宮崎県の神社
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久保山神社(くぼやまじんじゃ)
勧請年月日不詳、菅原道真公を祀り、天満神社と称していたが、明治四年十二月、下記神社を合祀して、明治五年十一月村社に列せられ、社号を久保山神社と改称した。
字瀬越の山神社(祭神 大山祇神)
字瀬越の熊野神社(祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命)
字藤野本の綿津見神社(祭神 大綿津見命)
字久保山の稲荷神社(祭神 倉稲魂命)電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0129住所延岡市北方町北久保山子3856・3857番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)北方町
明治四年十二月字黒原の天満宮に合祀され、久保山神社と称していたが、地元氏子の請願により明治十三年十二月二十日復社の許可があり、明治十四年一月十日旧社地へ復社し、天満神社と改称された。
電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0128住所延岡市北方町南久保山子4401番地 -
早日渡神社(はやひとじんじゃ)
北方町と北郷村の境界に位置する速日の峰の山麓に鎮座する。速日の峰は別名双子山ともいい、饒速日命がこの峰に天降りしたという伝承がある。
祭神饒速日命は、此の速日峯代古伊と言う所に天神として斎い奉っていたのを、応和元辛酉年(961)早日渡村に遷座した旨の書伝がある。
伊弉冉命、速玉男命、事解男命は天徳四庚申年(960)紀州熊野宮の分霊を勧請し、熊野三社大権現と尊称し、十一月十五日を祭日と定めていた。
舎人親王は大子大明神として、字打扇に祀られていた。菅原神は天満神社として、字尾廻、田久保、亀ヶ崎、城、荒平、猿渡、楠八重、猪ノ原の各所に祀り、倉稲魂命、大宮姫命、大田神は稲荷大明神として、字荒平に祀り、金山彦神は金山神社として、字猿渡に祀られてきた。これらの各社を明治四年十一月、当社に合祀して、社号も早日渡神社と改称すると共に、村社に列せられ、同四十年二月九日神饌幣帛料供進指定神社と定められた。同四十四年十二月、氏子中より石鳥居一基建立、大正二年四月二日、字仮底の村社仮底神社(祭神 伊弉諾命、伊弉冉命、金山彦命、金山姫命、大山祇命、菅原神、素盞男命)を当社に合祀し、奉斎している。
当社の境内に「止志賀美」との石の祠があるが、旧蹟地と伝えられており、明治元年、此の宮地を修復する際に祠下から神鏡が発見された。其の内に古物と覚しきものが円形三面ありて、これらの事蹟と古老の口碑とをうまく付き合わせた古歌に「カタムラノ、ハヤヒノミネニ、アマクダル、アマツカミノ、スメルコノサト」とある。
速日の峰は双子山とも言うが、その東方に布引の滝(高さ50㍍、幅9㍍、滝壺300平方㍍)があり、雨乞いに霊験ある神社として知られている。電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0243住所延岡市北方町早日渡巳259番地 -
角田神社(つのだじんじゃ)
養老元年(717)の勧請と伝え、伊弉冉命、速玉男命、事解男命の三神を祀り、古来、熊野大神とも、滝下権現とも称していた。
明治四年九月に下記の神社を合祀し、明治五年十一月に村社に列せられ、角田神社と社号を改めた。
字角田の天満神社(祭神 菅原道真公)
字角田の稲荷神社(祭神 倉稲魂命、大田神、大宮姫神)
字芦辺の若宮八幡神社(祭神 品陀別命)
字芦辺の年神社(祭神 大年神)
字下崎の守神社(祭神 素盞男命)
曽木神社、早日渡神社と共に北方町内では最も古く日向、延岡の古文書等にも記載されており、神石は弁天を祀る石二枚陰陽重なり白蛇一条ここにすみ居り候とある。また五代福生院なる僧神殿造営の節、右の杉伐り倒し候処左洞穴より白蛇一条出僧も忽ち病気に相なり、杉のあと地に長泉院代銀杏を植え候とあり。その後瓦葺き替えの節また白蛇出岩滝より上に登るを村内の者が見つけ、これらのことがあり大般若経一部六百巻奉納と有り、虫食い等があっても恐れられ、この経文を動かさなかったという。電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0104住所延岡市北方角田町丑144番地 -
石上神社(いしがみじんじゃ)石神神社
勧請年月日は不詳であるが天満神社と称していた。明治四年十二月下記の神社を合祀して石上神社と改称し、明治五年十一月村社に列せられた。
字大久保下の天満神社(祭神 菅原道真公)
字大久保下の山神社(祭神 大山祇命)
字石神の若宮社(祭神 大己貴命)
字石神の二股神社(祭神 大己貴命)電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0121住所延岡市北方町板上戌782番地1 -
川水流神社(かわずるじんじゃ)
由緒は不詳であるが、古くから天満神社と称して川水流に鎮座していた。大日孁売命は字野黒に、品陀別命は字尾崎に、倉稲魂命は字中村に、それぞれ祀られていたのを、明治四年十二月に合祀して、翌五年十一月村社に列せられ、社号を川水流神社にと改称したものである。
電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0125住所延岡市北方町川水流卯1212・1213番地 -
天満神社(てんまんじんじゃ)北方町
古来、菅原神は、字原に天満神社として、また大年神は字原に年神社として、須佐之男命、稲田姫命は字山林に古守社として祀られていた。これらの各社は明治四年十一月蔵田神社に合祀されたが、明治十四年十月六日復社願が許可され、旧社地に復社して、上崎天満神社と称している。
電話番号(0982)48-0721郵便番号882-0126住所延岡市北方町上崎辰1130番地乙 -
黒木神社(くろきじんじゃ)
勧請年月日不詳、従来より天満神社と称して、祭神菅原神を産土神と崇めて、祭祀を行ってきたが、明治四十年十一月字黒木村の内、板ヶ原の愛宕神社(祭神 伊弉冉命、火産霊命、彦火々出見命)を当社に合祀して、黒木神社と社号を改称し、村社に列せられた。
電話番号郵便番号889-0903住所東臼杵郡美郷町北郷区黒木1832番地 -
宇納間神社(うなまじんじゃ)
孝謙天皇の天平勝宝二年(750)、豊前国宇佐八幡宮より日向延岡今山八幡宮への鎮座の際、当所にご休座になったが、高良玉垂命は八幡宮の第一の家臣であるために同所、すなわち現在の場所に伊佐賀大明神として勧請し、祀ってきた。
明治四年一村一社の制が定められたので、中原区小園八村神社(祭神、高皇産霊命)、字坂本の嶽野大明神(祭神、大日霊貴命、天忍穂耳命、天津彦火々出見命、鸕鷀草葺不合命)、字中原の地主神社(祭神、大己貴命、事代主命、天穂彦命、三根津姫命、建御名方命、味鉏高彦根命)、字畑の宇納間升神社(祭神、大己貴命)、字小八重、下角、清川、尾戸、井出之口の天満神社(祭神、菅原神)の十社を合祀し、明治五年一月十二日宇納間神社と改称した。
なお、参道左側に大きく根を張る根回り約十㍍のイチイ樫は樹齢数百年を経た珍しい神木である。電話番号郵便番号889-0901住所東臼杵郡美郷町北郷区宇納間11番地 -
入下神社(にゅうしたじんじゃ)
五十鈴川上流駒瀬山西麓に位置する。勧請年月日不詳であるが、従前より鬼宿神社と称し、伊弉諾命、伊弉冉命を産土神として尊崇し、祭典を行ってきた。明治四年十一月、字黒原の天満神社(祭神 菅原神)、字尾畑の天満神社(祭神 菅原神)、字尾平の天満神社(祭神 菅原神)、字椿原の天満神(祭神 菅原神)、字椿原の今宮八幡社(祭神 品陀和気命)を当社に合祀し、社号を入下神社と改称して、村社に列せられた。
電話番号郵便番号889-0902住所東臼杵郡美郷町北郷区入下2215番地 -
中山神社(なかやまじんじゃ)
当社は文徳天皇の御宇、天安元年(857)門川長字分蔵野地に始めて勧請されたもので、後に第八十一代安徳天皇御宇、養和年中に神主大野丹後守藤原惟明により、同調狗山に遷座された。
社伝の記録に「延岡藩主土持氏、其の支城たる狗山城の鬼門除けとして遷座す」と言う。
当時、恒富村井上城主土持相模守田部栄綱は当社を尊崇し、城主の左三ツ巴ご紋付き神鏡一面を寄進して、正月七日、七月七日、十一月七日を大祭日と定めて、明治維新まで、奉仕執行されてきた。
後花園天皇御代、康正二年七月七日大宮司小野伊勢守藤原良久はさらに狗山の社地より、現在鎮座地である宮田の移転鎮座して現在に至っている。
当社は古来、藩主、領主、武門、武将の崇敬特に篤く、延岡藩代々の藩主は、ご神領、田畑の寄進、社殿の造営を行い、藩主自ら奉幣参拝された。
中御門天皇の御代、享和三年(1803)十一月二十一日社頭へ藤のご紋使用御免となり、社殿改築に当りては、多大の金銀を寄進した。
明治四年、神社合祀により、門川町中山鎮座の愛宕神社(祭偉人、大山祇命、軻遇突智命)を合祀して、創立以来中山大明神として称してきた社号を中山神社と改称し、明治五年十一月十七日には村社に列せられた。電話番号(0982)63-5754郵便番号889-0611住所東臼杵郡門川町大字門川尾末6343番地 -
尾末神社(おすえじんじゃ)
本社の祭神菅原道真公は尾末神社の主祭神であって、門川町五十鈴河の川口にある一小島に鎮座しており、同社地は古来如何なる洪水があっても、浸水することがないので、古名を生島と称していたが、其の後、次第に浮島と称するようになった。
堀川天皇の御世に、京都の黒木主計頭藤原朝臣重義という人が尾末村に来て住み、守神である北野天満宮の分霊を勧請して、浮島天満宮と称した。
祭神底筒男命、中筒男命、上筒男命の三柱は、もと、天満神社の境内に鎮座して、住吉大明神と称し、長治元年の勧請である。
同祭神軻遇突智神二座は、旧小字尾末に二ヵ所鎮座して、荒神社と称していたが、何れも寬文六年(1666)の勧請である。
祭神事代主神主神二座はもと、二ヵ所に鎮座して、蛭子神社と称し、一ヵ所は小字下納屋に鎮座していた蛭子神社で、元禄七年(1694)の勧請であり、他の一ヵ所は小字上納屋に鎮座していた蛭子神社で、享保元年(1716)の勧請であった。
祭神、綿津見神は、もと、綿津見神社と称して、小字下納屋に鎮座していた社で、慶長三年(1598)の勧請であった。何れも、明治五年、本社に合祀し、社号を尾末神社と改称した。
当社は旧藩時代延岡藩主有馬左衞門尉直純公の崇敬厚く、ご参拝ご詠歌の奉納等度々あり、その後内藤家領主も篤く崇敬した社であった。
『宮崎県史蹟調査』によれば、所蔵棟札として元文四年(1739)十二月、宝暦六年(1756)十一月、享保八年(1718)十二月、文化十二年(1815)七月、他七枚を有すると記されている。特殊神事
一、太鼓台神事、例大祭御神幸随行として古来太鼓台三台(人員500名)出場。
二、茅の輪神事、大祓の行事であるが本社は古来より茅の輪神事を厳修し参拝者が多い。
三、漁祭(定期二祭り)門川港に船長百名出席。一名恵美須さん、また海津見祭と云う。電話番号(0982)63-1747郵便番号889-0611住所東臼杵郡門川町大字門川尾末1411番イ号地