宮崎県の神社
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霊山「愛宕山」
・愛宕神社
愛宕山はかつて、笠沙岬とか笠沙山と呼ばれていました。古事記上巻神代には「瓊瓊杵尊、笠沙の御前に麗しき美人(おとめ=木花佐久夜毘売)に遇ひたまひき」とあり、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出会われた地である神話が残ります。
愛宕神社は往古は現在の城山に祭られていましたが、慶長年間(1603年)高橋元種が延岡城を築く際、現在の愛宕山の頂上付近にお遷しし、それに伴い旧称の笠沙山から愛宕山と改められました。一時期、恒富神社(現 春日神社)に合祀されましたが、崇敬者のたっての願いで現在地に複社しました。火伏の神様として信仰が篤い神社です。・極天様
山頂は極天様(天空を極める聖地)と称して崇められた霊山で、男坂を設けて国主が直接斎主を務めたため、女人禁制とされていました。今でも奥宮とかごってんさんと呼ばれ参拝者が多く、また徳川家康公のひ孫である日向御前が女人禁制の禁忌を破り登頂した際、奉納した鳥居(笠木部分)が現存しています。・御手洗水神社
極天様の少し下手の鬱蒼と茂った杉林の中に、御手洗水神社があります。かつては霊域(極天様)に参拝する際の清め処でした。現在は水神様としての信仰が非常に篤く参拝者が絶えず、参道には奉納の鳥居が立ち並んでいます。電話番号(0982)-32-2520※春日神社郵便番号882-0871住所延岡市愛宕山6112番地ロ号 -
御年神社(みとしじんじゃ)都城市
創立不詳。明治六年一月都城県の際、安久村興玉神社へ合祀されたが、同年十月豊満村民の請願に依り復旧遷座され、同七年二月村社となった。昭和四十四年に新築工事を行っている。
「日向地誌」の嶠南が調査したのは、それ以後であるが、祭神としては大年神だけをあげている。大年神は大歳神とも書き、御子の御年神とともに五穀守護の神である。
例祭日は子供たちによる棒踊りが約20年続いている。電話番号(0986)39-1134郵便番号885-0043住所都城市豊満町1866番地 -
千足神社(せんだらしじんじゃ)
創立不詳なるも、古くは千多羅寺六所権現または世足志権現と称した。慶長八年(1603)癸卯十一月出火にて、古来の記録等焼失してしまったが、同十三年十一月、藤原(島津)忠能公により再興された。従前安永村五社の一社にして、島津元祖資忠公以来代々厚く崇敬する神社で、旧領主島津家の記録によれば、祭米として八斗七升八合が寄進され、祭田一町十五歩が免地となり、社領高五石五斗九升余を有していた。明治三年三月千足神社と改称、村社となる。
当社には鎌倉期から江戸期の神像三十余体を有しており、その中で男神像三体と女神像一体は県文化財に指定されている。いづれも樟材の一木造りで、全く内剃りを施さず両眼は彫り出しである。彩色はかなりはげ落ちているが、各像の眉や瞳には墨描のあとがあり、男神のひげや女神の髪にも墨色が残っている。
県下には神像の作例は多いが、大方は素朴な作風のもので、この四体のようにしっかりした出来のものは少なく、小像ながら両相の堀り口も端正で体はまとまりのよい安定感を示し、鎌倉時代の制作といわれ、特に女神像の優しい作りは巧みである。電話番号郵便番号885-0222住所都城市美川町6761番地 -
諏訪神社(すわじんじゃ)都城市庄内町
創立文和4年(1355)社殿本殿(流造)9坪、幣殿3坪、拝殿(入母屋造)12坪。第97代後村上天皇の文和元年(1352)12月12日初代都城領主北郷資忠戦功により北郷三百町を賜り、山田町古江に治所を構えた。これより先、薩洲より発する日、島津氏累代尊崇する鹿児島諏訪の社に参詣しその時一つの鎌飛来し公の直衣の袖に入った。公は大いに喜び神意を拝しその鎌を奉持し、文和4年(1355)諏訪の聖地に一宇を建て件の鎌を社殿に納め、家臣石川氏を祠官として諏訪大明神を勧請、7月28日を祭日と定め鎮祭した。以来各代の領主尊崇深く、応安5年(1372)6月1日、社を再興の樟板2枚に上諏訪大明神・下諏訪大明神と記されていた。天文年間には8代領主忠相神馬を奉献、天正11年(1583)7月24日、享保3年(1718)12月20日社を再興した。明治20年11月20日社殿改築に当り島津久家金5円の寄進あり、代々の領主今日に至るも社参奉幣変わりなく崇敬されてきた。明治3年村社に定められ、明治35年12月村社鹿島神社を合祀し、大正13年2月旧社殿朽敗により改築の議を起し、霧島山官有林欅材の払下げを受け、なお社殿を現在の山上に移し、大正14年11月竣工遷座祭を行う。
昭和49年11月28日ご創建620年、ご改築遷座50年式年大祭を斎行するに当り、記念事業として、大修復工事を起し、昭和52年5月神殿銅板葺替並に改修、同53年幣殿拝殿瓦総掛替修理、参道階段改修を行い、翌54年7月第一期工事を完了した。昭和60年3月天皇ご在位60年記念事業として、神社本庁の許可を得、境内林間伐材を以て、新社務所を建設する。電話番号(0986)37-1851郵便番号885-0114住所都城市庄内町12360番地 -
豊幡神社(とよはたじんじゃ)
創立年月日不詳。本殿(流造)4坪、拝殿(流造)12坪、祝詞殿15坪。元旧領主島津家の始祖(資忠、法名:山久院殿日寛道明居士)菩提の為めに創建した山久院の寺院跡である境内に隣接して都城島津資忠夫妻の墓が今尚存在して居る。当社はもと三俣院志和池城内に鎮座し城内八幡と明応9年(1500)12月7代領主北郷数久が安原権現の末社として宮原の現在地に遷座合祀し豊幡神社と改称した。当社全部欅材を用い建造後百余年を経るも今日なお腐朽損害なく厳然と存在する。しかも島津家は代々夏秋の祭典に社参奉幣された。大正10年幣殿、拝殿を建築す。平成3年平成大嘗祭記念事業として幣殿拝殿老朽敗により改築。平成5年皇太子御成婚記念事業として社務所を建築す。
境内には樹齢約600年、幹廻り約5米の榧の大木がある。電話番号(0986)37-1851郵便番号885-0114住所都城市庄内町13933-1 -
科長神社(しながじんじゃ)
当社の勧請は第一一三代東山天皇の御代元禄六年(1693)正月十日と神社明細帳に記されているが、北郷領内神社由緒調・神社改帳には科長神社の名なく、志和地宗廟志和地天満宮はみえ、この天神は第一〇五代後奈良天皇の御代大永八年(1528)四月二十九日馬関田(現えびの市真幸)の天神を北原氏が志和地宗廟鎮守として移し勧請したものである。察するにこの志和地天満宮に科長の大神も合祀されていたのを、明治初年三島通庸が庄内計画の時、志和地天満宮を庄内に遷し、志和地の人々は志和地天満宮に、科長の大神を旧殿舎に科長神社として祀ったものではないか。あるいは天満宮辺りに科長神社が祀られていたかは不明である。
明治十七年志和地と島津家に災厄相次いで起こった。それは志和地天神を神意に背き庄内に遷したためであると祈祷師がいうので、同年志和地水流小学校に庄内より遷し祀り、さらに明治二十五年現科長神社に合祀したと言われる。
末社荒人神社は旧志和地城主白坂下総守兼次の霊を祀る。天文十二年(1543)八月二十日小山川合戦にて戦死した兼次の亡霊怪気があり、人々これを畏れ当社を旧新山寺内に勧請し、荒人神社として祭祀を行ってきたが、社殿破損したので、科長神社の末社として境内に遷し祀り今日に至っている。
現科長神社太鼓は、延宝四年(1676)丙辰四月八日と内側に墨書きされている。なお当社市無形民俗文化財からくり花火(仕掛花火)は、江戸末期の頃より夏の夜を賑わして有名である。電話番号(0986)36-1951郵便番号885-1103住所都城市上水流町1189番地 -
諏訪神社(すわじんじゃ)野々美谷町
明治四年四月旧藩命により北諸県郡安永村(現庄内町)諏訪神社へ合祀したが、明治八年十一月許可を得て同年十一月二十日複社遷宮した。明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
社宝の由緒巻物は天和三年(1683)己戌八月吉日清原信成書写。盆四個径一尺五寸朱書「文明十五年(1481)癸卯三月初八日願主弥友太郎判代」とある。
「日向地誌」によると、野々美谷城墟の領に鎮座し、旧称諏訪大明神と称していたが、明治三年に改称したとある。電話番号(0986)36-1951郵便番号885-1104住所都城市野々美谷町774番地 -
水流神社(つるじんじゃ)
元禄十二年(1699)八月十五日社殿改築、さらに天明二年(1782)寅八月には社殿が再興された。「日向地誌」によると、旧称諏訪大明神といい、明治三年安永村の諏訪神社に合祀されたが、明治十二年九月、地元の請願により複社が認められ、現社名に改称、同年十月、複社遷宮が行われた。同二十二年十月には拝殿を改築、昭和三年ご即位大典記念事業として九月に下水流字南鶴より現鎮座地へ移転改築遷座、昭和十年十一月村社へ列格された。
電話番号(0986)36-1951郵便番号885-1102住所都城市下水流町1637番地 -
王子神社(おうじじんじゃ)
往古より霧島神宮の一の王子と称し、人々の厚く尊敬した神社で、旧称を王子権現といい、明治三年村社になった。同六年一月上水流の科長神社に合祀された。「日向地誌」によると、宮本十介という者の宅地の傍にあり、明治三年遷座して科長神社に合祀したとある。その後、復社の時期は明らかでない。脱漏神社のため昭和二十一年十一月十五日神社本庁より許可を得て今日に至る。
電話番号(0986)36-1951郵便番号885-1101住所都城市岩満町223番地の4 -
黒尾神社(くろおじんじゃ)
本社地は都城市に鎮座せる県社神柱神社の旧社地で明治18年当地より御遷宮し、その跡へ梅北字黒尾に鎮座の社を遷座したのである。永和3年(1377)3月旧領主島津氏久の再興に係る。伊東、相良、北原の3家、薩摩、日向、大隅の城主63人を誘い、北郷讃岐守義久が都城を攻めたので、永和3年3月志布志より救いの軍が来り陣ヶ峯に陣取り西生寺脇坊、井之上坊をして黒尾権現と稱した。
創立年月日不詳。永和3年3月1日藩主島津氏久実実従来仝村字黒尾へ鎮座の処、明治6年10月神柱神社旧社地遷宮(現在地)、明治6年1月12日村社に定め、明治18年暴風の際金御嶽神社社殿破損につき合祀する。史蹟 神柱宮跡
万寿3年(1026)に島津荘開発の祖と伝わる平季基(たいらのすえもと)が、「速に斯地に社を建て祭り、神社の名を神柱と称すべし」という伊勢神宮の神託により、神柱社を梅北村益貫の地に創建したと伝わる。その後島津荘惣鎮守として崇敬を集めた。本殿改築
昭和50年12月 拝殿改修工事
昭和53年3月 本殿末社改築、境内整備を計画
昭和53年8月20日 仮殿遷座祭
昭和53年9月1日 地鎮祭
昭和53年10月13日 上棟祭
昭和53年11月23日 正遷座祭
昭和53年12月17日 竣工奉祝例大祭
本殿を銅板葺流造に要した電話番号(0986)39-1134郵便番号885-0063住所都城市梅北町4013番地 -
早馬神社(はやまじんじゃ)
創立の由来は不詳。
往古より早馬天神と称し、早馬大神(馬頭観音)を祀り、牛馬の神として農民より厚く崇敬されてきた。
「宮崎県史跡調査報告」によれば、延徳三年(1491)十一月「早馬天神御正体垂逑」とあり、また大永八年(1528)二月「早馬天神尊像奉造立」とあり、更に永正十六年(1519)九月、天神宮社造の記事が見えることから、延徳年間に勧請されていたとも考えられる。明治二年早馬神社と改称した。電話番号(0985)39-1134郵便番号885-0063住所都城市梅北町8069番地 -
林田神社(はやしだじんじゃ)
往時当地の豪族であった紀藤氏が、京都の某社の分霊を奉祀し、勧請したと伝える。以来紀藤家代々の崇社とする。旧称熊野三社権現。天文13年(1544)11月の棟札によれば、北郷今平により再興、社地2畝10歩を有したことが記されている。明治6年1月都城県設置の際、下長飯村旭岡神社へ合祀されたが、同年10月金田村民の請願により復旧許可の上同月遷宮、明治7年2月25日村社に列す。大正元年9月神饌幣帛料供進社に指定された。
電話番号(0986)38-2339郵便番号885-0001住所都城市金田町1985番地