宮崎県の神社
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下田島神社(しもたじまじんじゃ)
天武天皇白鳳五年(677)三月の創建と伝えられる。当時は、佐土原町の東南、明神山にあったものを、文明十三年(1479)、同十五年(1481)と二度の火災にあい、焼失した為現在地に移されたものと思われる。水門柱神社(みなとばしらじんじゃ)と称し、後に島津尊崇の社として児湯郡都萬神社と共に毎月一回、武運長久の祈願をなし、神領十六石四斗を寄せられていた。また一般には、「トバシラ様」とよばれ港の神様、海の神様として親しまれていたが、後に地名をとり、下田島神社と改称された。
電話番号(0985)73-0560郵便番号880-0211住所宮崎市佐土原町下田島12218の1番地 -
久峯神社(ひさみねじんじゃ)
古文書等が焼失して詳しいことは不明。社名を久峯といい久峯山頂にあったと思われる。久峯観音の創建が570年頃(欽明天皇)と伝えられる。同時代ではないが、いまなお鳥居が現存していることから久峯観音とともに鎮座していたことがうかがえる。
当時の一ツ瀬川は現在の線より、南寄りで田島の下あたりを流れていたので、海上安全の神の鎮座地として最適だったのであろう。
しかし、明治の神仏分離の際、久峯観音と分離して今の地に遷座したものである。また、後世一ツ瀬川の流線が北上するにおよび、その港口に近い福島の現在に移転したものともいわれている。福島湊乃 良港 入港船乃安寧およ
病癒 消除を 祈願し
多度津 金比羅神社
分霊 并 久峰神社を
勧請 志 茲に 一社宇を
安置す明治三十二年十一月
福島の湊の この良港に 入港船の安全と乗組員の健康安全、
疫病の消除を祈願し 香川県の金比羅神社の分霊と久峰の
久峰神社を併せて祀り(合祀し)ここに一つの
神殿を末永く安置する明治三十二年十一月
電話番号(0985)73-0560郵便番号880-0211住所宮崎市佐土原町下田島14056番地 -
広瀬護国神社(ひろせごこくじんじゃ)
旧称那珂下田島招魂社。明治三年二月十五日、広瀬小小松(東町)に佐土原藩知事島津忠寛が創建した。同七年「官祭招魂社」となり、明治三十年九月七日、現在地の田山の根(ふもと)に遷された。昭和十四年四月一日、広瀬護国神社と改称、現在に至る。
昭和三十五年五月四日には、清宮貴子内親王殿下が、島津久永氏との御成婚の砌、ご一緒に参拝された。
現在の社殿は、平成二年二月に改築されたもの。電話番号(0985)73-0560郵便番号880-0212住所宮崎市佐土原町下那珂3960ノ5番地 -
下那珂神社(しもなかじんじゃ)
下那珂字成枝田に鎮座する神社で、往時は生井田大明神と称し、都萬神社祠官日下盛俊が那珂郡司職であった時、天徳二年(958)十一月此地に奉祀すると伝える。
社蔵の棟札によれば、宝徳二年(1450)藤原秋賀、慶長十五年(1610)島津忠興公により再興されている。なお鎮座地である成枝は生井田を原名とし、井田を意味するという。天正時代に現在の文字に改められたものである。
当社石段の両側に建立されている石燈籠の竿石に「明治二十四年四月中旬より日照り続きで、作物は枯死寸前、鎮守や八百万の神に祈願したがその験はなく、岡住民は往古より秘術伝来の臼太鼓を以て、神々に祈ったところ、六月二十七日正午東天にわかに雲を起し天雨を賜った。これによって作物は生き返った。よってこの石灯を奉納した。」と記されており、水神様としても厚く尊崇された神社であった。電話番号(0985)73-0560郵便番号880-0212住所宮崎市佐土原町下那珂11678番地 -
広瀬神社(ひろせじんじゃ)
当社は明治維新に当たり、藩政庁が佐土原から広瀬に移転するに際し、佐土原にあった諏訪、大安、稲荷の3社を合祀し、明治5年9月16日現在地に移転し、郷社広瀬神社となる。その後、明治40年広瀬にあった広瀬、八坂の両社を合祀、また昭和17年千代稲荷神社を合祀した。
諏訪、大安、稲荷神社の由緒は次のとおりである。
[諏訪神社]
天文19年(1550)6月20日、島津忠将の長子以久が生まれた。此の日未明、何処からか1旒の旗が舞い来って、産所の棟上に懸った。忠将異んで侍従池田備後に見せたところ、忠将の常に崇拝する諏訪神社の神旗であることが判った。忠将はこの吉瑞を悦び、その旗を神体として備後に祀らせ、その弟が祠官となった。
慶長8年(1603)、以久が佐土原に封ぜらるるや―旧佐土原藩の藩祖―諏訪神社を勧請して下馬場に祀り、のち承応2年(1653)諏訪の馬場に遷した。
[大安神社]
ある時以久の夢に父忠将が現れ、「われを崇めて天下大明神と称すべし」と告げた。そこで以久は永禄8年(1565)社を建てて父の霊を祀り、社名を大安神社と称した。
[稲荷神社]
島津氏の祖、忠久以来島津家の尊信したもので、初め社は佐土原城内にあったもので、城頭稲荷とも称していた。電話番号(0985)73-0560郵便番号880-0211住所宮崎市佐土原町下田島20292番地1 -
古舘神社(ふるたてじんじゃ)
往古は大将軍様と呼ばれ、伊東義祐の別荘があったと伝えている。農業神として地元の人々に親しまれ崇敬されている。
電話番号(0985)74-1528郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島3696番地ノ1 -
堤神社(つつみじんじゃ)
由緒は不詳であるが、大将軍様として地元の人々に親しまれ、堤地区の鎮守として尊崇されている。
電話番号(0985)74-1528郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島4039番地 -
巨田神社(こたじんじゃ)
創建は「淳和天皇の御代天長八年(831)九月十五日飛箟原に白羽の矢一対飛び来る、ここに祠をおく」と伝えられているが定かではない。はじめ天太玉命を祀っていたが、寛治七年(1093)佐土原町上田島、下田島を宇佐神宮の神領とした際、宇佐神宮のご分霊を勧請し、巨田八幡宮と呼ばれていた。
旧佐土原藩では祈願七社の内の一社として、島津氏より親拝や代参がなされ、地元では八幡様と呼ばれ親しまれていた。
棟札によれば、文安五年(1448)佐土原(藤原)祐賀によって再興され、永正五年(1508)には都於郡城主伊東尹祐により再興されている。現在の本殿は天文十年(1547)の建立と確認されている。三間社流造の本殿は南九州に数少ない中世建築として二十二枚の棟札とともに昭和五十三年五月に国の重要文化財に指定された。また、本殿を中央にして左に若宮社、右に今宮社があり、両社とも一間社流見世棚造で、昭和五十八年に県の有形文化財に指定されている。
昭和五十六・五十七年には本殿・摂社の解体修復事業が国県町の助成を得て行われ、彩色社殿の優美な姿が再現された。
ご社殿前斎庭左側には、元禄十三年(1700)五月二十八日、城主島津惟久公が祈願成就のため奉納した石燈籠一基が現存している。電話番号(0985)74-1528郵便番号8800301住所宮崎市佐土原町上田島10732番地 -
稲荷神社(いなりじんじゃ)佐土原町上田島
由緒は不詳であるが、佐土原町本町通りの鎮守として、江戸期頃に建立祀られてきた神社である。
電話番号(0985)74-1528郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島1832番地 -
稲荷神社(いなりじんじゃ)佐土原町上田島
安姫の相手の能楽師を合祀すると伝える。
『日向の伝説』によれば、「昔田島の庄の地頭に田島七郎左衛門祐明という者があった。伊東大和守祐時の四男で、その子に安姫という娘があり、もう十七、八になっていた。或る時猿楽を催されたが、何者かが『安姫は猿楽の役者に恋慕なされた。』と申し上げた。祐明は大いに怒り姫を簀巻にして月宮の池に沈めた。七日の後取り上げて見たればその顔色常の如く笑さえ含んでいた。そこで現王という処で姫の骸を斬ってしまった。かくてその霊が大いに祟りをなしたので安宮大明神と名づけて祀った。祐明は彼の役者をも愛宕山の麓で斬らしめたがこれも祟りをなしたから稲荷大明神と名付けて祀った。」とある。
月宮の池の名は何時の頃からか恋崎の池と変わった。そしてこの池の辺に佐土草というものが多く繁茂したので、この地を佐土原と名付けたという。電話番号(0985)74-1528郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島768番地-ロ -
八坂神社(やさかじんじゃ)佐土原町
明治四年無格社八坂神社となる。八坂神社の祭礼は祇園さまとして地元の人々に親しまれている。祇園祭りの夜は各町内の道路に面した部屋一ヶ所をあけはなち、等身大の人形を作り、それぞれ趣向をこらした場面を表現する。それを見立細工といった。祇園祭は見立人形が中心にあり、各町内をまわり、新聞記者が記事にしたような批評をしてまわるのが楽しみである。
電話番号(0985)73-0560郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島1714番地ノ3 -
浦安四柱神社(うらやすよはしらじんじゃ)
由緒は不詳であるが、あおん様として地元の人々に親しまれている。明治四年無格社浦安四柱神社となる。
なお浦安四柱神社に関わる伝説として次のような話がある。
昔、佐土原のお殿様にキタ様という奥方が居られた。阿蘇宮司の娘で人々からは阿蘇様と親しまれ、男の子に恵まれた。
あるとき、殿は細島の港近くでふと見初めた浪人者の娘が忘れがたく、城に連れ帰り寵愛された。たまたまおキタ様が殿の脚を洗っていると、急に左右の脚が腫れたことがあった。これをみた浪人者の娘は「阿蘇様が蛇体だからその毒に当たられたのだ」と言い出した。殿は阿蘇様の子を「お前も蛇であろう生かしておけば、この父も呑みかねない」と柱にぶつけて殺し、奥方にも暇をとらせ、二人の家来に命じ阿蘇に送り返した。
肥後に向かった奥方は、阿蘇の大池まで来られると家来の者に別れを告げ、身を踊らせて池に飛び込んだ。たちまち水が沸きあがり蛇となって浮かび「自分は蛇ではない。殿に捨てられた恨みの一念でこうなった。未来永劫、殿や子孫に祟りこの恨みを晴らしてくれる。姫たちは必ず不具となるべし、殿に告げよ」といいながら、その姿は水底深く消えた。殿は間もなく脚を患われ、また姫たちも不幸が続いた。これこそ阿蘇様の怨霊と恐れられ、城では弁天山の麓に阿蘇大明神として祀った。
参勤の出発、帰還には必ず参詣され、月の十三日には代参があったというが、今その社はなく、その霊は浦安四柱神社に合祀されているという。電話番号(0985)74-1528郵便番号880-0301住所宮崎市佐土原町上田島1942番地1