宮崎県の神社
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天神社(てんじんじゃ)(小野神社)
勧請年月日は不詳であるが、応仁年間(1467)小野町山内家の祖先神、国常立命を勧請し、鎮祭したものであると言う。このため、今日に至るまで、毎年六月二十三日と十一月二十三日の両祭日にには、主に山内家において祭事を執り行ったと言われている。
明治四年、当社は村社に列せられ、現在では小野町の産土神として、参拝する者が多くなっている。
境内には遺跡が多く、大正五年故鳥居龍蔵博士が発掘したミサキ森古墳の粘土棺、製銅遺跡などとともに、県文化財指定の石造六地蔵幢で知られる。この六地蔵幢は、天神社にあったもので、弘治三年(1557)の銘があり、現在は内藤記念館に移されている。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0882住所延岡市小野町5917番地 -
海童神社(わたつみじんじゃ)
当社は古老の言い伝えによると、明和五年(1768)頃、城主内藤能登守藤原朝臣政陽公が綿津見神外十柱の神々をこの地に勧請され、代々引き継いで祀られてきたもので、地元長浜町の信徒者も共に崇敬し、護持してきた神社である。鎮座地である長浜は、日豊海岸国定公園に属する全長約八㎞の砂浜海岸で、日向の舞子の浜と呼ばれる白砂青松の景勝地である。このような土地に海上安全、漁業繁栄の神をお祀りし、産土神として崇敬されてきたものであろう。
電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0854住所延岡市長浜町1970番地ロ号 -
出北神社(いできたじんじゃ)
勧請年月日は不詳であるが、祭神大己貴命は、古来、大将軍神社と称して、出北村開闢以来産土神として祭祀を行ってきたものと伝えられている。
また祭神菅原道真公は天満宮と尊称して、文明年間出北村寺田家の祖先が小字井の端に勧請し崇敬した社であるが、社殿大破のため寛政十二年(1800)十月八日大将軍神社の相殿に遷座し、相共に産土神として祀り続けてきたのである。
なお、当社は元禄十年(1697)ご神殿を再建し、その後、宝暦八年(1758)本殿を修復している。明治四年別府にあった五代権現を遷座して合祀し、社号も出北神社と改め、村社に列せられた。しかし五代権現は明治十五年復社が認められ再遷座され今日に至っている。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0856住所延岡市出北町三丁目131-2 -
永池神社(ながいけじんじゃ)
当社の所在地は往古永池であったところを埋め上げ、罔象女神を鎮祭し、永池権現と尊称して、恒富村字下出口門信徒者が累代崇敬してきたお社である。
明治維新の際、恒富神社へ合祀されたが、明治十一年再復鎮座の儀を出願して、明治十三年十月六日許可を得て復社すると共に永池神社と社号を改めた。
その復社の際、信徒者より永続基本財産として、郡村宅地並に田地を寄付されている。
昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結に至るまで、延岡市街も度々の空襲に遭遇したが、当社の境内地は神徳により難を逃れており、昭和五十七年には拝殿の改築をなして、現在は春秋の祭礼日等参拝者多く賑わいをみせている。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0843住所延岡市永池町一丁目1番地の7 -
三須神社(みすじんじゃ)
当社は旧称若宮八幡宮と称し、治承三年六月二十五日土持相模守栄綱の勧請と伝え、土持氏の井上城築城の際その鬼門除けに創建したといわれる。
山林境内は東西南北に亘り、約三町四方を寄付されたもので、六月二十五日を小祭、十二月二十五日を大祭と定められ、両度の祭礼は年々欠かすことなく、また領主よりの代参も欠かすことなく行われ、神領高三石一才、神領米三十石の寄付も行われた。
その後、慶長十九年(1614)有馬左衛門尉直純、同康純が御神殿を再建し、天和三年(1683)にも有馬周防守永純が再興し、神領五石を寄進した。
元禄五年(1692)には三浦壱岐守明敬が神領米三石一才を寄付し、寛永八年(1631)に神殿の再興を行っている。その後牧野氏領主となり、牧野備後守貞通は先例に倣い、相次いで社殿の再建や献上米の寄進を行い、次いで明和元年(1764)には内藤能登守政陽がご神殿の修復をするなど歴代領主氏子の篤い崇敬を受けていた。
『日向地誌』によると、誉田別命を祀っていたが、明治四年付近の大将軍社、天神社を遷座合祀して三須神社と改めた。社中に縣領主土持氏の鎧冑一領を納めるとある。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0881住所延岡市三須町648・649番地 -
王代神社(おうだいじんじゃ)
当社は往古より、王代権現と称えて、日吉家の祖先や別府門の人々が産土神と祀ってきた神社で、文化年間には、旧門の住人、吉岡伊之助、同孫右ヱ門、同庄七、同作次郎等が当社の保存無尽を起して、田畑を買い入れ、それを寄付した。
明治四年十一月恒富村々社出北神社の相殿へ合祀されたが、明治十五年四月二十六日復社認可を受け、七月二十八日旧社地へ復社すると共に社号を王代神社と改称したのである。
此の際、氏子中より、神社の永続基本財産として、田畑を奉納し、今日に至るまで、村民の厚い崇敬をあつめてきた御社である。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0861住所延岡市別府町4215番地 -
粟野名神社(あわのみょうじんじゃ)
弘治三年十一月に社殿を造営して、太玉命を祀ったのが創立と言われ、幣太大明神と尊称していた。
寛永五年(1628)十一月、時の延岡城主有馬左衛門佐直純が神殿を改築しており、代々の領主代参し、崇敬篤い神社であった。天保元年(1830)には社殿を焼失したが、崇敬者の熱意により、翌天保二年(1831)には再興したのである。
明治四年十一月神社改正により、字無鹿の大将軍神社、並びに字牧の諏訪大明神を合祀し、社号を粟野名神社と改称して、郷社に列せられた。なお、無鹿の大将軍神社、牧の諏訪大明神は明治十三年一月に旧社地へ復社した。同二十八年には大造営を行い、本殿をはじめ建造物全部改築し、同四十年二月神饌幣帛料供進指定神社となった。
昭和十五年には境内整備を行い、境内周囲に土塁と玉垣を建設して、郷社の面目を保つことができたが、同二十年の大暴風により樹木六十一本の倒木があり、一時荒廃したが戦後、熱心なる崇敬者に労力奉仕や金銭の奉仕をいただき、屋根葺替え等の境内整備や、管理を怠ることなく今日に至っている。電話番号(0982)33-6716郵便番号882-0025住所延岡市粟野名町2184番地 -
大武神社(おおたけじんじゃ)
当社は大永二年八月に創建され、古来、天満宮と称した。宝永五年(1708)12月に類焼し、弘化三年(1846)には社殿造営したことなど伝えられているが、古文書等はない。
明治4年、村社に定められ、大正七年には清高島に鎮座していた八坂神社(祗園社)を合祀して、社号を大武神社と改め、大正十四年九月には神饌幣帛料供神指定神社となった。昭和十六年一月に境内全面両側の宅地五十七坪を購入し、さらに四十九坪の土地の寄進を受け、境内拡張をなして、面目を一新した。
昭和二十年八月、九月の二回の大暴風雨の為、本殿倒壊し、境内樹木三十須本が倒木したが、昭和二十一年八月に本殿新築、祝詞殿拝殿修理の工事を起し、同年十一月竣工して現社殿を建設した。
昭和二十一年九月十六日宗教法人令による宗教法人として設立登記し、昭和二十六年六月十四日境内国有地参百拾八坪六号弐勺の無償譲与移転登記をして、今日に至る。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0024住所延岡市大武町196番地 -
大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)
市の北部を流れる北川の河口右岸に位置する。古くは牟志賀とも書き、天正六年豊後の大友氏が日向へ進攻した際、当地に本宮を置き、社寺を破壊して仮会堂を建設するなど、キリスト教的理想国の建設に着手した地である。また西方の旧国道の頂上は明治十年の西南戦争の激戦地和田越で、野口雨情の歌碑が建っている。
当社は明暦二年九月の勧請と伝えられており、明治四年十一月郷社粟野名神社に合祀されたが、明治十三年十一月復社の許可があり、旧社地へ遷座した。
昭和二十年九月大暴風雨の為、本殿、祝詞殿が倒壊したが、氏子の奉仕により同年十一月復興した。
昭和四十四年七月には荒廃した拝殿の屋根瓦を除去し、着色鉄板に葺き替え、境内整備事業を行い現在に至っている。
当社は特殊信仰があり、二股大根を奉納すると、子供のひきつけ等の病に効があり、子供のつり神様として願掛けする風習を残しており、遠く大分県宇目町や重岡方面、あるいは日之影町や高千穂方面からも願掛け参拝がある。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0021住所延岡市無鹿町二丁目3368番地乙 -
牧神社(まきじんじゃ)
文明元年十一月の勧請で、諏訪大明神と称していた。寛永五年(1628)十一月、時の領主有馬左衛門の時代に社殿を修復し、諏訪春日の両社を勧請合祀、毎年六月二十五日、十一月二十六には祭典がとり行われ、領主の代参があり祭祀料が寄進されていた。
万治二年(1659)には社殿を焼失したが、翌三年には再興された。元禄十四年(1701)六月領主三浦岐守明敬が社殿を改築し、享保元年(1716)八月牧野備後守貞通時代にも社殿が改築された。代々の領主の代参があり、崇敬が深かった。
明治四年十一月、郷社粟野名神社に合祀されたが、明治十三年一月には旧社地へ復社を許され、同年十一月社殿を改築し復社した。
昭和二十年八月、九月の二度にわたる暴風雨襲来のため、社殿傾斜し、十一月に修理したが、その折、境内樹木四十数本が倒木した。
戦後、氏子崇敬者により、境内も整備され、祭祀も厳修されて今日に至っている。
尚、平成十六年十月の台風により、神殿の屋根の部分が損壊、飛散したため、翌六月に同屋根、大床張替、同土台を改修した。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0023住所延岡市牧町4412番地 -
大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)寺島
当社は明暦二年九月の勧請と言われ、二ツ島の内の寺島に鎮座する。明治四年十一月には郷社粟野名神社に合祀されたが、氏子崇敬者の願いにより、明治十三年十一月復社の許可を得て、旧社殿へ遷宮した。
昭和二十年九月の大暴風のため、本殿、祝詞殿が倒壊したが、氏子の奉仕により、同年十一月に修理復興した。
昭和二十一年九月十六日宗教法人令により宗教法人として設立登記をなし、今日に至る。電話番号(0982)33-6716郵便番号882-0022住所延岡市二ッ島町9749番地 -
熊野神社(くまのじんじゃ)延岡市
本社は元正天皇の御宇、霊亀二年(716)沙門正覚が紀伊国玉置山より熊野三尊の分霊と称する神鏡三面を捧持し、四海安穏万性安楽を折らんがため諸国を行脚中、養老二年(718)当地に来り須佐山に露宿をした。その時夢に三尊が姿を現わし、「吾爰に鎮座せん」と申された。夢から覚めて神鏡を動かせども微動だにしない。よって此に衆生のために神縁を結び、鶏頭山長岡寺を創建し、神鏡を奉安して熊野三社大権現と尊称した。
桓武天皇の朝延暦五年(786)沙門信宥が来りて住し堂宇を大に興した。光孝天皇仁和三年(887)七月地震により社殿倒壊したが、寛平四年社殿再建された。のち高倉天皇の治承年間、土持氏田部栄網が再建、二十七代土持弾正は社領八十石を寄進した。後土御門天皇御宇文明十七年(1483)己巳、伊東修理亮領内を侵したために祭祀も衰頽した。天正五年(1577)社殿寺院共に兵火を罹り、文禄元壬辰年(1592)大蔵朝臣高橋元種再興、更に慶長十三年(1608)寅有馬左衛門尉直純再興、元禄十三己卯年(1700)三浦壱岐守再興、延享四卯年(1747)内藤右京亮政修補修、寛政元己酉年(1789)六月社殿再興し、爾来領主並びに領民の篤く崇敬する社寺であった。明治四年十一月川島神社へ合祀されたが、同十四年九月氏子の復社請願が許可となった。
明治二年別当寺職還俗して玉置須計と改め、正覚より五十二代永続して本社は尚今日に及び隆盛である。特殊神事『歳頂火(せとき)』
1280年の伝統を持つ熊野神社の歳頂火は、旧暦の一年の最後の日(1月14日)の夜、一年間の罪や穢れを焼き払い、新しい年小正月(1月15日)を迎える火祭りです。
一週間前に大きな生木を切り出し、高さ4㍍程の井型に積み上げる。当日午後7時に宮司が御神火を奉じて点火する。夜空を焦がす真っ赤な炎を高さ十数㍍に達し、吹き上げる火炎と周囲に降り注ぐ火の粉は壮観である。
この祭は一年も欠かしたことがなく、また周囲の山や人家に燃え移ったこともない。この火にあたると病気をしないといわれており、参拝者は餅を長い竹竿の先に付けて焼いて食べる。この木が燃え残ると作物が不作で、燃え尽くすと豊作とも占われる。それで消防団員は夜を徹して残らないように燃やす。
現在は旧暦の1月14日に近い土曜日の夜に執り行われている。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0011住所延岡市須佐町5357番地