宮崎県の神社
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母智丘神社(もちおじんじゃ)
本社は創祀の年時を詳にせず、往時より石岑稲荷明神と称し、古く地方民の崇敬頗る厚きを致せる社である。
社地は丘阜の頂きに在るを以て持尾と書せしを、後世に至りて母智丘と改書したのである。該頂上には巨大なる岩石多数累列せるに依り、一に石無禮又は石岑の石に呼ばれたのである。社殿の後方に二穴ある、左方を白御毛津、右方を赤御毛津と称せり、往年同所に久保田寶樂院(現社司の祖先)鬼塚光明院交々祭祀を営み、神意を受けて庶人の祈願吉凶を判し、五穀成就諸病息滅、就中家畜の保護蕃蕃殖に神験ありとし、賽者少なからざる霊地なるを、時の地頭三島通庸が之を聞き社殿を興し、木田九郎を鹿児島より招きて祠官となし、神がかりに依り(人に憑りて神意を傳ふるもの)神託を受けしめ、祭神豊受昆賣なりと云、且誕生の霊跡と称せり。
通庸は各所よりの参拝道路を拓きて、賽者の便を策り、社下正面八町の道路両側に、桜樹を併植し、屢々自ら参拝して敬神の範を一般民衆に示せり、茲に於いて社観大に整ひ居りしが、明治三十三年七月二十日炎上の厄に罹り、さしも壯厳なりし往時の俤を失ひ、現時の社殿は、仝三十六年二月の再興にして、其規模狭小なるも、祭時即ち四月二十三日の例祭には、遠く鹿児島縣下並縣下各所より参集するもの、絡繹として絶えざる而己ならず、境域参道等に充満、賽客咽嗔、其盛況他に見を得ざる殷賑である。明治四年四月四日郷社に、同年五月二十五日縣社に、累進したるは、是三島通庸が捧げたる至誠の偉大なる力に興かりし所である。電話番号(0986)22-2133郵便番号885-0091住所宮崎県都城市横市町6691番地 -
早水神社(はやみずじんじゃ)
当社は諸県君の娘・髪長媛出生地に、媛と父、牛諸井とを祭祀したものといわれる。応神天皇を正祀したのは、天皇と髪長媛の因縁によるもと伝える。都城市上長飯の地名は、髪長媛の転化、牛諸井は早水神社の境内の湧水(井水)にちなむもの、また早水は古語で泉の「そうず」が転じたものといわれる。祭神髪長媛の誕生の地と言い伝える県指定の史跡沖水古墳もあるが、本社は当地を領した都城島津氏の崇敬が厚く、天文十二年(1543)十一月、島津忠相、忠親父子が社殿を再興した。江戸期には神領三石三斗八合のほか神田もあり、正月中卯、三月三日、九月九日、十一月卯の中の年四度の祭りが行われていた。戦前までは旱魃(かんばつ)の時は郡内各地より雨乞神事に訪れ、雨乞行事が連日行われた。
一日の湧水量が八千立方メートルという早水池を中心に、早水公園として指定され、体育文化センター、市立植物園などがあり、市民の憩いの場となっている。このアヤメは明治初年まで庄内アヤメとして有名であったが、昭和四十五年頃わずかに残っていたのが報道されたため、全部盗まれたとのことである。
現在のアヤメは、正式にはアヤメではなく、「釜山ショウブ」といって韓国から伝わってきた品種であります。電話番号(0986)25-2608郵便番号885-0016住所都城市早水町3866番地 -
島津稲荷神社(しまづいなりじんじゃ)
旧藩始祖島津豊後の守忠久の創建なり。
旧記忠久の母丹後の局(※1)懐妊の時、治承(※2)三年伊豆の国より日向の国へ赴任の途次、摂州(※3)住之江の里(※4)で、産時となった。当たりに産屋を探したけれども適当な所がなく、十二月晦日の夜住吉の杜より南樹の下の石の上に乗り、そこにてご出産の際大雨となり、もとより闇黒のため進退きわまったところ、畏くも神あり、火を灯して終夜補佐してくれた。
やがて忠久成長し、その霊験著しいことを感じ、十八歳にて薩摩・大隅・日向三州の守護職に任ぜられ、任に赴こうとし京より稲荷を奉り来て、薩摩国出水郡山門院に着任したのは建久(※5)七年(1196)丙辰八月二十三日であった。その後日州へ移り、領内を庄内と称し、北郷の安久村堀之内村へ居を構え、堀の内御所と称えた。後島津の庄郡元祝吉へ本拠を移し、祝吉御所と称した。初任の地安久には、八文字島津民部大輔と称する豪族が居住していたが、忠久公入所後土佐へ移住し、忠久公は島津民部の旧称を襲い、島津判官忠久と称し、これを不朽に伝えるに至った。居館も島津殿または島戸といい、或は稲荷の御立所で郡元とも称したと言う。
稲荷神社は、祝吉御所を西方に至る十町の地にあり、その創建は建久八年(1197)丁巳九月七日午の日に社柱立てをし、同月十九日の午の日に勧請する。当日をもって年中の大祭日と定め、今にこの日を奉祭施行している。以来島津家の産土神として殊更に崇敬を極めた。社殿の両側に大杉二本があり、これは忠久自ら植えおきしたもので、当社を往古は「島津稲荷」といっていた。また祭事には代参を恒例とし、さらに別当正覚院和光寺(真言宗鹿児島大乗寺の末派)を草創、山号命婦山と称した。神領は慶長十七年七月に二百三十石となり、その後元文元年には神領高五十三石に減じたが、領主領民の厚く崇敬する社で、参拝のたえることはなかった。明治維新後稲荷神社と改称し、村社に列した。明治四十年二月、神饌幣帛供進社に指定された。
境内社として、命婦神社(祭神 倉稲魂神)、御年神社(祭神 大年神、若年神)、神門神社(祭神 櫛磐牖神、豊岩牖神)、貴船神社(祭神 高龗神)がある。※1 鎌倉初期の女官、高階栄子、浄土寺二位・丹二品と称す。後白河法皇に寵せられ、後白河院政の陰の実力者として威を振るい、関東の折衝にも当たった。
※2 高倉・安徳天皇の年号。1177年8月4日~1181年7月14日。
※3 摂津は今の大阪府、兵庫の一部。
※4 大阪市南部の住吉区から堺市北部にまたがる地名。仁徳天皇時代海上の守護神住吉の神を勧請して、墨江または住吉と書き「すみのえ」と称したが、平安時代に「すみよし」と生じた。
※5 後鳥羽・御鳥羽天皇朝の年号。1194年4月11日~1199年4月27日電話番号(0986)23-3442郵便番号885-0013住所都城市郡元四丁目23番地17 -
羽山神社(はやまじんじゃ)
大淀川上流、高木町字中原に鎮座する。由緒不詳であるが、羽山戸神は大年神の御子で、羽山は端山の意で山に功徳あった神。大宜都姫神は伊弉諾、伊弉冉二尊の御子で五穀の主宰神である。
電話番号(0986)38-2255郵便番号885-0002住所都城市太郎坊町1727番地 -
南方神社(みなみかたじんじゃ)都城市
創建不詳なれど高木主水なる者、この地を領した時の氏神として伝える。明治六年十月十二日村社に指定される。
南北朝期に肥後菊池氏の支族高木久家が三俣院にいた。高木主水はこの久家のことか、また日向国造の子諸県牛諸井、その子大建持命は三俣連となり、その子孫に高木氏を名乗るものがいたという。そのいずれかは、はっきりしていない。
十一月二日の夜、都城市郷土芸能指定揚げ馬がある。神の「寄り坐し」とする七歳の稚児を馬に乗せて行列し、祖先の霊や役ずみの作神を鎮め送る神事である。電話番号(0986)38-1682郵便番号885-0003住所都城市高木町4390番地 -
神柱宮(かみばしらぐう)
第六十八代後一条天皇万寿三年(1026)正月二十日、島津荘開拓のため太宰大監平季基来都し館の門柱を大吉山より切り出し五百人で引いたが動かず、千人がかりでようやく引き出した。これを見ていた季基の六歳の娘はにわかに神がかりして「我は伊勢の内宮である。この地にいて人々を護ろうと思う。速に社を建てて祀り、神社の名を神柱神社と称するがよい。もし信じないならば伊勢の国に使いを出せ」といった。そこで季基は使者を遣して伊勢に赴かせた。時に伊勢神宮においても「日向の庄内に我を祭れ」との神託があり、伊勢の神宮より神霊を奉じ、万寿三年九月九日市内梅北町字益貫に創建勧請した。「万寿三年丙寅九月九日大願主平朝臣大監季基」の棟札を有する。季基は荒蕪地を拓いて墾田とし、自らは荘園の管理者として行政の任にあたった。旧藩主始祖島津忠久公以下二十余代都城藩主を始め、島津庄内の総鎮守神社として篤く崇敬され、仁安二年(1167)以降たびたび社殿が造営されたが、永正八年(1511)の火災で旧記宝物類を焼失したという。江戸期の神領は、寛永十年の高帳によると二十六石七斗余が座主房に与えられ、神官に十八石四斗が与えられている。享保十九年(1734)五月十三日神祇管領卜部兼雄宣旨を伝えて正一位の神階を授けられた。明治四年都城県設置に伴い都城総鎮守として、現小松原・元島津藩主別邸へ移転遷座が計画され、都城県廃止後宮崎県これを引継ぎ、明治六年五月県社列格、明治六年十月二十八日移転遷座祭が斎行された。現在、旧社地には黒尾神社が鎮座している。
昭和四十七年小松原遷座百年・御創建九五〇年、昭和天皇陛下御在位五十年記念事業として本殿・透塀・外玉垣・社務所を新改築、本殿は第六十回皇大神宮式年遷宮古殿舎古材下賜を受けた。昭和五十一年別表神社加列される。昭和五十七年三月三十一日神柱宮と社名変更。昭和六十年九月二十五日太宰府天満宮分霊を拝受し、さらに末社創健者平季基の神霊を祭神とする基柱神社を昭和六十年十月二十八日創祀する。○大鳥居
表参道(神柱公園入口)には、昭和五十四年四月に宮崎国体を記念して建立した大鳥居を仰ぎ見ることができる。鉄筋コンクリート造りでは日本一を誇る。電話番号(0986)23-1395郵便番号885-0025住所宮崎県都城市前田町1417番地1 -
乙戸神社(おとどじんじゃ)
祭神不詳であるが郡元の早水神社(祭神髪長姫命)の弟神といい伝える。応永十二年(1405)丙戌三月十九日、北郷讃岐守入道沙弥道端祭祀し奉れるも、その後社頭が川端にあったため、洪水の折、岸を崩し社殿が流失して、志和地村野野美谷崎田の川岸に漂着し、北郷家六代讃岐守義久公(後に敏久公)並び数久公助録施主加治久形部少輔、桃山長久等、延徳二年(1490)庚戌季春再興祭祀した。髪長姫は仁徳天皇の妃となり、弟神は御馬寮の監視となったと伝えられていることから、後世、馬の頭の神として庶民より厚く崇敬された。明治六年一月都城県の際速早水神社へ合祀されたが、同年十月川東村民の請願により復旧許可の上、明治六年十月盛大な遷宮祭を行い、明治七年二月村社となる。
下長飯村士族荒川義文が著わした「地理誌」には「当社は早水神社の御弟神になるが故に、乙戸と社号を称へし由伝えたり。因て三年に一度、御衣替とて、早水神社の古衣を乙戸神社に譲る儀式あり、其は先ず乙戸神社の社人、早水神社に至れば、彼の神社の社人、鬼塚某社殿に上り、替たる古衣を当社の社人に渡す。受け取りて社に帰り、夫れを御神体に着け奉るは、実に御弟神に在はす証明なり。」と見えている。
古くから川東・祝吉・沖水地区の氏神として崇敬され、九月の「相撲祭り」では、赤ちゃんの土俵入りが行われる。電話番号(0986)23-0220郵便番号885-0011住所都城市下川東町三丁目12号2番地 -
小國神社(おぐにじんじゃ)
古老の言によれば、島津領主が四百数十年前に都城市中町の一角に無用な火災を防ぐため、火の守り神である「秋葉神」を祀ったといわれる。昭和十七年五月道路拡張のため現在地に移転遷座したものである。
電話番号(0986)24-2135郵便番号都城市中町2593番地7住所火産霊神(ほむすびのかみ) -
蛭兒神社(ひるこじんじゃ)
古老の言によれば、島津領主が四百数十年前に都城市中町の一角に商売の守り神としてを祀ったといわれる。昭和十七年五月道路拡張のため現在地に移転遷座したものである。
電話番号(0986)23-1395郵便番号885-0071住所都城市中町2698番地 -
八坂神社(やさかじんじゃ)都城市宮丸
当社は元和元年(1615)の勧請にして、鶴丸城廓にあったが、市街地が都城に移された際、現在の上町の一角に阿弥陀堂を建立し、奉祀したと伝える。明治初年の廃仏毀釈の際、当時領主島津家八代の英主仏巌公其の他の位霊礼拝堂だった社殿を、龍峯寺より当時北諸県郡都城町口に移して八坂神社を建設し、古来商売繁盛の神と伝え、毎年旧六月十五日盛大なる祭典を執行する。老若男女の参詣るする者雑踏を極む。その後ご神体紛失の事があり、明治三十三年西川治平氏上京し森田総助氏を介し京都の本社八坂神社よりご分霊を拝領し安置し奉った。大正三年六月十五日神殿拝殿社務所を建設し、同三年七月現在地に移転した。昭和六年十一月都城市宮丸町大字上町無格社小国神社(祭神大国主命)を合祀した。昭和五十一年日豊線都城区鉄道高架事業のために線路側境内地271㎡が用地売収され社殿工作物等配置が不均衡をきし社殿、鳥居、灯籠、手水舎を現在地に移転、さらに本殿・幣殿・拝殿改修銅板葺替・恵比須神社改築、第二鳥居・外玉垣新設造営計画し、昭和五十二年四月着工、同年七月中旬竣工、八月一日遷座祭及び竣工奉祝大祭を斎行した。これに要した経費1,200万円余。
当社の夏祭りは、祇園祭り(おぎおんさあ)として八月二日、三日に行われ、「浜下り」の御神幸が行われる。明治四年以の行事で、手作りの灯籠を奉納して平安を祈願する。電話番号(0986)23-1395郵便番号885-0078住所都城市宮丸町3066番地3 -
旭丘神社(ひのおじんじゃ)
明治四年六月二十八日、明治維新後、都城西口に常備隊練習場設置の際、国家鎮護の武甕槌命、経津主命、楠正成、島津義弘の霊を勧請して軍神として祀ったのが創建と伝える。後明治六年一月、宮丸村岩興神社及び高木・梅北・両村の春日神社を合祀し、名称を旭丘神社に改称した。
当社に合祀されている岩興神社は、伊邪那美命、事解男命、速玉男命を祀り、創立年月日不詳。往古宮丸蔵人がこの地を領したとき宮丸村の氏神として勧請したものである。
梅北の春日神社は和銅年間(708~15)の創建と伝え、高木村の春日神社は創立年月日不詳、武甕槌命、経津主命、天津児屋根命姫神を祀っていた。菅原神社は菅原道真・島津義弘・楠正成を祀り創立年月日は不詳。祭神中楠正成・島津義弘は明治四年軍神社に合祀されていたところ、同六年一月当社に合祀された。当社明治十八年暴風により社殿倒壊したため旭丘神社に合祀された。両前神社は、櫛磐牖神・豊磐牖神を祀り、明治四年六月の創建と伝える。しかし明治十八年暴風により社殿倒壊したため、旭丘神社に合祀された。
また上之別府天神がお祀りされ、痔の神様も合祀された。
「ぐんじんさぁ」の呼び方で親しみ深い神社。電話番号(0986)25-7150郵便番号885-0073住所都城市姫城町13街区6号 -
八坂神社(やさかじんじゃ)都城市西町
西町の守り神として崇敬されている。
旧社名を小国神社と称するが、この「小国」とは豊後国の三重郷のことで、島津氏が豊後のお大友氏を征した際の名残である。
昭和六年七月七日付指令第一四二三号を以て都城市西町無格社小国神社を合祀する。電話番号(0986)23-1395郵便番号885-0076住所都城市西町3713番の1