社に列格、多賀神社と改称された。昭和二十年八月と九月の二回にわたる台風により社殿悉く倒壊、翌年十一月には終戦後の混乱苦難の中にも拘わらず、氏子の総意と奉献により多賀神社を霧島山に移転し、同じく台風で倒壊した霧島神社との合祀を執り行い社殿を新築した。ご本殿は今後の台風に備え、流造として固成し奉る。
昭和三十二年十二月、多賀神社と霧島神社の合祀が正式に承認された。昭和三十九年には、国道十号線の改修計画で当神社境内の背面をなす森林を全部伐採するとの交渉を受け、同年十一月、氏子の総意で国道工事に協力することを決めた。工事が完工すると、国道は見事だが、御社殿は丸裸になったので、森林の残る南面に崇拝者の尊崇にふさわしい神域緑化計画を進め、四十二年十二月社殿も遷座した。しかし雨漏りもひどく、倒壊の恐れもあったため、昭和五十六年に改築、現在に至っている。電話番号(0982)58-1638郵便番号889-1111住所宮崎県日向市美々津町3692-イ -
菅原神社(すがわらじんじゃ)日向市美々津
天正六年(1578)豊後国の大友宗麟は日向国に来たり、島津氏がこの地において戦った際、伝来の宝物・古器物・古文書等一切烏有に帰した。
なお、保存してある棟札によれば、文化六年(1809)十一月、明治元年十一月、明治三十四年九月、昭和三十二年十一月に修復再興が行われている。
特殊神事として「お日待祭」「田所祷祭」「川祭」がある。「田所祷祭」は旧暦八月十九日に田畑に植えた種々のものに害虫の禍なく、稲穂麗しく実るべき事を祈念するお祭りで、夜遅くまで婦人方が踊るのである。
「川祭」は旧暦六月九日に行われる水神祭で、菅原神社の氏子達が水難にあわぬよう祈願し、祭典終了後におごくを氏子全員に配る。電話番号(0982)58-1638郵便番号889-1111住所日向市美々津町5166番地 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)日向市美々津
創祀のことは詳らかでないが、天正六年(1578)大友宗麟が島津氏と此地において戦った際、社殿古物古文書鳥有に帰したと言われている。棟札によると文政十一年(1828)十一月、弘化三年(1846)十一月、明治三十九年五月と相次いで再興されている。昭和二十年八月二十七日と九月十七日の二度の猛烈な台風で社殿倒壊したが、氏子の総意により二十一年十二月改築された。
特殊神事としてお日待祭がある。これは明治・大正時代以前より伝承され引き継がれている当地の古風な行事である。旧暦の十月十四日若い婦人達は早朝より順番の宿元に集まり、神饌や餅つき、直会等の準備をし、別に世話人が床の間の清掃や座敷内の注連飾り、庭の山造り(日の出を拝む処)を行うのである。床の間の神前には御饌御酒種々の物や御幣を奉り、宵祭を迎える。夕方になると村中の戸主が神前に集い村の繁栄と五穀豊穣家内安全を祈念する。祭典が終わると直会に移る。戦前は夜通し飲み明かし、神職も一緒に寝泊まりしたが、翌朝日の出前には村人全員集合し、朝の祭典が終わると餅撒行事が始まり、祭の終わりを盛り上げる。電話番号(0982)58-1638郵便番号889-1111住所日向市美々津町1937番地 -
港柱神社(みなとばしらじんじゃ)(湊柱神社)
湊柱神社の創立年月日は不明であるが、高鍋藩の著した「続本藩実録」に文化元年(1804)八月八日立岩湊権現にお上(秋月藩主種徳)より銀一匁、雨乞いのお供料として奉献あった旨記載されている。両神とも水戸を司り、また水戸にあって祓除を掌る神である。
また明治三十九年四月「勅令第九十六号第一条ニヨリ神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社」として社格が村社になっている。
幸脇は神武天皇お船出の際、凧を揚げて風向を試みた所であり、口碑には御進発に際し軍船の修祓を斎行した所として顕彰されている。
また御滞在の間タブトキ峠に上られ御髻を櫛上げされ、遠く海路を眺められたと伝わる。電話番号(0982)57-2323郵便番号889-1112住所日向市大字幸脇5番地 -
厳島神社(いつくしまじんじゃ)日向市幸脇
徴すべき書類はないが、市杵島姫\比売命は、宗像三女神の一で、この三神を主神とする安芸の厳島神社を平清盛は一族は特に尊崇していた。このことから、平家の落人部落(椎葉)の入口である当地に、平家ゆかりの者が建立したと考えられる。耳川が太平洋にそそぐ河口字幸木に鎮座している。
電話番号(0982)57-2323郵便番号889-1112住所日向市大字幸脇5166 -
幸福神社(こうふくじんじゃ)
社伝によれば、富高陣屋の鎮守稲荷社と称し、江戸時代の安永五年正月京都伏見の正一位稲荷五社大明神の御分霊を、当時伏見稲荷神社の宮司羽倉摂津守より許可を得て勧請し、お祀りしたものと伝える。当社が勧請されたときの日田の代官は揖斐十太夫であり、富高陣屋が設置されたのは元文二年(1737)であった。『日向地誌』に「幸福(みしやち)神社富高村ノ中央ニアリ社地広凡五畝、例祭ハ旧暦二月上午ナリシ明治六年以来ハ一定セ」とあるが、明治元年に天満社その他を合祀し幸福神社と称した。陣屋の記録には、「陣屋鎮守稲荷社毎年二月初午日立、臼杵郡之村塩見村、平岩村に限り臼太鼓ろ唱え百姓等、老人若きもの打込み十四五人より二十人余り、連腰に袰を当て、笠をかぶり、前に太鼓を下げ、又は鉦をたたき旗を持つもあり。稲荷社の前に於て老人の音頭に鉦太鼓の拍子を揃え、飛廻り色々手振所作振珍敷五穀祭の奉納古風なり。」と記されている。
神社の境内には樹齢百数年といわれる珍しい夫婦楠がそびえ、また社殿前には江戸末期の画家で明治初年より二十数年間同社の神職を務めた大講義片岡米山翁の碑もたっている。電話番号(0982)53-1360郵便番号883-0045住所日向市本町10番20号 -
八幡神社(はちまんじんじゃ)・智古神社(ちごじんじゃ)
八幡神社
創建は元暦年間(1184~1185)の昔で、工藤祐経と那須与市宗高との勧請によると言う。旧称正八幡神社。当社の神主河野松右衛門が、大永3年(1523)9月に由緒記には次の如く述べられてある。
元暦年間平家の一族が安徳天皇を守護して、豊後国平家山にたてこもった。これを聞いた源義経は早速、工藤祐経、那須与市を征討軍として、日向へ下向させた。2人は幡浦から上陸し、臼杵の庄に到着してこの地に築城した。現在の古城山であるという。そして2人は、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請造営し、日々社参して軍評定をした。そのうち豊後の豪士尾形定義が野心を起し、反平家に廻ったため平家の一族は、豊前国企救郡に落ちて行った。そこで那須、工藤の両者は軍を率いて長門へ向かったという。その後当社は源氏の国土平定化と共に、造営相継ぎ国家安泰、五穀豊穣の神として信仰をあつめたという。
なお明治になって、祇園神社、和田大将軍社の両社を合祀している。
県北最大の祭りとして知られる当社の十五夜祭りは、旧8月15日に行われる。文治年間に始められたが、一時中断し、文政10年に再興した。祭礼が催されるようになって、豊作が続くようになったという。当日は見立細工や花屋台などの店が並び、近郷近在からの参拝者でにぎわっている。智古神社
保元2年(1157)、土持氏の一族土持秀綱、富高の姓を名乗ってこの地に来たり。
三河(愛知県)より子どもの守護を勧請、幼児のヒキツケを治療す当社はこのヒキツケを鎮めなさる神さまとして沢山の崇敬者が氏子となっておられ、通称チリ神さんと親しまれています。
出生児から15才まで毎朝延命息災の祈願をいたしており、お子様の御成長をお祈りしております。参道の鳥居
江戸時代享保12年(1727)に建てられたもので、八代将軍徳川吉宗の頃です。
日向市内では一番古い石像建物といわれています。電話番号(0982)52-6309郵便番号883-0034住所日向市大字富高5895番地 -
栗尾神社(くりおじんじゃ)
天正元年、伊東家の支族だった城主右松四郎左衛門が塩見城の鬼門除けに勧請したともいわれるが、大友宗麟が天正年間、日向進出の際、城主は戦いに敗れ、東臼杵郡椎葉村の栗尾山より同村の蔵の後というところに逃れたとき、九本の松の枝に白幣が一夜のうちに飛び来て掛かり、同時に楽を奏する音色が四方に響き渡ったという。そこで奈須運平という者が、これを神の降臨と感動し、走り寄って再拝して、これを受けて宮の下の地に勧請したのが創建のはじめであるとも伝えられている。この由緒により今もこの地を「飛松ヶ迫」と呼んでいる。
明治初年に、猪久保大将軍・八坂・永田天神・朝日滝の各神社を合祀して村社となり、明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。境内神社として、正安二年の勧請と伝える松尾神社(祭神 木花咲耶姫命)、天正年間の勧請と伝える稲荷神社(祭神 宇賀魂命)がある。電話番号(0982)54-6607郵便番号883-0033住所日向市大字塩見4573番地 -
五十猛神社(いそたけじんじゃ)
創立年月日は不詳であるが、元禄年間(1688~1704)、豊後の国日田の代官小長谷勘左衛門が当地を差配していたとき、当地に勧請したという。寛延四年(1751)未九月吉日と刻んであり、これを基とすれば数十年ほど後の時代ということになる。何処の地より勧請したか不明だが、和歌山に伊太祁曽神社(いたけそじんじゃ)があり五十猛命をご祭神とするので、多分ここらあたりであろう。
ご祭神の五十猛命は素盞嗚尊の御子神で、天降りの時に、天津樹種を持ちくだり、植林を奨められた神で、けだし入郷地区の山林・木材の搬出の要衡の地である現在地に祀ったと考えられる。
なお境内に粟島明神があり、少彦名命・神功皇后を祀ってある。民間では紀伊国名草郡加太神社の祭神少名彦名命のことを粟島殿といい、俗に婦人病に霊験ある神として、その功徳をかしこみ勧請されたのであろう。現在でも縁結び、安産の神として庶民の信仰が篤い。明治40年2月、神饌幣帛料供進社に指定された。
平成20年に県道拡幅整備事業に伴い、鳥居と境内の整備を実施。電話番号(0982)54-6607郵便番号883-0021住所日向市大字財光寺7260番地 -
鉾島神社(ほこしまじんじゃ)
日向市北東部、細島商業港に面し、入江を見渡す丘に鎮座する。航海安全の神として尊崇され、地元の人々に親しまれている。
永正年中(1504~21)、伊東三位入道が、大隈正八幡の分霊を旧富高村日知屋字平野に勧請奉祀していたが、大永七年(1527)伊東祐国が日知屋船岡山の合戦に敗れたため、現在の鎮座地細島に移し奉った。旧称八幡神社といい、後年徳川幕藩体制となり飫肥に封ぜられた伊東氏によって代々保護され、江戸への参勤交代のため細島港より上下する毎に、必ず当神社に参拝、奉斎して、祭典を執行したと言われている。神社付近の字を今なお「八幡の上」社下の市街を「八幡町」と称するのも、神社を中心にして町名を名づけたものである。
宝暦二年(1752)壬申十一月十七日の大火のため、神社の宝物、縁起記録等焼失した。ただ僅かに神職児玉家の旧系譜に「羽柴美濃守公薩州御出陣の時児玉播磨守正直に可為神職」云々の一句があり、更に天和二年(1682)児玉長谷の奉れる『口上記録控』によって、神職児玉家が累代宮司として奉仕して、その系譜を今に残していることを知ることができる。棟札によれば、元治元年(1864)六月、安政三年(1856)正月に再興されている。
なお、昭和天皇ご訪欧のとき海路の平安を祈願し奉り、記念として社殿を造営した。初め八幡神社と称していたが、大正十五年四月愛宕、大御の両神社を合わせて鉾島神社と改称した。また延宝三年(1675)六月十一日銘の鐘を有し、それには「日向国細島八幡宮」と記されている。(『宮崎県史蹟調査第七輯』)末社 御鉾神社(みほこじんじゃ)
主祭神 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)
由緒
神日本磐余彦命は日向より船師を率いて、ご東遷の時、此の島の口(細島港口)にうの鳥が多く群れるをご覧になり、此の島は鳥辺島(とりべしま)かとの詔せになった。これが今の「とべ島」である。これより進んで今の枇榔島(びろがしま)辺りにて大鯨の海中に浮沈するをご覧になり、お持ちの鉾を以て、その鯨を突かせ給へばさながら美女に化し、天皇に向かって申し上ぐるに我は此の辺に住める者、今子を生む間、何卒一命を助けたまへと一心に申せば、天皇憐みて是を許し給へば始めの大鯨に化り海中に沈みたり。天皇詔して此の島は美女が島かと号し給へり。暫くして、追風凶くなり後に舟を返して此の島に懸らせ給ふた、その時此の地に釣する海人が小舟を浮かべて急いで返るを呼び止めになり何に故に急ぎ返るかと問わせ給へば海人どもが申すには四時日の半ばより大魚が来るからそれが恐ろしさに返ると申せば天皇曰「それは釣する日が少ない。出漁が自由でないであろう。此の後は此の島辺に来ぬ様に致して置うとて此の鉾を島に納置した故に是を三鉾神として祭るべし」とて以前鯨に突きし鉾を此の島に建てられ此れは鉾島かと詔が有ったので海人どもは大いに悦び有り難い事ぢゃこれは鉾島の鉾神様ぢゃと悦び帰った。此れより海人どもは鉾島鉾島と号へた。後世何にとはなく細の字になしたるものである。昭和九年神武天皇御東遷二千六百年の記念祭が全国に執行せられた時県下七聖地の一つとして顕彰せられ当時全国奉賛会会長故齋藤実子爵の御来町を仰ぎ盛大なる式典が挙行せられたのである。電話番号(0982)53-1951郵便番号883-0001住所日向市大字細島353番地