宮崎県の神社
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須賀神社(すがじんじゃ)
当社は古く「キヲン社」「祇園牛頭天」と称し、明治4年辛未に現称に改める。棟札として安永甲午霜月、天保9戊戌年卯月、嘉永元甲年9月等がある。また古老によると、「弘治年間(1555~1558)この地方は疫病盛んに起こり人民の死亡する者多く、村人等ははなはだ恐れ憂い嘆いて、この災難を免れるには神の御神護をこうむるの他はないとして、『健く雄々しくましまして、神威高き素盞嗚神を斎き祭りて、疫病を打払い退け給い、鬼魅を駆逐し給わることを乞い祈り奉る』と、御社を建て鎮め奉りなり」と言い伝えている。
電話番号(0982)69-7868郵便番号883-0213住所日向市東郷町下三ケ391番地1・391番地2・391番地3 -
八重原神社(はえばるじんじゃ)
当社はもと若宮大明神と称した。宝永年間に炎上し、旧記等を焼失したため由緒を明らかにすることができないが、天正の頃社殿造営の棟札があることから、それ以前の創立を思われる。
明治四年十一月、天神社(字八重原に鎮座祭神、菅原道真公)を合祀して、現在の名称八重原神社に改めた。
当社の秋祭りには、天正の頃より「御日持ち」行事が催されていたと伝える。戦前は三日三晩不眠不休で行われていた。現在はやや縮小されたが今なお行われ、近郷近在からの参拝者も多い。終夜参籠して日の出を待って退散するのを例としている。また社殿より300メートル奥に享保十五年の刻銘を持つ大日如来の石像が祀られており、地区では「水神さま」と称する。本社の奥の院に位置づけられ、祭礼は旧九月十三日であるが、その前夜祭には神楽を奉納し豊穣を感謝し、参拝者は岩聞の清水を口に含んで五体を浄め、健康長寿を祈願する。電話番号(0982)69-3435郵便番号883-0108住所日向市東郷町八重原迫野内622・623番地 -
仲瀬神社(なかせじんじゃ)
当社の創建は、天正14年(1586)7月6日(「日向案内記」)、7月7日(「日向地誌」)そして天正18年(1590)11月7日(「宮崎県史蹟調査」)と諸説あるが、天正年間であることは間違いなさそうである。本(元)宮大明神とも称し、明治4年11月現在の社名に改称した。
当社には次のような言い伝えがある。『日向の伝説』によると、天文・弘治年間(1532~57)富高の日知屋に、その城主中城某の管領にかかる塩釜があり、日知屋の住民は多く塩を焼いて煙を立てており坪谷・山陰・田代・塩見・岩脇の人々は何れも塩をここに仰いでいた。しかし、永禄年中(1558~69)塩が釜に結晶せず大いに困ることとなった。「これは神の祟りであろう」と日知屋の人々は考え、多くの山伏を頼んで祈祷して貰ったが、少しもその験がない。そこで、野ノ先の住民で野々崎丹後という者を招いて祈祷させたところ、今度はその効があって塩を製することが出来た。そこで製塩に従う者は大いに喜び丹後に対して沢山のお礼をした。先に祈祷した山伏達は彼等の力の足りないのを棚に上げて丹後を嫉み、遂に丹後を殺そうと謀った。丹後はこれを聞いて逃れ、塩見・小野田を経て野ノ崎に入り、或る婆さんの茶屋に入って匿れようとした。婆さんは「この家は狭いからだめです。あの木の洞に隠れなさい。」といって大木を指し数えたところ、彼はすぐさま、その木の洞にひそんだ。やがて山伏等が追いかけて来てそして婆さんに尋ねた。婆さんは知らないと言った。山伏達はどうしてもこのあたりに隠れたのだといって捜しまわり、夜になっても去ろうとしなかった。丹後は鶏を愛育して身から離さなかった。或は彼の祈祷の用にしたのでもあろうかこの時にも彼は鶏を携えていた。夜が更けそして暁が来た。畜生の悲しさ鶏は主人の危急を知らず洞中で羽ばたいて鳴いた。山伏達はあそこで鶏が鳴くのが怪しいといいつつ、遂に丹後の隠れている洞を捜しあて、丹後を斬り殺し、その上その家族までも殺したという。野ノ崎の住民達は丹後の死を憐み、その霊を慰めようとし、天正十四年七月七日社を建て、大己貴命を主神とし彼の霊を併せ祀り、本宮大明神と崇めた。彼は祈祷者のようだから、けだし大己貴命は彼の信仰していた神であろう。村社仲瀬神社、その祭神は表向きは大己貴命であるが、実は野々崎丹後をも祀るものだろうと、祭神由来を記している。電話番号(0982)69-7868郵便番号883-0104住所日向市東郷町山陰戊594番地4・594番地5 -
羽坂神社(はさかじんじゃ)
東郷町中心街の真上にある標高405メートルの冠岳北頂にあり、旧称冠岳第権現または冠岳神社という。
平安時代小野田対岸の冠嶽天狗岩の元に小祠があり、修検場として崇められていたが、文明年間に至り冠嶽中腹の台地に社殿が造営され、「冠嶽第権現」と称されて、山陰村と称されて、山陰村をはじめ近隣一帯の崇敬を受けた。寛永十六年(1639)社殿改築の棟札一枚を有する。『日向地誌』によれば、御祭神は前記二柱のほかに事解男命も記されている。
明治四年他の神社を合祀し羽坂神社と改称した。昭和六年現在地へ遷座、冠嶽一帯の神域は冠嶽は羽坂神社保管林となった。戦後、神社に対する保護がなくなり、保管林は国有林に没収されたが、氏子一同の願により旧社殿周辺5ヘクタールを無償贈与された。
当社には、本県の在銘鐘としては最古の梵鐘があって、歴史の古さを伝えており、次のような銘がある。
「奉施入日州 新納院山宅 保冠嶽三所第権現御宝前 右之趣者心信之檀 那無病無脳息災延命家内安穏子孫繁盛富貴自在心中所求皆令満足如意之故也以御祈念如欺
願主 天氏中俣大炊左衛門慰重昌敬白 天文十八年己酉七月吉辰日
諸行無常 是生滅法 生滅々己 寂滅為楽」
と記されており、比較的小型の鋳銅製で、乳は茸状で撞座の位置が少々高く古様式を示している。米良氏の一族と思われる天氏重昌が祈願成就の礼として施入したことがわかる。この梵鐘は羽坂区硯野にあり、本社祭典の日は、梵鐘のある所でも古来より神楽を奏するを例としている。電話番号(0982)69-3435郵便番号883-0103住所宮崎県日向市東郷町山陰丁1番地・2番地 -
山陰神社(やまげじんじゃ)
当社は、天正六年(1578)大友宗麟の乱入による兵乱のため、神社に関する書類の多くを紛失した。古くは利国大明神を称したが、明治四年若宮神社他を合祀して、山陰神社と改称し、明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
古老の伝えるところによると、当社の創建は詳かではないが、天平勝宝十年(758)百済王敗戦し朝鮮より逃れ給い、東臼杵郡南郷村神門への途次、山陰神社へ休憩のために立ち寄った。その日非常な寒気で、笠の紐をとくにも手がこごえてかなわず、山陰神社の神官が笠の紐をといたと伝える。最近まで比木神社が神紋への御神幸の際、当社に立寄り笠を取る神事があった。この事よりも山陰神社が古い神社であることがわかる。また、当社には神門神社祭神貞嘉王の将来品と伝える坩一個が伝わっている。
代々延岡藩主の崇敬が厚く、社殿の改築及び修理が度々なされ、同藩主有馬左ヱ門佐高よりは、五石の御供料の寄進があった。当社の棟札によれば、天文七年(1538)に米良宮内少輔天氏弘吉により宝殿が造立され、その後、元亀二年(1571)慶長十七年(1612)元和十年(1624)寛文七年(1667)享保二年(1717)貞享五年(1688)に社殿の造営再興が行われている。電話番号(0982)69-3435郵便番号883-0102住所日向市東郷町山陰丙966番地 -
迫之内神社(さこのうちじんじゃ)
当社創建その他の由緒詳にせず、旧若宮大明神と称した。明治四年十一月他の神社を合祀して、現在の社名に改めた。合祀社として八坂神社(祭神・須佐男命)若宮神社(祭神・大己貴命)がある。
嘉永八年(1854)黒木与作氏唐獅像二本を寄進せり。
安政二年(1856)神社石段を築く。
昭和二十一年に地内の若宮神社の神殿を移転して、同年五月十四日合祀祭を行い現在に至る。
町誌並びに門川町三ヶ瀬藤田丑弥氏宅に伝わる古文書によると、古くより住民の崇敬厚く中にも天文年間には崇敬者非常に多く霊験を蒙る者多かった。
伝えるところによると、永禄年間三ヶ瀬に何処よりともなく上人(僧)が来て山中(三股)大明神(現在門川高校作業宿舎付近)に住み、天照大神を崇敬すること厚く、従って御恵を受ける事が多かったので、神官の嫉を受け種々問答したが、かねて尊崇する大神の御恵によって打ち勝ったので、神官は直ちに帰ったから上人は酒を持って行き神官に贈ったけれども受けなかったので、遺憾に思い虫にもなれと唱えて酒を谷川に流したところが、三ヶ瀬地方の作物に虫が生じたので村人達は上人に頼んで大神に除虫の祈願をなしたところ、虫が去って豊作となったという。
上人は元亀元年(1570)織田信長時代、迫野内に移住し、天正二年(1574)九月本社を再興した。慶長十年(1605)十月、上人は社殿内に石の碑を建立し大道様と称した。
祭礼は旧暦の二月十五日と九月十五日の年二回行われ、参詣者も町内はもとより三ヶ瀬方面、都農町方面からも非常に多かった。秋の祭礼には神楽と臼太鼓踊が奉納される。電話番号(0982)69-3435郵便番号883-0107住所日向市東郷町山陰庚2230番地 -
鎮守神社(ちんじゅじんじゃ)
小丸川上流の山間地に位置し、西に空野山、オサレ山、地蔵岳がそびえる。地名の由来は、中央部に中野と呼ぶ地があり、山々に挟まれた河谷に立地することから中野股と称するようになり、中之又と書くようになったという。
社伝によれば、肥後、豊後、日向の三国にまたがる祖母岳より大神氏朝臣都甲駿河守惟倍来り、日向国児湯郡都農新納院にしばらく住居した。その後都甲駿河守惟基其嫡左京進惟治中之又の地頭となり、その時に負い来る棟札を小宮を造り奉納した。本社は神武天皇外三社の神を祀り、永正元年(1504)7月21日の創建と伝える。五代自信心大檀那大神氏都甲朝臣米良久馬右門尉重堅が元禄四辛未(1691)年神殿を造営した。明治三十五年9月12日無格社となり現在に至る。電話番号(0982)69-8401郵便番号884-0105住所児湯郡木城町大字中之又121番地 -
狭上稲荷神社(さえいなりじんじゃ)
九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。
旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。
皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比咩を畏れ給い、妹の木花咲哉比咩五十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。
この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。電話番号(0983)36-1202郵便番号881-1411住所児湯郡西米良村大字村所503番地 -
八幡神社(はちまんじんじゃ)村所八幡神社
正平十二年(1357)丁酉征西将軍懐良親王鎮座に下り、八代郡小野に薨ぜられた歳、一王子があった。爵松丸と称せられ、のち良宗親王と称した。以後争乱相つぎ賊威益々盛んであったので、米良石見守重為公(本姓菊池氏米良に潜居後天氏又は米良氏と称する)良宗親王を奉じて米良山に潜居した。その間に懐良親王のためにこの社を創建し、大王宮と号した。良宗親王を小大王と称し、重為六世の孫米良弥太郎重鑑公天正二年(1574)六月再建し、豊前宇佐八幡宮に請うて八幡社号を用いるようになった。明治四年六月社殿の西北、十五町隔てた投の瀬の北岸に鎮座の小大王社(祭神良宗親王)を遷して合祀し、また社殿の東側にあった御社森宮(米良重為公、米良重鑑公)を遷して合祀した。
当社例祭に奉納される米良神楽は、文明三年(1469)天氏重続・重頼の発案で親王を祀る大王宮を建て、将軍が生前好んだ舞を奉納したのが始まりであると言われている。米良神楽の舞い振りは、奈良・平安の大陸文化の影響を受けて、優雅な舞で組み立てられ、支那舞・朝鮮舞が加わる。この神楽は銀鏡、中之又、尾八重、寒川など米良領内にくまなく広まり、今日まで伝わってきている。
当社には注目すべき神面が数面所蔵されており、特に小癋見(こべしみ)と称される鬼面は、県下の能面のなかでも古面として注目され、昭和四十年県の有形文化財に指定された。檜材でつくられたこの面は引き締まった力強い象形で、悪魔を祓う力強い鬼面であるところから、神面として使われてきたのだろうとみられている。電話番号(0983)36-1870郵便番号881-1411住所児湯郡西米良村大字村所12番地 -
兒原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)
一ツ瀬川と小川川との合流域に位置する。昭和三十八年一ツ瀬ダムが完成し、当地はダム湖の湖畔となった。
当社は初めに木花咲耶姫命、彦火火出見命、大山祇命を奉斎した神社であったが、下って天正五年(1577)伊東家十代義祐は島津氏との戦に敗れ豊後に落ちるに際し、伊東家の守護神伊豆稲荷の祭祀を当神社社祠甲斐助左衛門重祐に依頼され、兵火の中より御神霊を壺中に収め持ち帰り、倉稲魂命、太田命、大宮姫命を合祀し、以後小春稲荷神社と称した。豊臣秀吉に仕えた義祐の子祐兵は、天正十五年(1587)九州の役に参戦し、島津勢が降ってからは飫肥の初代藩主となり、当神社の例大祭には豊後落ちの恩義を忘れず、飫肥名産の蜜柑を毎年名代をつかわし奉献したといわれる。江戸期には米良五社の一つとして領主米良氏の崇敬を受け、祭礼の際には領主の直参、代参があったという。棟札によると寛政二年(1790)十一月甲斐刑部によって再興されている。
幕末、当社の祠官であった甲斐右膳大蔵父子は、尊皇運動の先頭に立ち、文久三年の討幕運動の失敗で、肥後人吉藩に捕らえられ、元治元年に父子相次いで獄死した。このため明治維新に際して社号を消滅させられたが、明治十五年現社名を称するようになった。社殿に至る石段右側の墓地内の甲斐右膳父子の墓は、昭和九年勤王家の墓として県史跡に指定された。
特殊神事として、節分の折の「普通水稲作占い」、また例祭には神楽三十三番が夜を徹して奉納される。電話番号(0983)37-1225郵便番号881-1301住所児湯郡西米良村大字越野尾134番地1 -
米良神社(めらじんじゃ)
磐長姫は大山祇命の長女なり。妹を木花開耶姫と云えり。之に依りて磐長姫を姉之宮と稱せしを後人誤りて市之宮と稱せり。嘗て皇孫瓊々杵尊、木花開耶姫の容貌絶美なるを以て召て妃とせり。然る所姉磐長姫慙愧に絶えず家を去りて一ツ瀬川を傳へ上りて米良小川の地に潜み居りしが遂に命を御池の渕に投じて薨去せり。当時社内に神宝として白髪ありしが元禄16年申5月7日洪水起りて山嶽崩れ川水を塞げり。故に川水漲溢す。時に社宇に氾汚し漂いて川上に登ること数町水涸るるに就て社宇留りし地に拝殿を設く。即ち今の拝殿是なり。神殿は山嶺に再建す。此の水難罹りて神宝の毛髪悉く失す。
電話番号(0983)37-1112郵便番号881-1302住所児湯郡西米良村大字小川988番地 -
今町神社(いままちじんじゃ)
永禄(1560)の頃、秋の彼岸の中日に、13人の女子舟に乗って、草刈りに行ったところ、舟が転覆して、皆水に溺れて死にかけたが、当社の後方の岸に流れ着いて、女子供は命拾いをしたと言い伝えられている。このように神明のお加護を蒙ったので、今町村の人々等、神饌を奉り、祭典を行うことになったという。
往古の社地は宇向江にあったが、文政(1822)の頃、今の処に移し奉ったといい伝えられている。電話番号(0983)33-3747郵便番号889-1406住所児湯郡新富町大字新田113番地