宮崎県の神社
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川島神社(かわしまじんじゃ)
当社は紀伊国那智大権現のご分霊を勧請したもので、旧称那智権現と言う。山名に那智の滝があり懸崖十数丈に及び遊所に適した所である。
大友宗麟の兵火後、延岡領主三浦壱岐守が再興し、毎年五月十三日と九月十三日の両度祭祀料の供進があった。その後牧野備後守の時に至り前領主の恒例を取り、また内藤備後守が領有するようになり厚く尊崇し、寛延二己巳年(1749)社殿再建、祭時には領主の代参等があった。明治四年十一月他の神社を合祀して現在の社名となり、明治四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。境内神社として大将軍神社(祭神、岩長姫命)がある。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0017住所延岡市川島町1453番地1 -
大歳神社(おおとしじんじゃ)
延岡市北部を流れる北川河口の三角州にある水田地帯二ツ島町恋島に鎮座する神社で、大歳神を奉祀する。大歳神(大年神)は素盞鳴尊の御子神であり、稲作・五穀豊穣の守護神として、また家内安全、家運繁栄の神として広く崇敬されていることから、当地においても産土神として厚く崇敬されてきたものと思われる。
電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0022住所延岡市二ツ島町8764番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)
当社の創建は不詳であるが、棟札によれば寛永十七年(1640)十月の記録があることから、それ以前の創建と思われる。宝永年間(1704~1711)字山脇の里に遷座され、宝暦十三年癸未(1763)十月五日には、延岡城主内藤能登守政陽再興の記録があり、領主領民の厚く尊崇する社であった。
明治維新の際、旧藩制度の廃止にともない明治四年十一月村社川島神社へ合祀されたが、明治十一年九月氏子一同該社再復鎮座出願をし、同十四年九月二十八日許可となる。
当社は、境内が低地であったため、洪水の度に浸水となり、特に夏の祭には氏子の参拝も難をきわめた。また周辺の民家が殆ど社殿より高地にあり「社殿を見下ろすことになり不敬にあたる。何処か適地に移転しては。」との声が高まり、昭和十年現在地に移転遷座した。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0002住所宮崎県延岡市差木野町5782-2 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)
稲葉崎、粟野名、祝子、三須など各地に点在する円墳、横穴などが延岡古墳として県史蹟に指定されており、円墳の大半には神社や祠堂が立っている。当社も前方後円の古墳の上に、社殿を後円部に置き、前方部を参道として祀られている。車塚の形で、この古墳は県北最大のものという。
創建年月日は不詳、明治四年神社改正の際、旧社号正一位天満宮を菅原神社と改称し昭和三年十一月十三日には村社に列せられた。
昭和五十九年九月二十六日夕刻、幼児の火遊びの為、古来の社殿を焼失したが、不思議にも御神体は火難を逃れられたこともあって、氏子崇敬者の敬神の念、さらに深くなり、翌昭和六十年再興に着手し、一年余の歳月をかけ新しい現社殿を建設した。
昭和六十年十二月二日遷座祭、十二月五日落成奉祝祭を執行し、栄えある社殿を仰いだ。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0003住所延岡市稲葉崎町1802番地 -
今山八幡宮(いまやまはちまんぐう)
延岡市の中心部、市街地を一望する今山の山上に鎮座する。
当宮は孝謙天皇の御宇、天平勝宝二年、豊前国宇佐八幡宮を蓬莱山辰巳の尾上に社地を構えて勧請したもので、国司、郡司の崇敬最も深く、天平宝字二年(758)社領を加増されてから、当山は最も隆盛を極めたので、今盛んなる山、と言うので、今山と呼び、社号を今山八幡宮と称した。古代、臼杵郡内には、宇佐八幡宮に奉仕する神戸が六十戸あり、神戸の民のよりどころとして今山八幡宮が勧請されたのであろう。神戸の存在が、日向国に宇佐神領が設定される端緒になったという。
長承元年(一一三二)類焼、治承四年(一一八〇)には時の領主土持栄綱が宇佐神宮に準じて社殿を再建、とあり、以来、歴代の領主土持、有馬、三浦、牧野の諸氏相継いで崇敬し、社領の寄進、社殿の修築等を行っている。
寛喜二年(一二三〇)の火災や、正平元年(一三四六)肥後の菊池氏、天正六年(一五七八)豊後の大友氏等の兵乱により、その戦火の為、社殿、宝物、書物等が焼失してしまったのであるが、代々の領主の祈願所であったので復旧も他より早く行われたと言われており、内藤家に至っては延岡領内守護の神社として、最も崇敬篤く、造営はもとより、神事能の奉納等が常例となっていた。
明治四年岡富村内の小社を合併して郷社に列せられ、岡富神社と改称、さらに明治三十四年八月に今山八幡神社と改め、同三十四年に県社に列せられた。昭和四十九年、本殿拝殿等の造営事業竣工を機に、当初の今山八幡宮に社号を改称した。
城山にある内藤記念館には、明歴二年(1656)藩主有馬康純が当社に寄進したという梵鐘が保存されており、その地名に延岡が刻されている。これが延岡の名を記録した最古のものではないかとみられている。
今、延岡市はもとより、近郷近在、大分県、熊本県からも祈願の為、参詣多く、県北第一の大社として、広い尊崇の念を集めている。
特殊神事としては、水無月の大祓式がある。これは六月晦日五ヶ瀬川の岸辺に参集し、氏子崇敬者層参加による流し火行事で、各自、家庭の人数ほどのローソクに火を点けて形代と共に川から海へ流す祭礼行事である。
また、南正参道入り口にある末社今山恵比寿神社の祭礼「延岡十日えびす」は従来旧正月十日に行われていたが、現在では新暦二月十日に行われており、夜賑わう祭で、露天商の灯りに福笹が浮び、数万人の人垣が揺れ動き、九州三大えびすの一つといわれ、また、日向之国七福神の恵比寿神にて、遠方から福を求めて参詣社が多く独特の雰囲気のある祭りである。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0055住所延岡市山下町一丁目3875 -
鯛名神社(たいなじんじゃ)
元正天皇の御宇に勧請されたもので、当時より国常立之神、豊斟渟之神、大物主之神を祀って、比叡大明神と称してきた。
当時鯛名の産土大神と尊崇し、祭祀を行い造営等も執行して護持してきた社であって、明治四年神社改正の際、当地字汐汲の稲荷神社(祭神・倉稲魂神、大宮姫神、大田之神)、同字迫頭の金山神社(祭神・金山彦之神)、同字南山の恵比須神社(祭神・蛭児之神、事代主之神、大己貴之神)等を合祀し、同年十二月二十三日旧来の社号であった比叡大明神を鯛名神社と改めて、村社に列せられ今日に至っている。以前の社殿は、建立以来117年の歴史を刻み、その間台風、白蟻、更に老朽化等で危険な状態となり、平成九年八月十七日の当町臨時総会に於いて、総意により神社建設を議決、延岡市内各企業、当町出身者及び各世帯より、奉賛金のご協力をいただいた。
電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0516住所延岡市鯛名町337-ロ -
櫛津神社(くしつじんじゃ)
もと天神宮と称して往昔より当地櫛津の産土大神と尊崇され、祭祀、造営等が行われてきた。
明治四年神社改正の際、櫛津エンセキ山鎮座の天神社(祭神 天槵津大来目神)を十二月朔日に合祀して、旧来の天神宮の社号を櫛津神社と改め、村社に列せられた。
更に、明治四十年十二月九日には神饌幣帛料供進神社に指定され、今日に至っている。
『日向地誌』によると、櫛津神社として櫛津の海浜にあり、彦火瓊々杵尊を祭るとある。天槵津大来目神は『日本書紀』の一書などにより、天孫降臨の際天忍日命とともに先駆をなした武神である。大久米命ともいい、久米部の大祖神である。電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0514住所延岡市櫛津町3515番地のイ号 -
赤水神社(あかみずじんじゃ)
市の南部、西から日向灘に突出している遠見山北半島の岸にあり、日向灘を見下ろす丘上に鎮座する。
往古より祭神菅原道真公を奉斎して、天満宮と称し、赤水の産土大神と尊崇されてきた。
明治四年神社改正の際、大化二年(646)勧請と伝える本屋敷の恵比須神社を同年十二月二十三日に合祀して、旧来の社号天満宮を赤水神社と改称し、村社に列せられ今日に至っている。電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0517住所延岡市赤水町530番地の2 -
上伊福形神社(かみいがたじんじゃ)
孝謙天皇の御宇、領主土持日向守の時に勧請したもので丹生大明神と称した。
往古より、上伊福形の産土大神と崇敬し、祭祀、造営等奉仕して護持してきたもので、明治四年神社改正の際、旧藩の制度に従って翌五年三月同村字大村ノ前の日枝神社(祭神、大山祇之神)、同村字石田の蛭児神社(祭神、蛭児之神)、同村字受ノ内の八幡神社(祭神、品陀和気之神)、同村字林の天神社(祭神、菅原道真公)、同村字阿座美の鴟尾権現(祭神、惟治公霊神)、同村字白石の炎尾神社(祭神、彦火々出見神)等を合祀して、丹生大明神の社号を上伊福形神社と改称し、村社に列せられた。明治四十年二月九日神饌幣帛料供進神社に指定される。
なお、白石炎尾神社は明治十三年十二月二十三日付にて復社の許可を得て、旧社地に復社し、無格社炎尾神社として独立したが、明治四十一年十月五日付けにて、再び合祀の許可を受け、再度本社に合祀されたものである。電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0502住所延岡市上伊形町892番地 -
下伊福形神社(しもいがたじんじゃ)
治承三年(1179)、高倉天皇の御宇、領主土持相模守田部栄綱公の時勧請したもので、当村字無田に鎮座して、大将軍社と称していた。
往古より、下伊福形の産土大神と尊崇して、祭祀や造営等怠ることなく仕えてきたのであるが、嘉永四年(1851)三月社殿を焼失し、安政四年(1857)九月二十八日現在の地に新築し、正遷座を行った。
明治四年三月四柱神社と改称し、明治五年三月、同村字菖蒲田の大年神社(祭神、大年之神)、同村字小ヶ倉の日枝神社(祭神、大山祇神)、同村字無田の霧島神社(祭神、彦火火出見神)、同村字一ヶ岡の水神社(祭神、罔象女之神)等を合祀して、四柱神社の社号を下伊福形神社と改称し、村社に列せられ、明治四十年二月九日には神饌幣帛料供進指定社に定められた。
なお一ヶ岡水神社は明治十三年十二月二十三日付にて復社の許可を得、旧社地に遷座し、無格社水神社と称して独立していたが、明治四十一年七月二十八日に再び許可を受けて、再度、本社に合祀したものである。
昭和四十七年には、開けゆく氏子区域にあって神社も造営され、大規模住宅団地の新しい氏子と共に、新しい形態の祭りも執行されて発展していたが、昭和六十年二月二十八日子供の火遊びのため炎上、本殿、拝殿を焼失した。
現在の社殿は昭和六十二年十一月二十三日竣工。電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0505住所延岡市北一ヶ岡四丁目4番地129 -
霧島神社(きりしまじんじゃ)延岡市
元霧島三所大明神と称して、古来、土々呂の産土大神と崇敬し、祭祀、造営等を氏子崇敬者が奉仕してきた。
明治四年神社改正の際、同所城山の今宮八幡神社(祭神、品陀和気神)を明治五年三月七日に合祀し、古来の霧島三所大明神の社号を霧島神社と改称して、村社に列せられた。
後に今宮八幡神社は明治十四年九月十九日復社の許可を得て旧地に遷座し、無格社今宮八幡神社と号して独立した処、再び明治四十一年四月十五日付にて合祀の許可を受けて、本社に合祀した。
昭和三年十月十六日付にて神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和四十二年には造営事業が行われ、新社殿の竣工をみて、いよいよ社頭も賑わい、祭礼行事も盛儀化している。電話番号(0982)37-0041郵便番号889-0513住所延岡市土々呂町五丁目706番地の2 -
春日神社(かすがじんじゃ)延岡市
当社の御祭神、天児屋根命、武甕槌命、斎主命(経津主命)、姫大神は、日本国の成り立ちに深く関わられ、瓊々杵尊が、日向の国高千穂久志布流峰に天下り給いし時の随身、英傑の神々であり、上古よりこの地に斎い奉りて、荒瀬宮と申し上げていました。
今から千三百年ほど前の養老二年十一月二十五日に当国守護大神大納言惟資(これすけ)が神殿を建立し春日大明神と尊び敬って名付け、この後の領主 土持・高橋・有馬・三浦・牧野・内藤の歴代各藩主は、篤い尊崇の念を持って多くの寄進を惜しまず、領民達もこぞって参詣しました。
廃藩後の明治四年七月、社号が「恒富神社」と改称されましたが、氏子の熱望により昭和四十三年、古来の社名「春日神社」に復元し、「春日さん」と親しまれながら現在に至っております。
社殿の両側に天高くそびえる楠のご神木は、向かって右側のものが幹回り十メートルを超え宮崎県下七番目、左側のものが八,五メートルで十八番めの巨樹です。いずれも樹齢九百年にも及ばんとし、六十余種の樹木と共に、みごとな神奈備の杜を形成しています。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0836住所延岡市恒富町四丁目207番地