宮崎県の神社
-
下舞野神社(しもまいのじんじゃ)
本社の社地は人皇十二代景行天皇の皇子、日本武尊が川上梟師ご征討の際、駐輦された所とも言い伝えられており、その時、行縢山箭筈の滝をご覧になられての御歌に、「布引の箭筈の滝を射てみれば、川上梟師落ちて流るる」とある、斯く詠まれた所を歌の原と言い、川上梟師を討ち、勝利を得て、お祝いに天神地祇八百万の神を祀って、神楽を奏し、舞を舞われた所を舞野邑と言った。
この皇子を導き案内し、神祭に奉仕した者の子孫と言い伝えている家が六家あり、今でも大祭には古例により特に御膳、御酒を献備している。
この日本武尊が駐在された所に社殿を設け尊を勧請し、武宮と称し、中世以降は嶽宮と称した。
明治四年、
今宮神社(祭神 足仲彦命 息長足姫命 誉田別命)
年神社(祭神 大年神)
八幡神社(祭神 足仲彦命 息長足姫命 誉田別命)
稲荷神社(祭神 倉稲魂命 大己貴命 大田命 大安姫命 保食神)
天満神社(祭神 菅原道真公)
猿田彦神社(祭神 猿田彦命)
大日霊貴神社(祭神 大日霊貴命)
天御中主神社(祭神 天御中主命)
を合祀して下舞野神社と改称し、翌五年十一月村社に列せられた。
地内には縄文、弥生時代などの石器や土器の散布が多く、国史跡の南方古墳群の一部が散在する。電話番号(0982)39-0219郵便番号882-0066住所延岡市舞野町2672番地 -
行縢神社(むかばきじんじゃ)
元正天皇の御宇、養老二年四月十五日に紀州の熊野権現を勧請したもので、行縢山三所大権現と称して、伊弉冉命、事解男命、速玉男命の三座を祭神としていた。
県領主土持氏歴代の祈願所で篤く信仰された。永仁二年(1294)四月八日付の平某補任状以下別当職に関する数通の古文書が残っており、正和三年(1341)に静全から別当職を譲られた慶全が、元弘三年(1333)熊野参詣のために別当の代行を願っている。(『県史蹟調査第七輯』)
当時、別当、神主、下社家が奉仕しており、別当の住寺を行縢山大日寺と称し、多くの末寺を有していたもので、今でも行縢山中にその跡が点在しており、社領は行縢山の箭筈(矢筈とも書く)の滝を背に広大にして景勝の地である。
天正九年(1581)領主土持家と豊後府内の城主大友家との戦乱に、土持親成が行縢山を本拠として戦ったため、社域も戦場と化して、神殿、堂宇は悉く戦火のため炎上し、焦土となった。以後、社運はとみに衰退し、別当もこの地に去り、専ら神職奉仕の神社となった。歴代領主の尊崇篤く、延岡藩主有馬直純は社領米二十石を寄進したが、三浦氏になり十石に減じた。しかし、その後、内藤家に至る代々の領主の祈願所となり、大祭には直参、代参の制もあり、年二回領内へ祈祷の璽を頒布し、社殿の造営等も領主が行い、宝暦二年(1752)には内藤政樹が、宝暦九年(1759)には内藤政陽が造営したことが棟札によって知られる。
明治四年神社改正の際には村内鎮座の小社である山神社(祭神 大山祇命)外二十三社の祭神を本社に合祀し、同五年郷社に列せられた。
当社所蔵の鉄鰐口一口は、慶長十年(1605)延岡初代藩主高橋統種(元種)息女寄進の銘があり、径四十七㌢総厚十八、五㌢撞座の径十三、六㌢で、銘文から日向地方の作と推定され、昭和四十年県文化財に指定されている。鰐口とは仏堂前の軒下につるし、参詣者が綱を振って鳴らす扁円、中空の金具で、下方に横長い口があり、金鼓ともいう。明治元年の神仏分離の布告で、仏像、梵鐘などとともに神社に置くことを禁止されたものである。
本社の鎮座する行縢山(標高八三〇㍍)及び瀑布は奥の院と称する神体山で、幽厳壮大なる山岳美を現し、向かって左側を雄岳と言い、右側を雌岳を称して、其の中央の瀑布を箭筈滝(幅二〇㍍高さ100㍍)と言う。
景行天皇の御宇、皇子日本武命が熊襲の将、川上梟師征討の伝説地であって、皇子、駕を舞野の里に駐めて、この山をご覧になり、その形状が行縢(向脛にはく意で、鹿、熊などの毛皮でつくり、腰から脚にかけておおいとしたもの。奈良時代から変遷はあるが、平安末期からは武士が騎馬の際着用した。)に似ているので行縢山と言い、其の滝を箭筈と言って、歌われた歌は「布引の箭筈の滝を射てみれば、川上梟師落ちて流るる」と、いまも延岡地方の神楽歌として用いられている。また源氏、平家の時代、鎮西八郎源為朝は九州平定の際、本社に参籠し、武運長久を祈願して社領三〇〇貫を寄進したと言われ、社域に為朝腰掛け石が保存されている。
昨今、登山者多く、社頭も老若男女で賑わっている。電話番号(0982)39-0219郵便番号882-0077住所延岡市行縢町748番地ロ号 -
安賀多神社(あがたじんじゃ)
養老元年(西暦717年)今山の地に勧請され、神明宮と称した。天正5年(1577年)大友氏挙兵の際、その兵火に遭い焼失したが、寛永元年(1624年)時の領主有馬氏により当地に再興された。
天照皇大神を主祭神として、他に手力雄命、萬幡姫命、伊弉諾命、埴安姫命、月読命、志那津彦命の6柱を祀り、県北唯一の神明造の本殿を有する。又、日照山神事能の始まりの地でもある。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0063住所延岡市古川町327番地 -
東海神社(とうみじんじゃ)
市の北東部、東海山の南西麓に当たる所で、南は日向灘に面し、西は、西は北川と延岡港に面する。当社は地内部の延岡港を見下ろす丘下に鎮座する。
慶長二十年六月二十五日、領主有馬左衛門佐直純が、豊後の国海部郡佐賀関に鎮座している速吸日女神社のご分霊を勧請して、住吉大明神、または関権現と称し、海上安全守護の神と尊崇した。
歴代領主参勤交代する際に当社の祠官を同船させて航海の安穏を祈願したもので、元禄十年(1697)には後の領主三浦壱岐守は住吉大神を勧請して合祀、以後祭典費その他一切領主より寄進されていた。
明治初年には速吸日女神社と改称していたが、明治四年近くに鎮座していた住吉大明神、稲荷大明神、恵比須神、弁財天宮及び寺島に鎮座していた大将軍神社を遷座合祀して、明治五年社名を東海神社と改め、明治四十年二月には神饌幣帛料供進指定の村社となった。電話番号(0982)33-6716郵便番号882-0016住所延岡市東海町102番地 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)
勧請年月日不詳、明治四年村社小山神社へ合祀されていたが、明治十五年四月二十七日復社許可を得て、佐野の旧社地へ復社した。
祭神も伝説によると、狭野の命ではなかったかと伝えている。電話番号(0982)33-6716郵便番号住所延岡市佐野町2029番地 -
小山神社(こやまじんじゃ)
本社は元正天皇の養老二年(718)九月九日に大神惟資が紀州熊野権現のご分霊を勧請したものと伝えられ、社号を熊野権現と称し、後に祝子大権現、あるいは祝子熊野大権現、熊野大神社等と称してきた。
寛永二乙酉年(1625)四月五日、時の領主三浦壱岐守社殿を修復し、御供米を寄進せられ、以後歴代領主篤く尊崇し、祭典には代参するのが恒例となっていた。
明治四年神社改正により、
字桑平の天満神社(祭神、菅原道真公)
字社ヶ原の天満神社(祭神、菅原道真公)
字蛇谷の天満神社(祭神、菅原道真公)
字妙の天満神社(祭神、菅原道真公)
字大野の若宮神社(祭神、品陀別命)
字佐野の年神社(祭神、大年神)
字佐野の水神社(祭神、罔象女命)
字上ノ原の稲荷神社(祭神、倉稲魂命)
字上ノ原の荒神社(祭神、火産霊神)
字上ノ原の産ノ宮神社(祭神、木花咲耶姫命)
を合祀し、社号も小山神社と改め、村社に列せられた。電話番号(0982)33-6716郵便番号882-0006住所延岡市尾崎町4365番地 -
亀井神社(かめいじんじゃ)
慶長十九年九月二十五日、時の城主有馬左衛門佐直純公が勧請したもので、旧天満神社と称し。祭神菅原道真公を延岡城内鎮守として祀ったと伝える。
有馬氏移封後三浦壱岐守政敬の代に元禄五壬申年(1692)十一月二十五日再興、その後内藤氏延岡藩主となり、内藤家長、内藤元長の両神を享和元年(1801)十一月十日霊神勧請した。嘉永二年(1849)五月十日明神号を宣旨され、同年同月十三日大明神号を宣旨された神である。
倉稲魂命は勧請年月日不詳で、ただ往古より祀るとある。
明治五年、この三神を天満神社に合祀して、社号を亀井神社と改称し、社格は郷社と定められ、明治四十年二月九日神饌幣帛料供進指定神社となる。昭和二十年六月二十九日の延岡大空襲で貴重な資料や社殿が灰燼に帰したが、戦後内藤家や市民有志の協力を得て、今日の社殿が再建された。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0811住所延岡市天神小路292番地 -
大野神社(おおのじんじゃ)
勧請年月日は不詳であるが、古来より氏子崇敬者が祭祀、造営等を厳修しており今日に至っている。
○明治三年 村社小山神社に合祀される
○明治十四年七月二十二日 旧社地へ複社許可
○明治三十八年十月三日 境内末社若宮神社の合祀も許可
なお、祭神応神天皇の合祀も明治三十九年五月二十八日追加許可され、以後、今日まで祭儀も続けられている。電話番号(0982)34-4645郵便番号882-0086住所延岡市大野町1354番地のロ -
方財神社(ほうざいじんじゃ)
市の中心部を流れる五ヶ瀬川が日向灘にそそぐ河口方財島に鎮座する。
創立年月日は不詳であるが、享保六辛丑年(1721)八月二十一日、安永八己亥年(1779)九月二十五日の棟札を有することから(『宮崎県史蹟調査』)、それ以前の創建と思われる。元は大将軍神社と称して、往古より、方財島の産土神社と尊崇され、島民の厚い信仰に支えられて、祭祀、造営を行って護持されてきた。明治維新の神社合祀で、明治四年同島に鎮座していた稲荷神社(祭神、事代主命、倉稲魂命)、川口神社(祭神、平定霊神、少童命、隈隠霊神)を当社の境内に移して、社号を方財神社と改め、村社に列せられた。
戦後の苦難の時代も、氏子である漁民の篤い信仰に支えられて、度々の改修や境内整備が行われ、今日では海上渡御のご神幸祭などが復活し賑々しく行われており、祭典は厳然として護持されている。電話番号(0982)21-4525郵便番号882-0853住所延岡市方財町167番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)
創立年月日不詳といえども数百年前の創立と伝えている。
維新の際旧藩制度の廃止にともない、明治四年十一月村社川島神社へ合祀された。明治十一年九月氏子一同が再復鎮座の出願し、明治十四年九月許可され、現在にいたるまで祀り続けられている。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0012住所延岡市鹿小路町1041番地 -
竹谷神社(たけだにじんじゃ)
市の北部を南流する北川の西岸の町で、町名のように北は可愛岳、南は長尾山に挟まれた大きい峡谷に位置し、当社は西部の深い谷間に鎮座する。
昭和八年(1771)の創立にして由緒は次のように伝えている。
当時、大峡村に長左ヱ門という農民がり、長い間病に苦しみ、神明に祈願していたところ、ある夜霊夢に白髪の翁が立った。汝は正直で慈善であり、敬神の念が篤いが、いま病に苦しむのは禍津神のためである。自分は皇孫邇々杵尊である。私の骨を納めたのは此の可愛岳の麓で、谷の上に竹が繁っているところに六尺ほどの大石がある、この石を立て祈願すれば、病はたちまち平癒しようと告げ、光とともにご神体の翁が消えたという。
霊夢からさめ、夜が明けるのを待ちかねて山を尋ねると、竹の繁るところに大石があり、再拝して石に手をかけた途端、大石は自ら立ったという。長左ヱ門恐れをなし平癒を祈願すれば、身心たちまち全快した。この神慮に村民大いに驚き、これを伝え聞いた遠近の老若男女、昼夜参詣するもの幾万となり、邇々杵尊の霊蹟と称えたという。
特に領主の崇敬篤く毎月参詣したため、仮屋ができ、また参道にも八軒茶屋という地名が残っている。
明治四年十一月村社川島神社へ合祀されたが、明治十一年九月、氏子一同該社再復鎮座出願し、明治十五年二月十五日許可となる。
『日向地誌』には「竹谷神社趾」として三岩並び峙つ云々とある。当社は高さ1.8㍍の立石一基、1.5㍍の立石二基を祀り、考古学者故鳥居龍蔵博士はこの石をメンヒル(立石)と断定した。電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0001住所延岡市大峡町7967番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)
創立年月日不詳であるが数百年前の創立と伝える。北川が延岡港に注ぐ河口水尻町の山丘に、延岡港を見下ろすように鎮座し、産土神として崇敬されてきた。明治三年東海神社に合祀されたが、同十一年九月氏子一統の請願により、同十四年十月復社が許可となり現在に至っている。
電話番号(0982)36-0433郵便番号882-0015住所延岡市水尻町250番地-3