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宮崎県の神社

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神社データ(神社名、住所、由緒等)から全検索します。
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  • 伊倉神社(いくらじんじゃ)

    伊倉神社(いくらじんじゃ)

    当社の由緒は不詳であるが佐土原藩旧記『御神領高付』に「一壱石参斗 井倉権現領六月十五日 良寿院 十一月卯ノ日」とある。棟札として一枚「元和五年己未(1619)九月二十六日 島津右馬頭源朝臣忠興」とある。忠興は佐土原城に入った島津以久の末男だが、以久死後襲封した藩主である。また『宮崎県史蹟調査報告』には琵琶一張があり、和泉式部下向の際持ち来たものと伝える。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1405
    住所
    児湯郡新富町大字伊倉13番地
  • 山坊神社(やまのぼうじんじゃ)

    山坊神社(やまのぼうじんじゃ)

    棟札一枚あり「安永七年(1778)九月朔日、再興願主不明」とある。
    当社付近には、新田原古墳群の一つである山ノ坊古墳があり、獣文縁獣帯鏡や画文帯環状乳神獣鏡の舶戴鏡が出土している。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田9383番地
  • 焼石神社(やけいしじんじゃ)

    焼石神社(やけいしじんじゃ)

    棟札一枚があり「寛文七年(1667)十一月二十四日再興」とある。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田11719番地ノ2
  • 春日神社(かすがじんじゃ)新富町

    春日神社(かすがじんじゃ)新富町

    奈良市の春日大社のご分社として、鎌倉時代に、本部家第一代の、本部宮内左衛門定兵が創建したと伝えられる。のち、この地を領した都於郡城主伊東氏、その後の佐土原島津氏は供田三百石を献じ、氏神として篤い崇敬をした。
    古くは、春日大明神と称したが、明治以降は春日神社と改め、昭和二年村社に列せられた。
    また昭和五十年十月、社地を現在の処に移し、朱塗りの色鮮やかな春日造りの神殿が完成し、春日大社花山院宮司のご列席のもと、盛大に遷座奉祝大祭が執行された。
    昭和六十年十月十五日には、ご創建七七〇年、昭和ご遷座十年祭が催され、藤原氏の氏神として、また近郷近在の鎮守の神として、ご神威はますます高まっている。
    特殊神事として地元春日地区民による旧暦六月十四日の「だごおつや」、旧暦九月十四日の「にぎりめしおつや」がある。前者は氏子の各家より、団子を作り奉納し、のち直会において参列者全員子供に至るまで一個ずつ分け与えられる。後者は同様ににぎりめしを奉納するもので、両方とも夜を徹して行われる。小麦、米の豊作感謝の祭である。
    昭和五十九年より、春祭りには戦前は行われていた奉納剣道大会を復活し催している。(平成二十五年を以て中断)
    平成二十六年にはご創建八百年を記念して、本殿、拝殿の塗り替えと手水舎の新築工事が行われた。

    電話番号
    (0983)35-1601
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田13867番地
  • 川床神社(かわとこじんじゃ)

    川床神社(かわとこじんじゃ)

    棟札一枚あり「寛文二年(1662)十一月吉祥日再興」とある。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田16643番地
  • 諏訪神社(すわじんじゃ)新富町

    諏訪神社(すわじんじゃ)新富町

    本社は天正年間(1573~1591)伊東島津の兵火にかかり、古文書ことごとく焼失したため創建年代等不詳である。口碑によれば景行天皇の熊襲征討の際字平山岡に勧請したと伝えるが、明治二十年再度の火災にて詳細不明である。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田5461番地-2
  • 湯之宮神社(ゆのみやじんじゃ)

    湯之宮神社(ゆのみやじんじゃ)

    旧藩時代湯之宮権現と称し、遠近より賽者多く今なお盛んである。ご祭神が天孫降臨の際ご先駆の神として功績があったことは「記紀」に明記されている通りである。のち大神は伊勢の狭長田の五十鈴川に鎮坐し、荒神を払い退け皇孫命を斎奉る。土地の人々は導の神、五穀の神と称え奉りその功を仰ぎ奉った。神社の南西に神井があり、往古は湯を湧出せりと伝えるが、現在は真清水をなり四時絶える事はない。周囲に玉垣を廻し聖蹟として保存されている。この神井は神武天皇ご東遷の際沐浴をされた湯槽の跡と称し、その側に神社を建て湯之宮権現と称したという。
    明治四年湯之宮神社と改称。現在の社殿は昭和十五年紀元二千六百年記念事業として時の宮崎県知事相川勝六氏のもとに改築されたものである。
    なお隣接地に県下第一を誇る天然記念物である座論梅があり、毎年二月中旬には座論梅梅祭りが行われる。臥竜梅といわれる種類で、高岡の月知梅と共に県内の二大名木とされている。座論梅の名前は、梅園の中に梅の幹が「へ」の字形に波打っているようすが、ちょど人が集まって立てひざをしてすわり、話し合っているようにみえるのでついたともいう。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田18633番地-2
  • 一丁田神社(いっちょうだじんじゃ)

    一丁田神社(いっちょうだじんじゃ)

    棟札一枚があり「文化二年(1805)十一月二十五日再興願主不明」とある。
    また、昭和六十一年十一月老朽化したご社殿を、地区民の浄罪により再建した。
    ご神殿は江戸前期の建築と伝える。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田16367番地
  • 新田神社(にゅうたじんじゃ)

    新田神社(にゅうたじんじゃ)

    新富町西部、一ッ瀬河下流左岸の新田原と呼ばれる台地麓に位置する。地内には一九八基の古墳からなる新田原古墳群があり、昭和十九年国の史跡に指定された。
    当社は旧称、正八幡宮と呼ばれ新田郷の総鎮守として崇敬された。現在も八幡様として住民に親しまれている。当社の勧請棟札社領名寄帳等は、天正五年(1577)伊東氏の都於郡城落城の際兵火に遭い、本殿、宝物などとともに焼失したと伝える。現存する棟札によれば、慶長十一年(1606)三月吉日藤原朝臣忠就公修復とあり、その創建の古きことを知ることができる、その後延享四年(1747)7月19日島津忠雅公、明和五年(1768)7月7日島津久柄公、の棟札があり、旧佐土原藩主島津氏代々厚く崇敬した神社で、神領高十石宮司屋敷一ヵ所が寄進されていた。
    維新の際石高除地となり、明治四年郷社新田神社と改称した。昭和五十三年二月には幣殿拝殿社務所の改築が行われた。
    当社の春祭りや7月27日28日の御神幸祭には、五穀豊穣、無病息災を祈願して町無形文化財の新田神楽三十三番が奉納される。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田10006番地
  • 速川神社(はやかわじんじゃ)

    速川神社(はやかわじんじゃ)

    天照大御神(アマテラスオホミカミ)の命を受け新しい土地を求めて南下された天孫、邇邇芸命(ニニギノミコト)は、お供の1人である瀬織津姫を速川の瀬で急流に足を取られ亡くされました。邇邇芸命は深く悲しまれこの地に小さな祠を建立して、御霊を慰めたことに始まるという伝説が残されています。
    当社の創建については詳らかではないが、速川の瀬の左岸に祭祀され瀬織津比咩命を主祭神として祓戸4柱大神を斎奉る神社であり、1764年生まれで郷土史跡研究家の大家「児玉實萬氏」の神代都絵図に描かれています。大正3年内務省が選定し伊勢の大神宮を初めとして日本全国の神宮また神社において奏上致しております中臣の大祓詞よし引用しますと、「速川の瀬に座す瀬織津比咩命という神」と書かれて有り、既に奈良時代以前より祭祀されていたものと思われ霊験灼か成る事は他に無く、その起因の古きは推し量ることができるかと思います。明治4年に発行された「県令郷社定則」に基づいて、明治39年に児湯郡上穂北村鎮座「若宮神社」現在の西都市大字南方島内村鎮座「南方神社」に遷宮され境内社として一隅に祭祀されておりましたが、大正14年に現在の所に正遷宮し昭和46年4月に宗教法人速川神社となりました。
    神社の周辺には昔から、男滝・女滝・蛇滝等と称する滝が7滝ありと語り継がれ、その内の蛇滝が今の龍神の滝(本殿横にある滝)にあたると言われております。現在も参拝者が「生卵1包(2個)」を供えて祈願する習慣は、この7滝に捧げる龍神信仰から発生したものとも思われます。

    参拝のしかた
    卵(玉子)一包(2個)とローソク2本をお供えとして持ち、手水舎にて手を洗い口をすすぎ、拝殿へ上がり、ローソクに火を点け卵の包みを解きお供えしたのちに二礼二拍手一礼をもって参拝します。
    ※ローソクの意
    お灯明のことは顔を照らす意です。
    ※玉子の意
    卵(玉子)は主祭神にお供えしている神が蛇体であり、この神にお供えしてお願いをする意です。

    電話番号
    (0983)42-0114
    郵便番号
    881-0027
    住所
    西都市大字南方字鳥ノ巣183番地2
  • 高屋神社(たかやじんじゃ)西都市

    高屋神社(たかやじんじゃ)西都市

    当社は別称山王社とも言い、ご祭神は大名牟遅命・景行天皇を奉祀する。十二代景行天皇、纒向日代(まきむくひしろ)の御宇十二年七月熊襲が叛乱した。よって八月十五日皇居御発輦遊ばされ、筑紫ご親征に向かわせ豊前に入り、鼻垂耳垂諸譒兇賊・土蜘蛛を討ち、日向国子湯県に到り、此の地に御駐輦された。
    同十二年丁亥秋十一月高屋行宮(現黒貫寺境内)を興し、天皇は宮殿の東日陽山景勝の地に宮柱太敷立て、神殿を造り、天神地祇八神及び烈聖の皇霊を鎮め奉り、皇郡克勝をご親祭された。天皇は、黒木造り(黒貫の地名の語源という)の御所に七年間ご辛苦の戦の末、遂に十三年夏五月悉く平定され、熊本を経て大和へご還幸なされたのである。
    その後二十七年八月再び熊襲が叛き、天皇は御子小碓命(日本武命)に命じてこれを討たせられた。命はただちに日向へ渡り景行天皇の御所たりし高屋行宮に幸し、高屋宮に皇軍の克勝を御祈願の後熊襲を討ち平げられたという。
    後世、里人等景行天皇のご偉業と聖徳を偲び奉り、そのご神霊を高屋宮に奉祀し、村の鎮守神として里人の崇敬篤い神社である。
    古来祭典は毎月行い、年間75度の大小祭有りと言う。
    一月正月用の餅は「餅田迫」(字小路)祝松は「松ヶ迫」(字春田)より納める。
    二月春の彼岸(旧)には「彼岸田」(字境田)より納米。
    三月節句米は「三月田」(字山下)より納米。
    五月節句米は「五月田」(字四反田)祝菖蒲は「菖武迫」(字吉の丸)より納める。
    六月大祓は「払谷」(字払谷)にて行う。
    七月七日七夕祭は「七夕田」(字七夕田)より納米。
    八月彼岸は「彼岸田」(字境田)より納米。
    九月九日は太々神楽(大祭)にて最大の祭典である。その儀前夜、黒貫寺境内の御初家山(景行天皇の仮御所趾)にご神霊を移し、明九日、三十三番の太々神楽を奉納、終りてご還幸する。この制度は明治七年まで行われ、その費用準備は総て黒貫寺より行いしという。
    十一月星祭は「霜月田」(字畑間)より納米。
    十二月大祓は「払谷」にて行う。
    各祭典に用いる「ヒトギ」は「ひとぎ田」(字四反田)より「御供米」は「九像田」(字払田)より奉納、その籾種は「米納」(字四反田)より納めしものである。
    なお例大祭は旧九月九日として現在に至る。
    勅願の霊顕により、御剣を都万神社に献納され、同社の宝庫に蔵する旨、『延喜式内都萬神社案内記』に記されている。

    電話番号
    (0983)44-3071
    郵便番号
    881-0106
    住所
    西都市大字岩爪2600番地
  • 調殿神社(つきどのじんじゃ)

    調殿神社(つきどのじんじゃ)

    一ツ瀬川下流右岸に位置し、地名の由来は神を祀る斎殿の意から出ているといい、また一説には中世に宇佐領であったことから、調殿とは宇佐宮の貢物を納める倉庫の意であるともいう。
    当社は、往古の創立と伝えるが、社殿炎上のため諸記録焼失し、創立年外ははっきりしない。ただし当時の焼灰塚が境内にある。
    社伝によると「延喜五年(905)宣下により神楽を奏す」とあり、承平四年(934)以後、長元五年(1032)・永保三年(1083)・保延三年(1137)・養和元年(1181)等に社殿の再興があったと伝える。旧称を調殿八幡宮といい、「斎殿神社」の記名もみられ、天児屋根命が神事をつかさどる所、すなわち斎殿なりともいう。なお、この地の東方・茶臼原台地の一部児屋根原には、天児屋根命の山陵とする前方後円墳がある。この古墳を村人は「児屋根塚」と呼んでいる。
    文化十年(1813)斎殿神社と改め、明治四年調殿神社と改称し、現在に至る。
    当社は、主祭神のほかに相殿神として、神魂日命、高魂日命、生魂日命、足魂日命、玉魂日命、大宮売命、御食津命、事代主命を祀り、境内神社として、稲荷神社(祭神・宇賀魂神)、五穀神社(祭神・保食神)、歳神社(祭神・若年神)がある。

    電話番号
    (0983)42-3816
    郵便番号
    881-0023
    住所
    西都市大字調殿328番地
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