宮崎県の神社
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庵川神社(いおりがわじんじゃ)
後村上天皇の御宇、貞和三年(1347)十一月六日の勧請であって、古老の説として伝えるところによると、当地に旱魃と不漁が続き、村人の生活は困窮し、荒廃甚だしく、人心の不安が募ったとき、村人挙って天満宮を祈念勧請し、御神徳を拝戴した、と伝えられている社である。
明治三年十一月八幡神社他四社を合祀して現在の名に改めた。
昭和二十八年四月二十四日宗教法人設立登記をした。電話番号(0982)63-1747郵便番号889-0602住所東臼杵郡門川町大字庵川2565番地 -
加草神社(かくさじんじゃ)
当社は別名若一王子神社、または熊野大神社と称して、加草江田の城主草野大膳弘利が勧請したと伝える。
神領は付置されて、祭礼は賑々しく行われていたが、天正年間の九州大乱の時、草野家出火と共に縁起、系図、宝物類は悉く焼失した。
明治三年十一月葛城神社他五社を合祀して現在の社名に改めた。
昭和二十八年四月二十四日宗教法人設立登記をした。電話番号(0982)63-1747郵便番号889-0603住所東臼杵郡門川町大字加草2939番地 -
川内神社(かわちじんじゃ)
当社の祭神伊邪那美神、事解男神、速玉男神、磐長姫神、久々能智神の五座は大永3年藤原和歌介丹直重が平家の氏神である熊野三所大権現を紀州より勧請したもので、元熊野大権現と称していたが、明治三年一村一社の令により、川内村総氏神である大将軍神社(大己貴神を祀り、寬永三年再興)、貝木滝大権現(罔象女神を祭る。雨乞いの霊験で識られ、古来近郷の遵崇厚い社である)及び十数社を合祀して、川内神社と社号を改称し、昨今は川内総氏神社となっている。
電話番号(0982)63-3479郵便番号889-0604住所東臼杵郡門川町大字川内4951番地 -
眞中神社(まなかじんじゃ)
勧請年月日は不詳であるが、享保九甲辰年(1724)十月十二日には志田源兵衛が現地に建立しており、もと妙見大明神と称して、特に眼病平癒の神として、近郷地方の人々の崇敬篤く、遠近の参拝者が多い。
古来十月申の日を祭日としており、本社の神主は神祇管領長侍従職より任命された。
明治三年村社小松神社に合祀されていたが、村民が祭典料として田一反七畝二十八歩を寄進し、崇敬者より復社を出願したところ、明治十三年九月十三日復社して今日に至っている。電話番号(0982)63-3479郵便番号889-0604住所東臼杵郡門川町大字川内6834番地1 -
小松神社(こまつじんじゃ)
永禄二年十一月七日に勧請したもので、もと若宮大明神と称していたが、明治四年、字大池中ノ内の天満神社外五社を合祀して、小松神社と社号を改め、明治五年に村社に列せられた。
当社の東方にある村の中には、県の天然記念物に指定された門川のキンモクセイや、文永四丁卯年三月銘の板碑や巨大な五輪塔数基を有する墓地がある。電話番号(0982)63-3479郵便番号889-0604住所東臼杵郡門川町大字川内7131番地1 -
三箇瀬神社(さんかせじんじゃ)
本社は長享二年(1488)七月七日の勧請で、旧若宮大明神と称していた。明治四年、字市ノ原の若宮大明神(祭神 少彦名神他)を合祀して、三箇瀬神社と改称し、明治五年村社に列せられた。
電話番号(0982)63-5754郵便番号889-0604住所東臼杵郡門川町大字川内1280番地 -
潤島神社(うるしまじんじゃ)
康正元年(1455)の勧請と云われ、明治四年一村一社の制により、郷社門川神社へ合祀されていたが、明治十三年十二月二十五日復社の許可があり、旧社地へ復社した。しかし道路狭隘のため不便であり、管理上支障も考えられることから、崇敬者協議の上、同村小字萩の下八〇一番地の山林を選定した。
この選定した山林は、往時社地を此処に予定したこともあり、位置が高く、参詣、管理等の便利も良いため、最適地として、明治二十六年五月一日小字萩の下へ移転認可を申請し、同年五月二十三日移転許可を得て、造営に着手し、同二十七年一月二十日社殿落成し、二月十七日本殿遷座を行い、以後広く厚い崇敬の心で護持運営し、今日に至っている。電話番号(0982)63-3479郵便番号883-0611住所東臼杵郡門川町大字門川尾末801番地ノ2 -
八坂神社(やさかじんじゃ)門川町
旧祇園神社と称して、楠木をご神体として勧請したと伝えられており、宝徳元年に社殿を建立し、村中篤く崇敬してきたもので、明治四年一村一社の制により、郷社門川神社へ合祀されていたが、明治十三年十二月二十一日旧社地への復社が許可され、復社した。
電話番号(0982)63-3479郵便番号889-0611住所東臼杵郡門川町大字門川尾末4965番地1 -
門川神社(かどがわじんしゃ)
本社は、旧大将軍神社を称せしに人々の生活を豊かにすべく国土を招き、世の中の幸福を増進すべく人間生活の守護神として享禄3庚寅年(1530年)に勧請したと伝える。
明治3年1村1社の制により宇佐八幡宮の御分霊を祭る門川村一之宮八幡宮を始め、諸社等の合祀により社号を門川神社に改称した。現在の社殿は平成4年に改築された建物である。今では神々の御姿が本殿大扉に現れ霊験あらたかな門川の主福神と称して県内外より多くの信仰者を集めている。電話番号(0982)63-3479郵便番号889-0611住所東臼杵郡門川町大字門川尾末1728番地1 -
野田神社(のだじんじゃ)
当社は聖武天皇の御宇、天平二年、豊前国宇佐八幡宮を日向之国吾田岡富村今山に勧請する時、豊後竹田、高千穂三田井を経て、高千穂通りに神輿をすすめられ、松山にて休輿の後、野田村野之口原に仮宮を設けご神輿を休められた。
その時、にわかに雷鳴大雨があり、神主清田重麿は帛を捧げ奉って占いをしたところ、ご神居あるべき神託があり、二十一日を経て、今山へ遷宮のところ、至るに方位不潔の趣があり、野田の霊地を選び、ここより方位を定めて遷宮された。
この霊地、神跡を方位達八幡大神と崇め、品陀別命を奉斎したもので、往古より八幡大神社と称していたが、明治四年南方村野田鎮座の水分神社(祭神、罔象女命)、同野田鎮座の熊野大神社(祭神、伊弉冉命、事解男命、速玉男命)を合祀して、社号を野田神社と改称、明治五年に村社に列せられた。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0801住所延岡市野田町4825番地 -
野地神社(のじじんじゃ)
当社は聖武天皇の御宇、天平二年、豊前国宇佐八幡宮を日向之国吾田岡富村今山に勧請する時、豊後竹田、高千穂三田井の地を経て、高千穂通りに神輿をすすめられ、松山にて休輿の後、五ヶ瀬川南方野田を通行の折、野之口原に仮宮を設けて御神輿を休められた。その時、雷鳴を伴う緒雨があり、神主清田重麿は帛を捧げ奉って占いをしたところ、ご神居の神託があり、当村永池にご休輿の後、今山へ遷宮されたので、その神跡に品陀別命を祀って屋敷八幡大神と崇め、村民が深く新興したため祭礼には領主より祭祀料が供えられた。
往古より、その社号を八幡大神社と称したが、のちに社地の傍に祀っていた大将軍神社(祭神、大己貴命)を合祀、さらに明治四年字木の下鎮座の大将軍神社(祭神、大己貴命)をも合祀して野地神社と社号を改め、明治五年村社に列せられた。電話番号(0982)32-2520郵便番号882-0802住所延岡市野地町二丁目3814番地 -
熊野江神社(くまのえじんじゃ)
当社は市の北東端熊野江川流域に位置する。地内には弥生時代の箱式石棺六基があり、南浦古墳として昭和十七年に県史跡に指定された。いずれも千枚岩の棺に人体と弥生土器などの副葬品を入れ、棺の上を自然石を覆う積み石塚である。
当社の創建は元亀三年(1572)の頃、見崎将監(現社家森氏の祖)が一夜の夢告に「吾は紀州熊野三社の神にして、頃日此の里丸山の地に遷れり、汝疑はば行きて、而して見よ」と託宣があり即ち奇と思い、早旦、地頭職の甲斐織部正と同行して見れば、逆さに立てた神の杖が生々として芽を発していたので、二人は驚いて、社殿を建立し熊野三社権現と称した。
当時は村名を福村と称していたが、熊野三社の神霊を勧請したので、熊野江村と改めたと言われている。
棟札によれば、元禄二癸酉年(1689)延岡城主三浦壱岐守が再興、その後も度々社殿の造営再興が行われている。
明治四年別府の天神宮を合祀して現社名に改め村社に列せられ、明治三十九年四月神饌幣帛料供進指定神社に指定された。電話番号(0982)43-0050郵便番号889-0322住所延岡市熊野江町1741番地