宮崎県の神社
-
生目神社(いきめじんじゃ)
元亀天正の兵火で資料を焼失し詳かではないが「宇佐大鏡」には天喜四年(1056)に建立されてあったと記されている。昔より眼疾に霊験あらたかなりとして崇敬殊に厚く「日向の生目八幡様」として、広く知られ、九州はもとより、北は北海道、本州から直参祈願される参拝者も多い。
その縁起には種々の説があり、何れを真ともなしえないが
一説には影清公、日向下向に際し居を此地に撰び閉居され生を卒えられた。公の没後、公の活けるが如き霊眼を斉き祀ったこと。
一説には当地は古より霊地として眼疾患者を活かすに不思議に著しき霊験があった。
一説には活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)(垂仁天皇)を奉斎した社ともいわれ、御子影行天皇熊襲征伐の途、御父君のご命日に偶々之の地にて御霊祭を営まれたのを住民等が歓迎し聖地として永く奉斎し活目八幡宮と称え奉ったとも伝わる。
明治三年に生目神社と改称、同五年郷社に列し、翌六年には県社に昇格した。電話番号(0985)47-8272郵便番号880-2103住所宮崎市大字生目345番地 -
磐戸神社(いわとじんじゃ)
当社の創立は成務天皇(131~190)の御宇、武内宿禰を使いとして崇祀されたという。
神殿は吾平山岩窟を以て本殿と成し、窟前に祝詞殿1宇、拝殿1宇の構造をして参道の石階広さ3間、旧延岡城主、有馬左衛門尉並びに後の城主、牧野備後守等、代々崇敬の神社にして、祭祀料の地を寄進し、社殿修理をも行われた。また幕府勘定奉行今井九右衛門が御供田2石の地を寄進し、前者の5石と合わせ7石の御供田があり、崇敬もっとも丁重の神社にして明治維新後村社となった。『日向地誌』によると、神社名も村社磐戸神社とし、「天然の岩窟なり、窟口の広さ1丈余、深さ15間、その中に鎮座す」となっている。
なお、大祭には33番の神楽があり、5色のご幣等持って舞をし、鬼神、荒神、山の神舞、あるいは日籠舞として陰陽2神和合の舞、手力雄の舞等があり、宵宮等その昔は、賑わったという。 ご神像は、黒塗金泥の厨子に納めた高さ、76センチメートルの光り輝く、天照皇大神も神像で、鎌倉時代の作といわれている。電話番号(0985)41-2641郵便番号880-0043住所宮崎市上北方町751番地 -
倉岡神社(くらおかじんじゃ)
薩摩藩祖島津忠久が、「図師大明神」として花見村城ヶ峯に、旧倉岡郷の総廟として創建したのに始まると伝える。天和三年(1683)五月再興、寛政十一年(1799)十二月には、島津斉宣により再興されている。薩藩支配時代には島津直轄領だったためもあって、厚い崇敬を受け、毎年祭典料として米四斗九升を寄進され、神殿修繕の場合は、入費の半額を下付されていた。現在の社殿は昭和三十四年十月に改築されたものである。
明治四年三月、稲荷大明神・天満自在天神・白山妙理大権現三社を合祀、さらに図師大明神・若宮八幡・池王大明神・熊野三所大鳥尾権現・大将軍神社・厳島大明神を合祀して倉岡神社と改称した。
○明治六年 現在地に遷座
○明治三十七年十二月 愛宕神社を合祀
○明治三十九年四月 郷社に指定され、神饌幣帛料供進神社に指定電話番号(0985)41-0501郵便番号880-2231住所宮崎市大字糸原3295番地 -
八坂神社(やさかじんじゃ)(糸原)
創立由緒ははっきりしないが、天和三年熊野三所大鳥尾権現として再興の棟札があった。往古、伊藤氏の建立という(「三国名勝図絵」)。文政十二年(1829)十月十八日再興。元の社号を祇園神社と称していたが明治のはじめ八坂神社と改称した。
「日向地誌」によると、熊野三所大鳥尾権現は、倉岡神社に合祀されたことになっているが、同時に「八坂神社村社なり」と記述されており、その間に復社されたものとみられる。
社地は昭和九年四月、大淀川改修のため現位置に移転した。昭和二十年四月十二日柳瀬大火の際、類焼したが同年七月仮殿建立、昭和三十年九月に現社殿が新築された。電話番号(0985)41-0501郵便番号880-2231住所宮崎市大字糸原319ノ1番地 -
白髭神社(しらひげじんじゃ)宮崎市
当社は、日向の地頭職に伊東祐経が任ぜられた時、ここの鎮守として勧請したものと伝えられ、時の鎌倉幕府は武運長久祈願のために社領高五十石を奉納したが、五年後の正治二年惟宗忠久公(のちの島津と改姓)の領地となってからこの社領制は廃止された。忠久は島津荘の始祖であり、以来島津荘の中にあったが、天正十三年編成の『日向五郡分帳』には宮崎之郡有田五町とあるところをみると、一時このような状態の時があったものであろう。現在生目地区の中にあることを思えば数奇な歴史の歯車を感ずるものである。しかし、有田村は薩摩藩に属し石高五七四石をもってご一新となり、その四年三月鹿児島藩神社掛、文書奉行の橋口一郎と、同じく小森新蔵の両者が出張して新しい神社制度のもとに以前から祀られていた、大将軍神社、天満神社、森稲荷神社の三社を合祀して白髭神社と称した。
電話番号(0985)47-1444郵便番号880-2102住所宮崎市大字有田2311・2312番地 -
若宮神社(わかみやじんじゃ)宮崎市吉野
「日向地誌」によると、吉野村は嵐田村に同じとし、建久八年(1197)丁巳六月の「日向国図田帳」には諸県の荘四五〇町地頭故勲藤原左衛門尉とあり、これにより以前は藤原氏の管下にあったことがわかる。建久以後は伊東氏から島津氏へと変わり、のち秋月氏の管轄となったことは金崎村に同じである。
その伊藤氏の頃、伊豆の国の浪人川越数馬重為という者、伊藤氏に旧縁あるを以て日州那珂郡に来て、のち吉野村の地頭となった。かくて以前に信仰した北山大明神のご分霊を伊豆の国より奉還し、若宮大明神として吉野村の鎮守としたのである。
伊藤氏没落後は、川越主殿重郷及び川越太郎右衛門重潔が若宮大宮司となったが、その後宮永氏が代々奉仕していたようである。
所蔵の棟札によれば、正保三年(1646)九月、元文四年(1739)四月、天明八年(1788)九月、享保元年(1716)十一月、慶応二年(1866)十一月に社殿の造営が行われている。電話番号(0985)41-0501郵便番号880-2233住所宮崎市大字吉野108番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)(堤内)
将軍足利義晴、時は桃山時代だがその文化も終わりに近く、また各地の荘園も末期の頃、すなわち天文十一年(1542)十一月二十五日創立の棟札がある。
ご鎮座の境内は、貞享三年(1686)丙寅四月秋月種封によって管轄されたことは、金崎村と同じである。元禄二年(1689)己巳三月に禄高の増があり、この村内からは百五十一石余の分賊をうけている。
また日向五郡の古歌に「宮崎は曾井清武に田野浮田久津良高浜堤内まで」とあるところからして、古い時代から一村をなしていたことを思わせる。
明治維新後に村社となりご祭神にあやかって境内一帯並木をはじめ梅の林をなしている。電話番号(0985)41-0501郵便番号880-2232住所宮崎市大字堤内235番地 -
金﨑神社(かねさきじんじゃ)
金崎は大淀川の支流綾川に臨み、金崎神社の背後の小丘陵である。
神武天皇狭野より宮崎の宮に御遷御の時、この丘上にお休みになられ、橘の小戸の阿波岐原お望みになられた地として、紀元二千六百年記念祭時に顕彰されている。
金﨑神社は桓武天皇の御代、金崎郷の総廟として鎮座されたものと伝える。昔時は金之御子、または金御児を冠して、六社大権現と称されていた。建久元年(1190)伊東祐経公日向の守護となり、社領高七石を奉納した。天正十五年(1587)秋月築前守の領地となっても、社領七石は旧に依って奉納され、更に元禄二年(1689)秋月式部種封公の領地になっても、社領は前例に依って奉納された。
当社はもと社殿背後の霧島山の山頂に鎮座し、元禄年間山麓に遷座したが、度々不思議
な事があって、宝永年間現在地に再遷したと伝える。電話番号(0985)41-0501郵便番号880-2234住所宮崎市大字金崎2995番地 -
大塚神社(おおつかじんじゃ)
創建は社蔵の棟札によれば、五十五代文徳天皇の齋衡年間(854~856)土持冠者左衛門尉景綱が、当時宇佐宮領であった大墓別符(大塚)に宇佐八幡を勧請し産土神として祀った。
文永元年(1264)飫肥藩祖藤原祐時により再興、その後文禄二年(1593)、慶安元年(1648)、寬文七年(1667)、宝暦二年(1752)、安永九年(1780)、文化十二年(1815)、嘉永四年(1851)に再興が繰り返されている。
明治三年冠嶽大権現及び城ノ下天神を遷座合祀する。昭和五十九年には氏子崇敬者の協力により全面改築が行われた。電話番号(0985)54-3210郵便番号880-0951住所宮崎市大塚町原ノ前1598番地 -
加江田神社(かえだじんじゃ)
伊弉諾大神が檍原で禊された所として、元加江田村字中原という所に鎮座された。寛文二年(1662)の大地震の時、海辺の一村は沈み、田畑高八五〇〇石が損失し、その他末社斟八神社の社領も海に没した。その時河野某なる者、ご神体を泥海の中から辛うじて奉り、字仮神という所に小社を過構えた。寛文十二年(1672)九月十八日字丈之馬場へ遷し奉った。寛政十一年(1799)九月二十九日ご殿並びに舞殿等を再興する。
此社は往古より加江田伊勢神明宮と称し、日向国旧社の一社である。ことに皇室の大祖たる天照大神ご出生の霊蹟と云い伝えられ維新の際加江田神社と改称、郷社に列せられる。
維新以前は、飫肥藩崇敬社としてご神殿、祭具等伊東家のご紋を彫刻され、毎年二、六、九月の例祭には領主自ら参拝された。祭典時には神事料、玄米弐石弐斗八升を下賜されたと伝えられている。天照大神が上古天の長田狭田に御田作られし古事に準じ、毎年三月の例祭には社人牛を用いて田作りをする。その時松葉を苗として植える。里人は祭典修めを待ち其の苗を申し受け、我が家の守り神として謹んで拝するのである。電話番号郵便番号889-2154住所宮崎市学園木花台桜一丁目29番地4 -
河上神社(かわかみじんじゃ)
旧瓜生野村と旧那珂村の境界線となっている石崎川の、右岸に鎮座する神社で昔は大瀬町の村社であった。創立は不詳であるが、慶長元年(一五九六)丙申県(延岡)城主高橋右近将監種統(元種が本名)時代の勧請と伝えられる。『日向地誌』によると、村社前田にあり、磐長姫を祀るとある。
電話番号(0985)41-2641郵便番号880-0045住所宮崎市大瀬町4422番地 -
八幡神社(はちまんじんじゃ)(瓜生野)
聖武天皇の御宇天平九年(737)この地に勧請されたと、当社棟札に明記されている。古くは瓜生野八幡宮と呼ばれ、現在でも地元ではそう呼ばれ崇敬されている。付近に宇佐八幡宮領瓜生野別府があったところから、その鎮守として勧請されたものであろう。所蔵の棟札によれば、延長二年(924)、元久元年(1204)、慶長十六年(1611)、寛文八年(1668)、寛延三年(1750)と、たびたび造営再興が繰り返されている。
明治四年八幡神社と改称し、郷社に列せられた。
当社殿後方には、半壊の古墳封土があり、また境内にはうっそうと茂るクスノキの群落は、瓜生野八幡クスノキ群として、昭和二十六年六月国の天然記念物に指定された。その最大のものは目通り幹回り約8.9mで樹齢八百年と推定されている。また宝物として仏光背一面を所蔵している。電話番号(0985)41-2641郵便番号880-0045住所宮崎市大瀬町5714番地