宮崎県の神社
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菅原神社(すがわらじんじゃ)
当社は文安四年の勧請と伝えられており、明治維新以前は天神宮と尊称していた。
古来、歌糸村の総産土神として崇敬され、末社の大年神、保食神と共に祭祀が続けられてきたが、明治四年、三社合併し、社号も菅原神社と改称した。その後、改めて、大年神、保食神をそれぞれ末社へ分祀して今日に至っている。電話番号(0982)42-1222郵便番号889-0304住所延岡市北浦町三川内3083番地 -
三川内神社(みかわうちじんじゃ)
当社はもと白山神社と称し、応永九壬午年(1402)の創建と伝える。『日向地誌』には「村社大井の向津留にあり諾冉二尊及び菊理姫命を合祭す、応永九年壬午創建する所なり。旧称白山権現と云。明治四年辛未村中各所に鎮座せし六社を遷座して此に合祭し、今名に改む、例祭十一月六日」と記されている。
菊理姫命は伊弉諾尊が伊弉冉尊を追われて黄泉国に到り、同国から逃げ帰らんとされたとき、泉津平坂で争われた両尊の間をとりもたれた神で、石川県の古社白山比咩神社の主祭神である。電話番号(0982)42-1136郵便番号889-0304住所延岡市北浦町三川内1147番地 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)
当社は文安四年に菅原道真公を勧請して、天神宮と称してきたが、明治四年十一月、三川内神社に合祀された。その後、氏子の熱心な請願により明治十四年十月二十日、旧は社殿への復社許可を得て、明治十五年九月二十三日、現在の社殿に遷宮し、社号も菅原神社と改称して現在に至る。
電話番号(0982)42-1222郵便番号889-0304住所延岡市北浦町三川内2438番地 -
鴟尾神社(とびおじんじゃ)
本社は天文二年六月十日の勧請で、鴟尾権現と称し、産土神として祀ってきた。
祭神三柱の神の勧請の由来は、権現建立当時、当村に悪病が流行し、そのうえ早魃打続いてたために村民疲弊し極度に苦しんだ。この時元権現所所在跡の梅木丸山一四四三番地に、不思議な神秘的兆候が夜ごとに現れた。その場所に住んでいた高橋須奈夫の祖先、甚之亟はこの不思議を区民にはかり、庄屋の意を得て三柱の神を郷土鎮守の神として祀った。氏子の尊崇厚く、高橋家を神主として祭祀を行わせたという。
寛永二年(1625)社格昇進により、梅木六四四七番地の現在地に遷宮し今日に至っている。
祭神大神惟治卿は豊後佐伯の栂牟礼城主の時、九州探題職を押領せんとする逆心あり」と告ぐる者があったため、大友氏の追討の軍勢が城に押し寄せたが、惟治は戦わずに日向に逃げ落ち、可愛嶽の山中に潜伏し、時を待ち冤罪を雪ぐつもりだったというが、大友軍の追及は山中にも及んだので、惟治公は同所を去り、拾町余の所にある当村の尾高智山中で逃れられぬ事を覚悟して自害したという。
その後、天文年中、鴟尾権現と尊称し、三川内梅木村の産土神と崇敬された。
当社は隣県大分県蒲江町丸市尾村の崇敬殊に厚く、御分霊を奉祀しており、本社の神主参向の上、祭典が行われていたという。
明治四年三川内神社に合祀せられたが、その後、氏子の請願により明治十四年十月二十日付にて旧社殿への復社が認可になり、明治十五年九月二十三日遷宮し社号も鴟尾神社に改称した。
『日向地誌』によると、尾高知岸橋ヶ谷の山腹に佐伯惟治の墓があり、新旧二基の墓碑には佐伯大神朝臣惟治墓とあり、新碑には戒名と大永七年自害の日が刻まれているという。電話番号(0982)42-1222郵便番号889-0304住所延岡市北浦町三川内6447番地 -
若宮神社(わかみやじんじゃ)延岡市
由緒は不詳であるが、棟札によれば宝永三年(1706)六月、享保四年(1719)十一月、安永四未年(1775)四月本殿の再建が行われ、文化二年(1805)六月には延岡城主内藤備後守より拝殿の再建が行われている。(『宮崎県史蹟調査』)
明治四年十一月当村の郷社長井神社へ合祀されたが、同十三年三月十日復社出願をし、同十四年十月十四日許可され、同十五年一月一日復社遷座した。電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井5192番地ヘ -
家田神社(えだじんじゃ)
由緒不詳であるが、所蔵の棟札によれば、享保十五年戌年(1730)十一月本殿が再興され、更に寛政二戌年(1790)二月にも本殿が再興されている。(『宮崎県史蹟調査』)
明治四年十一月当村長井神社へ合祀されたが、同十三年三月十日右神社再復鎮座を出願し、同十四年十二月十七日許可され、同十五年一月二日復社遷宮した。電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井311番地4 -
天神社(てんじんじゃ)
当社の創立年月日、由緒等不詳であるが、棟札によれば万治三子年(1660)三月、貞享元甲子年(1684)十一月、天明二壬寅年(1782)六月に歴代延岡城主により社殿の再建が行われており(『宮崎県史蹟調査』)、領主領民の篤厚く尊崇する社であったことがうかがえる。
明治四年十一月長井神社へ合祀されたが、同十三年三月十日復社を出願、八月許可され九月一日復社遷宮の儀斎行し、今日に至っている。電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井6751番地1 -
可愛神社(かわいじんじゃ)
当社は延岡市と北川町の境界に位置する標高727㍍可愛岳東麓に鎮座する社で、崇神天皇六十五年(紀元前33)戊子勧請と伝えているが、天正六年大友宗麟の兵火にあい、旧記・宝物等悉く焼失したため詳細は不詳である。
古老の口碑によれば、当社の鎮座する可愛岳は瓊々杵命の尊体を埋葬した御陵墓と称え、現在の可愛岳頂上鉾岩という所が即ちこの郷社跡と伝えている。人々はこの地を可愛御陵墓と尊称し、今は宮内省の御陵墓参考地となっている。また一説によると、可愛岳東南麓俵野に京塚という岡陵があり、土人これに触れる時は必ず神罰ありと称し、この地をもって命の御陵と伝えているが、詳細ははっきりしていない。しかし、参拝路嶮悪なため東麓の可愛の里へ社殿を設け御神体を遷座し現在に至っている。
所蔵の棟札によれば、寛永二酉年十一月六日延岡城主三浦壱岐守明敬社殿再建、寛文四甲辰年三月十日有馬左衛門佐康純社殿再建、宝暦辰年延岡城主内藤能登守政陽本殿再建、以後も度々再建が繰り返され、歴代領主をはじめ広く一般の人々にも厚く尊崇された神社であったことがうかがえる。
明治四年十一月長井神社へ合祀されたが、同十五年八月復社を出願、十一月許可され十月二日旧社地へ遷宮し、今日に至っている。電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井6495番地乙 -
長井神社(ながいじんじゃ)
北川中流域に位置し、西は可愛岳につづく山間地で、東に平坦地が広がる。古代律制下には日向十六駅の一つに長井駅が設置されていたという。本社の創建は古老の伝えるところによれば、崇神天皇五十七年(紀元前四一)十二月初申日と伝え、古くは朝日妙見、妙見神社とも称していた。天正六年(1578)大友棟麟の乱入により由緒書・宝物等悉く焼失したため詳らかではない。
所蔵の棟札によれば、
宝永六丑年(1709)本殿再興、
享保元辛酉年(1716)十月十八日鳥居再建設、
安永七戊戌年(1778)本殿再建、
寛政三亥年(1791)九月朔日拝殿再建と、造営再建が度々繰り返されている。
明治四年十一月馬鎮神社他十一社を合祀し、長井神社と改称、郷社に列せられた。明治四十年二月神饌幣帛料を供進すべき神社に指定せられ、同時に神饌幣帛料供進の場合は、郷社へは郡官吏又は町村官吏員参向の儀を達せられた。
本神社の例祭日には、従来陰暦十二月初申日に小祭を旧六月初申日にしていたところ、明治四十二年六月二十六日氏子協議の結果陽暦に引直し、以後一月六日を例祭日に、八月六日を小祭日と決めた。電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井5512番地 -
馬鎮神社(まじめじんじゃ)
明治四年十一月当村字熊田の村社川内名神社に合祀されたが、同十四年復鎮座した。
電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0101住所延岡市北川町川内名6159番地ロ -
岩戸神社(いわとじんじゃ)
明治四年当村長井神社へ合祀に合祀されたが、同十五年再復鎮座した。
電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井3958番地2 -
大山積神社(おおやまつみじんじゃ)
当社の創立年月日・由緒等は不詳であるが、棟札によれば、文化元甲子年(1804)十一月十二日、延岡城主内藤帯刀神主井本石見太夫実輔により社殿再興、同四卯年(1807)二月城主内藤亀之進により拝殿・神楽殿が再建されている。(『宮崎県史蹟調査』)
明治四年十一月当村郷社長井神社へ合祀されたが、同十五年再復鎮座した。電話番号(0982)46-2430郵便番号889-0102住所延岡市北川町長井4872番地ト