宮崎県の神社
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佐土原神社(さどわらじんじゃ)
島津以久は慶長八年(1603)十月十八日、大隅国垂水の城主から佐土原三万石に国替えとなり、佐土原藩の基礎を築いた。まら忠寛は明治維新に勲功があり、民間教育にも力を入れた名君として知られている。明治三十四年の創建で同藩内(佐土原、広瀬、住吉、那珂、三納、三財、都於郡、妻、新田、富田の旧十カ町村)の崇敬が篤い。
電話番号(0985)74-1528郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島1343番地1 -
愛宕神社(あたごじんじゃ)
往時愛宕大権現と称し、人皇第四十四代元正天皇養老二年(718)正月二十四日奉斎すると伝える。中世愛宕将軍地蔵と呼んで武人の信仰が篤く、また高神火の神として火難を除かせ給うと、ご神徳を受けつがれている。
慶長八年(1603)十月十八日島津以久幕命により、佐土原城の領主となる。愛宕大権現を佐土原藩の祈願七社として、社領十石を献ずる。
第二代島津忠興は、寛永年間に社殿を改修、金燈籠を奉納。その後も領主度々社殿を造営し、藩主の直参或は代参金帛を献げるを例とした。
元禄十三年(1700)三月島津惟久は、祈願成就の石燈籠一基を奉納、今もご社殿の前に現存している。
明治四年廃藩とともに、佐土原村字佐土原町を以て氏子にした。
明治六年五月二十五日県社に列格。特殊神事として「けんかだんじり」がある。
当社の夏祭りの山車、だんじりの呼び名で有名である。祭りは旧暦六月二十三・二十四日(現在は七月二十四日に近い土・日曜)この日の町内は青と赤に二分され、それぞれだんじりを担う若者と囃子太鼓を打つ子供の組が編成される。だんじりは祭り最終日に壊し合う「けんかだんじり」の伝統がある。
明治二年末、佐土原藩の広瀬転城によって士族が町から姿を消し、昔からの町人町は商人主導の街として発展、その手で守り育ててきた氏神祭り、けんかはその意気の高揚、参加は若者が成人になる人生儀礼でもある。電話番号(0985)74-1528郵便番号8800301住所宮崎市佐土原町上田島789番地 -
西上那珂神社(にしかみなかじんじゃ)
由緒は不詳であるが、八幡様として地元の人々に崇敬されている。『日向地誌』によれば、「村社 社地六畝二十七歩 誉田別尊を祭る。例祭九月九日」とある。
明治三十九年勅令第九十六号に依り神饌幣帛料供進の神社に指定される。二百㍍ほど離れた所に平等寺があった。寺の記録によると建久二年に建立したとされる。西上那珂神社もその頃に建立されたものと思われる。電話番号(0985)74-2384郵便番号880-0302住所宮崎市佐土原町西上那珂145番地 -
東上那珂神社(ひがしかみなかじんじゃ)
鎌倉権五郎景政を祀る。”ゴリョウ様”、”五郎様”と呼ばれ地元の人々に親しまれている景政は相模国鎌倉の人で寛治元年に源義家が、奥州金沢柵に清原武衡・家衡兄弟を討った(後三年の役)に、義家に従って十六歳で参加した。この戦で権五郎は鳥海三郎なる敵に右眼を射られ、突き刺さったままだったが屈せず、この敵を討ち取った。味方の三浦為次が矢を抜こうとしたが抜けず、やむなくその顔に足をかけて抜こうとした。すると権五郎は怒って「敵の矢に当たって死ぬのは武士の本望とするところだが、生きながら顔を踏まれることは恥だ」というのである。為次ももっともだとして無礼を謝し、こんどは膝で顔を押さえて抜いてやった。この事から権五郎の豪勇のほど知られる。
死後権五郎は武神「御霊大明神」として祀られたが、当地においても武運長久の神として旧藩時代から厚い崇敬を受けている。電話番号(0985)74-2384郵便番号880-0303住所宮崎市佐土原町東上那珂13945番地 -
田野天建神社(たのてんけんじんじゃ)
当社はもと田野神社と称し、仏堂園元倉にあったが、明治四年現在の地に遷し、大正二年九月持原の天建神社を合祀して現在名となった。
天建神社は、元徳二年(1330)伊東祐持が日向に下った時、丘道宮田荒二郎義立に命じ、特に勧請して武運長久を祈り、天正十六年(1588)三月、祐兵封を飫肥に受けると、新に神社を楠原に建てた。寛文元年(1661)さらに社殿並に字名をも併せて田野村に遷し、宮田氏を祠官とさせ、伊東家の武運を祈り、神社を納める毎に謝状を下付した。また、百済国王に関しては「田野大宮大明神縁起」に左のようにある。
昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。
王は我が住処は何処にしたものかと見回した時遥か北の方の山に五色の雲が舞い下った。王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓一人を従えてわけ入った。峻しき路に疲れて、小姓は魂が抜けたようになった。王は谷川の水を掬んで彼の口にそそいだ。小姓は忽ちその水で生気をとりもどした。かくてこの坂は後に小姓坂と呼ばれた。それからなお進んで一宿した処を後に宿野(しくの)といった。それから深山に分け入り彼の五色の雲の下の岩屋にしばらく体を息めた。
折から田野の男達八人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起し恭しく話しかけたが王は何ともいわない。そこで彼らは持っていた蔦葛をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。王はその時微笑した。後永くシヤグリ舞といってこの時の舞の様子を伝えたという。彼らはそれから王を導いて田野に帰りそこに仮殿を建てて仕えた。不思議にも王の手飼いの鶴が王を慕って飛び来り、その仮殿を守護した。
王は月毛の駒を愛し、それに跨ってあちこちと遊覧してまわられた。ある時王の馬は何に驚いたのか急に踊り上って王を乗せたまま井戸の中に飛びこんでしまった。そのため、王の冥福を祈り村内の井戸を全て埋め、またそれ以来田野では月毛の馬を忌むという。
王はかくて薄命の身の終りを告げたが、村人は厚く王を葬り神として祀ったという。電話番号(0985)86-2125郵便番号889-1701住所宮崎市田野町甲2793番地 -
今泉神社(いまいずみじんじゃ)
創建はつまびらかではないが、口伝えによると、神代の昔、天御中主神が清武町円目岳に降臨したことにより当地に祀ったと伝える。後陽成天皇の慶長十一年(1606)十月七日、すなわち領主藤原朝臣祐慶(第二台飫肥藩主)の時に、大宮司川越源八郎は円目岳が険阻にして参拝に不便であったため、領主の命により現在地に移したという。
なお今泉神社については次のような社伝がある。
清武村の今泉を流れて清武川の上使橋付近に落ちる支流を水無川という。
小春日和のある日、今泉の里の婆さんが水無川で塩漬けにする大根を山と積んで洗っていた。その時川下から土手をつたって、白衣の老人が杖を便りに歩いて来た。
老人は足を止めて、「私にその大根を一本恵んで下され。」といった。人声に驚いて後を振り向いた婆さんは「これは漬物にするので、人にやる為に作ったのではない。」と無愛想に答えた。老人は「その小さいのでもよい。」といって婆さんの足もとに転がっているのを指した。そして「私は三日三晩何も食わずにいる。」と付け足した。しかし婆さんは「自業自得だ、私の知ったことではない。」と言いながらごしごしと大根を洗っていた。「この水が無くなっても宜しいか。」と老人が怒り気味でいったが婆さんはとり合わなかった。
老人は木のこんもりと茂っている処へ辿りつき、何か口の中で唱えながら、川の中に自分の枝に突きさした。川底に穴が空いて水はどんどん地下にしみこんでしまった。「これが報いだ。」老人はこういって川上へ歩いていった。
清武村の西南に一際目立って高い円目山がある。その山の南側に妙見様が祀ってあった。清武村、特にその今泉の人達は深く信仰していて、夏の日照りの雨乞いには必ずここにお祈りした。しかしその人々の中に塩の漬物を持っていくものがあったら、その人は必ず腹痛を起こして一人ではとても下山が出来ない程になる。そこでいつしか「あの川の水を無くしたのは妙見様だろう。」と言い伝えるようになった。そして「あんな辺鄙な山奥に祀ったのでは、もったいない。」といい、今泉の人達が主となって地区から五、六町の西南方に神社を建てて祀ることになった。これが今の今泉神社で、付近の農民の崇拝の的となっている。電話番号(0985)85-2282郵便番号889-1602住所宮崎市清武町今泉丙1525番地 -
炎尾神社(ほのおじんじゃ)
当社は仁明天皇の御代、承和十年(843)九月の勧請で、炎尾六社大権現と称し、崇敬者の信仰厚く、殊に幕府より供田として水田四反歩を寄付して耕作させ、例祭には庄屋に代拝させ荘厳なる祭典を挙行されたと云う。
当社の特種神事として毎年正月元旦に、当社に供えてある神酒の瓶の酒の色合及び量の増減に依って、その年の農作物の豊凶を判定する御神酒試しの神事は、現在も斎行されている。
この神酒は、毎年当家にて自家製の甘酒を作り、秋の例祭日に長さ13cm、高さ7.5cmの横べという須恵器に補給し神殿に供えておくものである。電話番号(0985)85-1628郵便番号889-1604住所宮崎市清武町船引1508番地2 -
船引神社(ふなひきじんじゃ)
堀河天皇の御代、寛治元年(1087)九月十五日の創建と伝えられ、当初は正八幡大神と称した。東海道相模国湯井郷の鎌倉八幡宮の霊神を祀る。
当社の棟札によると、社殿の造営は次のとおりである。
天文十七年(1548)戊申十二月十三日大檀那大夫従四位下藤原義祐朝臣の御代大宮司多田義行の時社殿再興
承応三年(1654)申午十一月二十五日領主有馬左衛門藤原朝臣永純公の御代大宮司落合藤左衛門包行の時に社殿再興
享保十二年(1727)十月判大宮司落合丹波守包知の時社殿再興
宝暦元丙子年二月大宮司落合丹波守包清の時拝殿再興
文政十三(1830)庚寅年九月神輿寄進三基
天保八(1837)丁酉年十二月大宮司落合菊太郎の時石鳥居建設
嘉永三(1850)庚戌年九月十四日大宮司落合豊吉の時拝殿再興(現在のもの)
嘉永六(1853)癸巳年十一月大宮司落合豊吉神殿再興(現在のもの)
明治十四年巳年十二月祠掌長友光弥の時拝殿瓦葺となす。
昭和九年申戊六月社掌落合宮次郎、長友伊豆男の時神社鎮座八百五十年記念に境内玉垣建設並びに手水鉢に水道布設す
同四十九年本殿拝殿改築工事施工
同五十一年神池改修工事施工
同五十一年十二月二十七日石鳥居建設奉献
同五十三十月一日船引神社神楽保存会結成
同五十九年六月三日鉄筋コンクリート銅巻鳥居建設
同六十一年五月拝殿改修また境内には国指定天然記念物(昭和二十六年六月九日指定)の大クスがあり、通称を八幡クスと呼ばれている。また境内のシイの根元には、珍奇な植物といわれるヤッコウソウも群生している。
電話番号(0985)85-1628郵便番号889-1604住所宮崎市清武町船引6622番地 -
加納神社(かのうじんじゃ)
加納地区にて毎年虫害を被ったので虫除神社を建立しようとして当社を建てたところ、翌年から虫がつかず、豊年が続いたので、福の八幡と言ったという話が伝えられているが、三宅村(西都市)の福野八幡宮(三宅神社)を勧請したものと思われる。創建年代不詳なるも明暦二年(1656)九月福の八幡宮再興とあるので、それ以前の創建と思われる。
当社は福の八幡宮と称したが、明治維新の際加納神社と改称し村社に列せられる。藩主伊東家の崇敬厚く、参勤交代の際は領地最後の社として参拝され、海陸途中の武運長久を祈願した。その時境内東側に休憩所を設けお茶を供じた。今も其の所を茶屋場と称している。帰国の際も参拝され、無事帰国の報告をし、その都度清武藩士は此の処にて奉送迎をしたという。
昭和十年七月二日告示第三五三号をもって神饌幣帛料の指定を受く。なお明治十年七月西南の役にて社殿を破壊され古文書等盗まれたとある。電話番号(0985)85-1983郵便番号889-1605住所宮崎市清武町加納乙253番地 -
中野神社(なかのじんじゃ)
当社は53代淳和天皇の御世天長元年甲辰(西暦824年)勅宣により新羅降伏のため一國一社八幡宮を勧請すべきとの詔により、日向國一國一社八幡宮の最初也として創建された。
電話番号(0985)85-1983郵便番号889-1601住所宮崎市清武町木原525番地 -
愛宕神社(あたごじんじゃ)日向市
明治三十五年五月二十三日第四二五七号の宮崎新報掲載の当社に関する記事に、「観音寺の東に鎮座する村社なり。火産霊命・伊弉冉尊二柱を祭る。弘安四年辛丑七月宇田津兵庫正義の勧請せるものにして、異賊摧伏・火災守護の祈願をなせりとの旧記あり。今の社掌は正義より二十二代の末裔なりと云へり」とある。
いうまでもなく、火は古くより神聖視され記紀には迦遇突知神、或は火産霊神として神名があらわれ、一般に「愛宕神社」と称せられているが、京都の愛宕神社(右京区嵯峨愛宕町鎮座)が本社とされている。京都の西北にそびゆる愛宕山上にあって古くから王城の鎮護として名高い。当社もこれを勧請したものと考えられる。
平安時代、神道と真言・天台密教の融合された神仏習合期には修験道が盛んで、境内に五重塔を配し崇敬された。
鎌倉時代初期、九州山地に逃れた平家一門を追討するため那須与一・那須大八・工藤祐経等源一門が幡浦に入港した。その折に戦勝と航海の安全そして鎮火を祈念し、火の神を奉斎した。また社殿も新しく建立されたとされる。
尚、幡浦の地名は源氏一門入港の際、幾隻もの船が幡を掲げていたので幡浦と名付けられたとされている。
境内末社に荒神社があり、火牟須比神・澳津比古神・澳津比売神を祀ってある。神倭磐余彦命日向国高千穂宮をご出発東征の砌り、この島に鉾を建てられ、鉾島の鉾神様と唱えて奉祀されたといわれる。後の人、鉾島を細島と訛り地名になったといわれている。電話番号郵便番号883-0062住所日向市大字日知屋5500-乙 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)日向市美々津
天正六年(1578)豊後国の大友宗麟は日向国に来たり、島津氏と美々津川において合戦の際、伝来の宝物・古器物。古文書等一切烏有に帰したため、古来の由緒を知ることはできない。天正六年焼失したのち、同十一年十一月社殿造立したと伝える。
なお、保存してある棟札によれば、享保十三年(1728)霜月十五日、天明六年(1786)霜月十五日、文化三年(1806)二月四日、天保十年(1839)霜月十六日等とあり、それぞれ改築の事があったと想像される。明治四年七月村社に列せられた。電話番号(0982)58-1638郵便番号889-1111住所日向市美々津町590番地