宮崎県の神社
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嶽枝尾神社(たけのえだおじんじゃ)
当社は椎葉村南部、小崎川左岸に鎮座する竹の枝尾日当に鎮座する。創建は不詳であるが、元久二年(1205)の勧請と伝え、往古より平田大明神と称し、地内日当、日添、臼杵又の氏神として崇敬されてきた。
明治四年嶽枝尾神社と改称し、同七年十二月村社に列せられた。
毎年十二月上旬、椎葉神楽の一つである嶽枝尾神楽が奉納される。神前八畳の間を「御料屋」とし、外庭に「外神屋」をしつらえ、一番の宮神楽から三十三番の神送りまで徹夜で舞われる。※中瀬淳氏
嶽枝尾に生れ、若き日より椎葉村政に情熱を捧げ産業、教育、文化の発展に力を盡し、当神社並びに御神楽の保存と、郷党の指導に努めた故中瀬淳翁の遺徳を偲び、後世にその偉業を伝えるため、ここに部落民一同相計り建立したものである。
昭和四十四年十一月三十日電話番号(0982)67-2523郵便番号883-1602住所東臼杵郡椎葉村大字大河内1949番地 -
椎葉厳島神社(しいばいつくしまじんじゃ)
椎葉厳島神社は旧称厳島大明神と尊称し、元暦三年(西暦1185年)鎌倉幕府より長門国壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門追討の命を受けた那須大八郎宗久が、椎葉山中での平家残党の叛意なき姿を深く憐れみ、平家尊々の安芸の宮島、厳島神社の御分霊を勧請して創祀させられました。平成8年に本殿、幣殿、拝殿を改修し、授与所、手水舎を新築、平成10年に参道を改修した。境内地には平清盛の末裔にあたる鶴富姫が使ったと言われる「鶴富姫化粧の水」や、那須大八郎宗久の「陣屋跡」等の伝説地がある。
電話番号(0982)67-2221郵便番号883-1601住所東臼杵郡椎葉村大字下福良1822番地 -
尾前神社(おまえじんじゃ)
当社は、椎葉村の西端、耳川最上流沿岸の山腹に位置する。由諸は不詳であるが、往古より六社大権現と称し、志那津彦命以下六神を祀り、それぞれに風・金・山・木・火などの神性が賦与されている。
明治四年尾前神社と改称し、同七年十二月村社に列せられた。
毎年十二月上旬の祭日には、村指定の尾前神楽が奉納される。奉納社を「神楽子」と呼び、各戸の長男がつとめる。神楽は夕刻より始められるが、一番の「板起し」は狩猟神事そのものであり、爼板に猪肉をのせ唱文をとなえる。演目中「生魂殿」には、やがて地区の子女が祭場に舞い込むという「宝渡し」がある。電話番号(0982)67-5626郵便番号883-0160住所東臼杵郡椎葉村大字不土野171番地1 -
栂尾神社(つがおじんじゃ)
当社は、九州山地中央部の山間地、小丸川上流右岸の急峻な山腹に位置する。当社の神職黒木家には「元亀三年十一月廿二日 奉納 素盞嗚命 栂尾村神主黒木済門之助」の棟札写が保存されていることから、元亀三年(1572)の勧請と思われる。栂尾・中山・尾崎・吐野の四ヵ村の産土神として崇敬されてきた。済門之助は石見国の人で栂尾の開拓者といわれ、子孫代々神主を勤めて今日に至っている。
当社に伝わる栂尾神楽は、椎葉村文化財にも指定されている古い歴史をもつ神楽で、椎葉神楽の一つである。この地方が阿蘇神社の神官により管理されていた元和年間(1615~24)に始まったと伝えられている。地区内の農家から「寛文九年(1633)」の墨書のある面がみつかり、その信ぴょう性は高いとみられている。
○栂尾の臼太鼓踊り
毎年11月3日に栂尾神社境内で行われる。昭和46年までは、旧暦10月5日は神の踊、翌6日は本踊と2日間にわたっていた。朝、神社本殿前の石段で向かい合って2列に並び太鼓と鉦を鳴らす。これが「神の踊」
踊り庭に入り、四季の景色を歌う「四節」を踊る。
その後、神主宅で一旦休憩後、一人が鬼の面を着し、行列を組んで拝殿前の庭で「羅生門」を踊る。羅生門は渡辺綱の大江山の鬼退治の説話を歌う。一旦引いた後、「お船」「富士の巻狩」、そして「人の小娘」「酒屋」を順次演じる。
踊り庭には幕が張られ、踊り手は曲目ごとに幕を開けて登場する。踊り庭の傍らにはハリバンと称して六尺棒を持った二人が警固役となる。
全演目が終了すると、最後はウスキドウと称し、村人、参拝者が御幣や幟などを手に踊り手と一緒になって踊り、神送りをする。この頃には晩秋の夕闇が迫っている。電話番号(0982)59-0419郵便番号883-0402住所東臼杵郡椎葉村大字大河内235番地 -
小崎神社(こざきじんじゃ)
当社は椎葉村南部小崎川左岸の山間地に位置し、文久二年(1862)の創建と伝える。
『日向地誌』によると小崎神社として「村社ナリ小崎ニアリ 社地広三段一畝 底筒男命上筒男命中筒男命息長足姫命ヲ合祭ス 旧称山王権現ト云 明治四年辛未今名に改ム 例祭十一月二十五日」とある。電話番号(0982)67-2523郵便番号883-1602住所宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内1514-ロ -
岩屋戸神社(いわやどじんじゃ)
当社は椎葉村北東部耳川上流左岸に位置する、純農山村地帯である岩屋戸に鎮座し、安政五年(1858)の創建と伝える。
『日向地誌』によると「村社ナリ岩屋戸ニアリ社地広二段三畝六歩大山祇命ヲ祭ル 旧称牧嶽権現ト云 明治四年辛未今名に改ム 例祭十一月十五日」とある。電話番号(0982)67-2523郵便番号883-1604住所東臼杵郡椎葉村大字松尾1311番地 -
向山神社(むかいやまじんじゃ)
九州山地中央部椎葉村の西端部に位置し、伝承によれば追い詰められた平家の落人達がこの山中まで逃れてきて自滅を図るが、向こうの山にまだ落人が隠れ住んでいるというので、この地名が生まれたと言う。
当社は地内金の内で果てた平家残党の霊を白鳥の名で祀ったもので、元久元年1204年の勧請と伝える。旧称白鳥権現といい、今でも地元では白鳥神社と呼んでいる。
明治4年向山神社と改称し、村社に列せられる。
旧3月17日には、白鳥山(1638米)の山頂で自決した平家一族の霊をなぐさめる慰霊祭「御武者まつり(春祭り)」が行われる。電話番号(0982)67-5537郵便番号883-1603住所東臼杵郡椎葉村大字不土野837番地 -
小原神社(おばるじんじゃ)
当社社殿は昭和十年三月新塚原誕生記念事業として建立。以来地区民の氏神として崇敬されている。昭和二十七年三月拝殿建設の議起り敷地整地は地区民の奉仕、拝殿の建設は氏子の黒木弥六氏の浄財で賄われた。本建築に要した化粧財は西郷村権現山の神木にて造られている。
昭和三十四年新塚原公民館繁栄の一助として、八坂大神を勧請。昭和三十六年四月新塚原を諸塚町と改称したため小原神社と社名を改めた。小原とは字名から取ったものである。夏の例祭は神幸祭りがあり神輿が地元氏子達によってかつがれ地区内を渡御し、その後から婦女子の踊りのパレードが続く様は華やかで見事である。
昭和三十九年二月二十六日宗教法人小原神社となる。電話番号(0982)65-0252郵便番号883-0130住所東臼杵郡諸塚村大字家代2640番地ノ1 -
八重ノ平神社(はえのひらじんじゃ)
不詳
電話番号(0982)65-4235郵便番号883-1402住所東臼杵郡諸塚村大字七ツ山4801番地2 -
南川神社(みなみがわじんじゃ)
当社は、南川中尾にあり、吉野大明神と呼ばれていた。明治四十一年八月家代神社に合祀し、昭和二十八年再び現在地において祀るようになる。例祭には神楽三番が奉納され、直会では奉納演芸大会等がありその賑わいは年を追う毎に盛大になっている。なお、旧正月には南川神社夜神楽が一年交替の神楽宿(民家)であり三十三番の勇壮な神楽が世を徹して舞い続けられる。
昭和三十一年十一月十日宗教法人南川神社となる。電話番号(0982)65-0252郵便番号883-1301住所東臼杵郡諸塚村大字家代5716-ロ-乙 -
小原井神社(おばらいじんじゃ)
当社の由緒は不詳であるが、『日向地誌』によれば、「村社ナリ 向ヒ原ニアリ社地 三段三畝十一歩 木花開耶姫尊、大己貴尊 少彦名尊ヲ合祭ス 旧称松尾大明神ト云明治四年辛未今名ニ改ム 例祭十月十一日」とある。明治四十二年五月。同村柱神社に合祀されたが、その後復社した。
電話番号(0982)65-4235郵便番号883-1402住所東臼杵郡諸塚村大字七ツ山3765番地 -
黒葛原神社(つづらのはるじんじゃ)
当社は家代熊野権現(家代神社)を勧請したのが始まりと伝える。もと熊野大権現と称し、地区の氏神として崇められてきた。明治四年黒葛原神社と改称し、明治十五年毘沙門天を合祀した。明治四十一年八月地方庁の指示により家代神社に合祀、昭和二十八年四月再び黒葛原に復社した。三月三日の例祭では神楽三番の奉納に引き続き、無礼打ちにあった父の敵きを討つ娘と相手の侍とのからみを表現した有名な「団七踊り」が奉納され、村内外から引きもきらぬ参拝者でにぎわう。
黒葛原地区に団七踊りが伝習されたのは昭和二十八年であり、毎年春の祭典に奉納されている。六十年の周期を迎えた平成五年に、故人となりし師匠戸高仙吉氏の冥福を祈ると共に、その功績を称え記念碑が建立された。
六十年の間には、名古屋での全国大会にも出場し古式を守る芸能として高い評価を受けた。電話番号(0982)65-0252郵便番号883-1301住所宮崎県東臼杵郡諸塚村家代1146-乙