宮崎県の神社
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住吉神社(すみよしじんじゃ)塩路
神代の昔伊弉諾尊は、その妻伊弉冉尊のお亡くなりになったのを嘆かれ、その後を慕って塚穴に入られたので日向の橘の小戸の檍原に下られて御身の汚れを清められた。その禊祓の時現れた神々の中に表筒男・中筒男・底筒男の三神がある。
塩路にあるこの三神を祀った住吉神社は全国にある社の根源である。大阪の住吉大社、福岡の志賀海神社とともに由緒ある住吉三神として名高い。寛政六年(1794)編「住吉大明神略御縁起」によれば、六代孝安天皇の命によって宮柱太しく建て申したのだという。
都於郡城主伊東義祐の「飫肥紀行」の中に
急ぎける程に檍原の波間よりあらわれ出でし住吉の里の近くに見え渡り、八重の潮路の松の秋風云々
というのがあり、橘三喜の「一宮巡詣記」に
江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う上・中・下の三つの瀬ありと伝えし云々とある。
縁起の中に「御社より二十余町の沖に上つ瀬があるといっている。そしてそこには石の華表があるという。それより南方に中津瀬があり、ここに伊弉諾・伊弉冉の二柱を祀る社がある。それより南に下つ瀬があり小戸大明神の神社がある。」と書かれている。
中つ瀬の社は江田神社であり、下つ瀬の神社は小戸神社で、もと当社は檍村大字吉村の下別府という所にあったが、寛文二年(1662)の地震で海中に没してしまった。縁起の下つ瀬というのは今の吉村の海である。浜山にあるのが住吉神社の大元であり、日向の小戸の檍原というのは当社から大淀河口までの地であるということになる。電話番号(0985)39-2835郵便番号880-0122住所宮崎市大字塩路3082番地 -
新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)
第八十一代安徳天皇の養和年中(1181~82)この地に創建したもので、社伝によれば、豊前領主土持冠者左衛門景綱が日向の地頭の時、宇佐八幡宮の分霊を勧請したと伝える。土持八幡宮、または単に八幡宮と称していた。宇佐八幡宮新名爪別府については、『宇佐大鏡』によれば、治暦二年(1066)とあることから、当時新名爪の鎮守として勧請したと思われる。
明治二年郷社となり、新名爪神社と改称したが、昭和四十八年旧称の新名爪八幡宮に戻し現在に至っている。
また、室町時代の作といわれる舞楽面「陵王」(縦30㎝、横18cm、鼻の高さ13.5cm)が伝えられており、宮崎市指定の有形文化財に指定されている。
舞楽面は全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県観世音寺、大分県宇佐八幡宮と、新名爪八幡宮に限られており、本面は豊後宇佐八幡宮の関係において存在し、その南限と思われる。また、新名爪八幡宮の氏子にとっては、不老面(年をとらない面)と呼んで崇敬厚く、一方では恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化的、民俗学的に意義あるものである。電話番号(0985)39-2720郵便番号880-0124住所宮崎市大字新名爪4449番地 -
細江神社(ほそえじんじゃ)
南北朝の乱れもようやく定まった応永八年辛巳(1401)当社創建という旧記がある。その直後文安三年(1446)丙寅六月二十九日伊東祐堯の軍によって細江神社が攻略される。
永正十八年(1521)慶長三年(1598)寛文十年(1670)とご造営が行われ、また寛保二年(1742)には領主牧野越中守貞倶によってご神殿を再興している。
ついで宝暦三年(1753)と文化十二年(1815)にご造営が行われ、明治後維新とともに八幡宮を八幡神社と改めた。
摂社金宮神社は、本宮より二十三年後に創設され、細江神社の山深い鎮座と相対し、氏子住民の篤い信仰が捧げられてきた。
旧お社は、山頂の山深いご鎮座である為、充分な祭祀ができず、長い歳月が経過し、度重なる風雨に耐えて来ましたが、老朽化が甚だしく改築の気運が高まる中、平成十七年四月氏子総会の議決を経て建設委員会を設立し改築の運びとなった。
摂社である金宮神社の境内を新宮地と定め(細江神社と金宮神社を合祀)・(稲荷神社・若宮神社・八坂神社を合祀)・潮大山祇神社を改築ご造営するととなった。電話番号郵便番号880-2116住所宮崎市大字細江12番地3 -
若宮神社(わかみやじんじゃ)宮崎市
文治元年平家壇の浦に滅亡後、その侍大将悪七兵衛尉景清は源右大将頼朝公より日向国宮崎郡に三百町を給わって下向した。当神社はその景清公によって勧請されたといい伝えられている。その後寛正六年(1465)丙戌年大主伊東大和守祐堯・祐国公に依り社殿の再興がなされたとある。当社所蔵の棟札によると「奉再興若宮八幡宮元禄八年(一六九五)亥年御代官源朝臣今井九右衛門尉賢富」。
「享和元年(一八〇一)酉辛九月若宮八幡宮於広前競馬乃檻觴御領主内藤能登守武運長久村中安全」と記されている。明治維新により若宮八幡宮を若宮神社と改めた。また奉納競馬がいつから行われたか不明だが、明治の中ごろまで地区の中央より神社の境内を一周する長馬場があった。元の境内は小松905番地の1だったが、県の大谷川河川改修工事のため、現在地に昭和46年遷座した。
末社
素盞男命(すさのおのみこと)(牛馬の神)
稲荷神社(稲作の神)電話番号(0985)47-8372郵便番号880-2112住所宮崎市大字小松780-1 -
跡江神社(あとえじんじゃ)
古来、神明宮と称し、伊勢の豊受大神を祀ることから、この地を伊勢といった。天文10年(1541)6月再興されてより、以後領主並びに氏子の厚く崇敬する社であった。維新の改革により跡江神社と改称し、村社に列せられた。
また、この跡江台地には、県内有数の古墳群の1つで、国史跡(昭和18年指定)の生目古墳群がある。
特殊神事は旧暦の8月7日、8日に豊年踊。現在も奉納祭る。流鏑馬は宝暦4年に始まるが、今は中絶。電話番号(0985)48-1041郵便番号880-2101住所宮崎市大字跡江810番地 -
八坂神社(やさかじんじゃ)宮崎市跡江
不詳
電話番号郵便番号880-2101住所宮崎市大字跡江3323-1 -
八坂神社(やさかじんじゃ)宮崎市跡江
不詳
電話番号(0985)47-1356郵便番号880-2101住所宮崎市大字跡江2402番地1 -
長嶺神社(ながみねじんじゃ)
当地長嶺は、平安末期には宇佐宮領として成立しており、建久八年「日向図田帳」には、長嶺別府三十町と記されている。社伝によれば、旧称長嶺八幡宮といった。宇佐宮領長嶺別府に宇佐神宮の分霊を祀ったもので、当地の産土神として崇敬されてきたものである。
当社の造営を棟札より見れば、下記の如く造営再興が繰り返されている。
○永禄二年(1559)九月
○元和九年(1623)九月
○延宝三年(1675)三月
○享保十一年(1726)九月
○宝暦十年(1760)八月
○安永五年(1776)十一月
○天保十四年(1843)九月
○明治二十四年二月電話番号(0985)48-3794郵便番号880-2115住所宮崎市大字長嶺292番地 -
小松神社(こまつじんじゃ)
本殿勧請の年月は定かではないが、伊東祐堯領主の時社殿を再興。
棟札には僅かに卯月七日の四文字を見るのみである。また領主伊東祐堯云々により推察すればそれ以前に勧請されたものと思われる。正徳辛卯年九月吉日御所公郷代官竹村太郎左衛門時代と享保二十年(1735)七月吉日に社殿の修理造営がなされ、幾多の星霜を経て明治四年十一月四日それまで白雉八幡宮の称号を村社小松神社と改称し今日に至っている。
昭和五十六年十一月七日神殿及び神殿上二重屋根(瓦葺)、拝殿改築銅板葺にて竣工する。電話番号(0985)48-1041郵便番号880-2112住所宮崎市大字小松1930番地 -
柏原神社(かしわばらじんじゃ)
古記録によれば、正和四年(1315)八月惟康親王の御時、守護職土持参河守栄嗣が国土治安を祈り豊前国宇佐宮のご分霊を勧請したと伝える。
当時社録を有し社司を置き神意赫々としていたが、爾来幾多の星霜を経て、康正年間(1455)以後南北兵乱の地となり、社録を失い一時衰頽を極めた。元禄年間(1688)再興神意赫々と揚り、氏子の崇拝篤く社殿の改築等を行い、明治四年十一月八幡宮の称号を改め村社柏原神社と改称し以て今日に至る。電話番号(0985)47-1444郵便番号880-2111住所宮崎市大字柏原821番地 -
浮田神社(うきたじんじゃ)
天善5年(1057)国司管野政義が、旧生目村の発祥地と言われる浮田庄を設立し、その折京都祇園の八坂神社の御分霊を勧請したと言われている。古来祇園社と称されていたが、明治8年今の社名に改められた。20余年前までは、陰暦6月15日の例祭には、浮田・柏原・長嶺等の各方面より編笠打扮に鐘太鼓を打鳴らしつつ行列を作って同社に繰り出し、俚歌・手踊を奉納し、終わって火縄銃空砲の打合いがあるなど頗る賑やかであったが、今はただ昔話に残るだけである。
電話番号(0985)30-4187郵便番号880-2104住所宮崎市大字浮田2816番地 -
富吉神社(とみよしじんじゃ)
八幡宮の本宮である宇佐神宮のご分霊を勧請したもので、富吉村の産土神として祀られてきたと伝える。文安四年(1447)には、領主藤原(伊東)祐堯公により社殿造営。文明十年(1478)には時の領主牧野越中守により社殿の造営が行われている。さらに慶長五年(1600)、元文二年(1737)、文政十年(1827)にも社殿の造営が行われ、明治二十四年にも半年の期間を要してご造営されている。現在の社殿は平成十二年に造営されたものである。
明治四年十一月村社に列格、同三十九年四月神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。
大正三年頃まで十一頃に流鏑馬が行われていた。現在、水流地区に躍蚕馬場と地名が残る。電話番号(0985)47-1841郵便番号880-2114住所宮崎市大字富吉4898番地ノ1