宮崎県の神社
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都井神社
「神名録」によると土居村一宮神社祭神安閑天皇とあり、「高鍋藩寺社帳」によると、一宮蔵王権現があり、永正五年(1508)島津氏の家臣藤原久範の再興後、天文十三年(1544)藤原忠広、天正九年(1581)藤原久治、正保二年(1645)高鍋藩主秋月種春がそれぞれ再興、本地は釈迦如来で吉野から勧請したという。「日向地誌」では、旧称一之宮大権現、祭神押武金日命(安閑天皇の別名)に近郊の十二座の小社を明治五年に遷座し、現社名に改めたという。
合祀された十二社の祭神は、
一、黒井の山下権現(大己貴命)
一、川内の山の神(大山祇命)
一、御崎村御崎権現(表少童命)
一、宇戸の八幡(誉田別命)
一、右迫の大歳神(大歳神)
一、一ノ宮の摂社の稲荷大明神(倉稲魂命)
一、宮原の一王大明神(素戔嗚尊)
一、大納村宮浦の少彦名命を祭る
一、中園の天神(菅原道真)
一、宇土の安田権現(速玉男命)
一、立宇津の諏訪大明神(建御名方命)
一、大納滝山の飛龍三社大明神(水波売命、少彦名命、誉田別命)
である。
ところが御崎権現は明治十三年、飛龍三社大権現は明治十五年、地元の強い要望により、元宮に再遷座された。特殊神事
戦前までは旧八月十五日夜柱松の神事が行われていた。柱松は柳田国男の「柱松考」で明らかにされており、竿の頂上の燃料籠に下から松明を投げ上げて競う競技となったが、神社が燈籠や提灯を使うようになる前に、祭の場所の表示に使われていた。今では都井岬の観光行事「都井の火まつり」として復活されている。電話番号(0987)76-1137郵便番号888-0222住所串間市大字都井2097番地 -
市木神社(いちきじんじゃ)
「高鍋藩寺社帳」によると旧称を三十五社大明神といい、本地を聖観音とし陽成天皇第一皇女を祀るとある。皇女は故あって隠岐国に遠流となったが、嵐のために福島院市木浜に漂着、無事安産されたという。村上天皇の天暦二年(九四八)に岩下三十五社大明神を建て、康正二年(一四五六)、野辺盛仁が再興、その後、永正十四年(一五一七)島津忠朝、天文二十一年(一五五二)に島津忠親が再興したことが棟札で明らかで、寛文七年(一六六七)から幕末まで藩主秋月氏により社領四石五斗を寄進して来た。
祭神については、「神名録」が元明天皇之孫也としているのを「旧記」が否定し、『県史蹟調査第六輯』では「是等の事一々正史より見て論ずべからす」としている。鎮座地にっいては、もと字大王山にあったが、承久三年(二一二一)六月、字中山に遷宮、元禄中、現在地の諏訪山に遷座した。
『日向地誌』によると旧称三十五社大明神は祭神詳かならずとし、明治五年、本社内にあった建御名方命を祀る諏訪大明神など十座の小社を合祀した。小島にあった市杵島姫命を祀る弁才天、海北の稲荷大明神(祭神、倉稲魂命)、郡司部の火産霊命を祀る十六天神、古戸の大田子大明神(祭神、聖神)、藤浦にあった大山祇命を祀る山ノ神、堀内の菅原道真を祀る天神、石渡の岩下明神(祭神、滑河比売命)、海北の大歳の神(祭神、大年神)がそれで、名も現在のように改められた。明治三十九年神俣幣吊料供進神社に指定された。電話番号(0987)77-0139郵便番号889-3311住所串間市大字市木7235番地 -
稲荷神社(いなりじんじゃ)串間市
社伝によると、櫛間の玉木崎(現崎田)に住んでいた安部仲磨呂の末裔利久というものが、稲荷神社を氏神として祀り尊信していた。
櫛間に下向していた三条小鍛冶に業を習っていたとき保元元年(1156)二月、ある夜、白狐が夢枕に立ち「信田ノ森ノ誓ヲ云々」の神験があり、家人だけでなく、一層尊信を深めていた。その子孫、森永平利時というものが、神道吉田家に請願し、正一位稲荷大明神の尊号の許可を得、埼田村の鎮守として、その後長く崇敬されて来た。明治六年の神社統合により、本城神社に一度合祀されたが、村民の強い請願により、明治十年九月、復旧が許可され、遷座された。明治三十九年神饌幣帛料供進神社に指定された。電話番号(0987)72-3362郵便番号888-0009住所串間市大字崎田1825番地 -
本城神社(ほんじょうじんじゃ)
旧称を妻万五社大明神といい、寺社帳によると勧請の縁起は不明だが享徳元年(一四五二)地頭野辺盛仁が再興、その後明応九年(一五〇〇)、藤原久範、天文二年(一八ユハ二)島津忠朝、天正八年(一五八〇)島津義久がそれぞれ再興、江戸期には寛永十八年(一六四一)高鍋藩主秋月種春によって再興された。社領一反四畝(明応九年十二月の棟札が現存)。
『日向地誌』によると、本村五社にあった木花咲耶姫を祭る五社大明神のほか、本城村、崎田村の各所にあった十一座の神社を明治五年合祀し今の名に改めたという。十一座の神は千野にあった祭神誉田別命の八幡、崎田村永野の倉稲魂命を祭る稲荷大明神、同永田の歳大明神(祭神、大年神)同村の霧島権現(祭神、彦火々出見命)ロ広の武雷命を祭る妙見大明神、黒梶田の大山祇命を祭る山神、崎田村畑田の速秋津姫命を祭る百十一所大明神、湊にあった波上権現(祭神、豊玉姫)片角の天児屋根命を祭る春日大明神、中園にあった祭神菅原道真の天神がそれである。明治三十九年、神餅幣吊料供進神社に指定された。はじめ本城、崎田両村の郷社だったが、のち村社となった。電話番号(0987)72-3362郵便番号888-0008住所串間市大字本城7644番地 -
北神社(きたじんじゃ)
『県史蹟調査第六輯』によると、旧称を百十二所大明神といい、木花開耶姫命、武甕槌命、経津主命を祭る。『高鍋藩寺社帳』によれば、同明神は本地観音、天平四年(732)土佐国からお下りになり、一位崎に着岸、山ノロ平山壇に社を立てたが、縁起不明とある。
『神名録』には孝謙天皇の時代に、讃良文阿弥なるものが云々の縁起を紹介しているが、伝説を主としたものに史的考証を試みるのが無理というのが同調査の結論である。縁起については別として、由緒深い神社として、明応七年(1498)島津忠朝、天文二十年(1551)、島津忠親、天正十一年(1583)島津義久がそれぞれ再興し、秋月領となってから、寛文三年(1663)種信が再興、神領四石五斗を寄進してきた。毎年十二月二十日夜は火之舞が奉納され、社名も「火之舞様」と崇められていたという。
『日向地誌』によると、この百十二社大明神に、近傍の七座の神社
一、秋山村諏訪の諏訪大明神(祭神、建御名方命)
一、初田の山王権現(祭神、彦火々出見命)
一、羽ケ瀬の妙現権現(祭神、大山祇命)
一、上ノ房の熊野大明神(祭神、事解男命)
一、大矢取村の若一王子大権現(祭神、大山咋命)
一、屋治の天神(祭神、菅原道真)を明治五年遷座、合祀した。
その後明治十五年、秋山の諏訪神社、大矢取の若一王子大権現両社の復社が認められ、再遷座された。明治三十九年神饌幣帛料供進神社に指定された。電話番号(0987)72-3362郵便番号888-0005住所串間市大字北方6324番地 -
西神社(にしじんじゃ)
「神名録」によれば祭神は住吉三神だけで、旧称住吉大明神といい、西方の中央郡元に鎮座。『日向地誌』によると明治5年、近傍の六神社を合祀し、社名も西神社と改め村社となった。
六社の祭神は
一、西方の若宮八幡(大雀命)
一、高松村の弁財天(市杵島姫)
一、岩井田の聖大明神(少彦名命)
一、木代の聖神(不詳)
一、松清の熊野権現(事解男命、伊弉冉命、速玉男命)
一、下高野の天神(菅原道真)
明治39年、神饌幣帛料供進神社に指定された。住吉大明神の創建、縁起書などなく、詳しくはわからない。電話番号(0987)72-2442郵便番号888-0001住所串間市大字西方5845番地 -
春日神社(かすがじんじゃ)串間市
創立、縁起は不詳だが、塩屋原組百余戸の鎮守として、旧称春日大明神といい、尊崇されてきた。明治五年維新後の神社統合により、串間神社に遷座合祀されたが、社殿はそのまま据置かれ、串間神社の遥拝所となっていた。
その後、地元氏子の強い請願により、明治十五年四月、復社が認められて再遷座、社名も春日神社と改称、崇敬の誠をつくしている。
社殿は、しばしば営繕を重ねて来たが、再三の台風で損傷老朽化した拝殿を、地元氏子相はかり、昭和五十一年改築した。電話番号(0987)72-3362郵便番号888-0007住所串間市大字南方349番地 -
福島金谷神社(ふくしまかなやじんじゃ)
『県史蹟調査第六輯』によると、足利義昭(尊宥)の霊を祀り、飲肥領主島津豊後守忠朝が明応七年戊午五月十五日、創建した。明治五年ひとたび櫛間神社に合祀したがその後復興した。その創立については『島津国史』によると、櫛間にしばしば妖怪があり、これは大覚寺殿と呼ばれた義昭のせいだとして、櫛間総奉行の美作守藤原直久が祠を立てて祀り、その後忠朝の奏請で神祇官卜部兼倶に福島大明神の神号を賜わったところ妖怪がやんだという。
義昭は足利三代将軍義満の第六子で、将軍の後継争いに破れ、南朝方とともに永享十年(1438)大和で兵を挙げたが、敗れて当時南朝を支持する勢力の多かった九州にのがれ、薩摩を経て、櫛間院地頭の野辺刑部輔盛仁の庇護を求めた。野辺は義昭主従を北方永徳寺で手厚く保護したが、その行方を手配書を配り、厳しく追求していた将軍義教(第六代、義満の第三子)が、その所在をつきとめ、薩州島津忠国に義昭殺教を迫った。このため、飫肥城を守っていた新納忠続以下の族将が嘉吉元年(1441)三月十三日、永徳寺を攻め、義昭は近くの笑止田で自刃(三十七歳)、首級は船で京都に送られた。従僧源澄も、あとを追って殉死した。
秋月氏が櫛間を支配してからも、寛永十三年(1636)から祭祀料四石五斗を毎年寄進、文久三年(1863)からは、海岸防御のためとしてさらに三石などを追加し、明治維新まで続いた。義昭の墓などについては、同史蹟調査に詳しく、また義昭の辞世の歌などは、島津忠国が義昭供養のため建立した薩摩大興寺縁起に詳しい。
現社殿は昭和五十二年十二月、氏子が相謀り、原形のまま大修理した。電話番号(0987)72-3362郵便番号888-0007住所串間市大字南方4276番地 -
福島護国神社(ふくしまごこくじんじゃ)
明治元年戊辰奥羽の役に戦死した福島出身の高鍋藩士3人、
松田充平次(8月越後山熊田で戦死26歳)
松田平左衛門(7月新潟で銃創を負い5年2月死去、37歳)
深江助九郎(松田充平次と同日同場所で銃創を負い、翌2年10月死去33歳)
を、剣城の塚と呼ばれる前方後円墳の頂上に埋めて祭った。3人の墓もある。古墳であることが地元でよく知られなかったので、ここに祭られることになったもので、官祭の招魂社、靖国神社の分霊として例祭が行われ、のち護国神社となっている。電話番号(0987)72-2442郵便番号888-0001住所串間市大字西方4066番地 -
諏訪神社(すわじんじゃ)串間市
神社には、従来から古い記録がなく、創建、由緒とも、明らかではないが、旧藩政時代から、秋山郷の鎮守として造営を重ね、氏子の崇敬篤かった。ところが、明治6年、北方村の北神社に合祀されたため、やむを得ず、その氏子になっていた。旧神社の神殿など、そのままになっており、大神宮ならびに北神社の遥拝所と定められていた。明治15年6月、地元の強い要望で復社を出願、同9月復旧遷座が認められ、氏子の敬神の念は一層高まった。戦後、台風のために本殿を残すだけとなり、その本殿も老朽化したので、昭和51年11月、氏子が相はかり神社を新築造営した。
電話番号(0987)72-2442郵便番号888-0006住所串間市大字秋山3168番地 -
串間神社(くしまじんじゃ)
彦火火出見尊を主祭神として他に十二柱の神々を祀るので十三所大明神と称していた。山幸彦と呼ばれる主祭神が猪、雉などの雁ものの多いこの地を狩場として笠沙の宮から通われた仮宮所で、穂槵宮と称しその宮跡を斎きまつったと「神名禄」は伝えている。
「高鍋藩寺社帳」によると桓武天皇の時に平安京の朱雀院に鎮座しその後、順徳天皇の時に当地に安置したともいうが詳細はわからない。
永保六年(1563)領主島津忠親の奏請に依り神階宜下勅額を賜り、以後藩主、世々、福島総社として尊崇された。正平十四年(1359)には、野辺盛房が十三所大明神の社殿を再興されたことが記録されており、その後応仁元年(1467)には島津立久、永正十二年(1515)、天文十三年(1544)と相次いで島津氏が再興、秋月領となっても元和七年(1621)から慶應二年(1866)まで再興が続いている。
而して明治維新後は専ら福島、北方、大束、本城、都井、市木六ヶ町村の氏神として、維持運営された。
明治五年(1872)都城県管轄中、神社改革の際、串間神社と改称し郷社に列せられる。
明治四十年(1907)旧六ヶ町村の出資により社殿を改築されたが、老朽化し損傷が著しく御接遇出来得ない状態にあり、時あたかも平成元年、串間市が市制三十五年の記念すべき年を迎えるにあたり、奉祝記念事業として昭和六十三年六月改築奉賛会を設立し、平成元年六月、工事に着工、同年十月に竣工した。電話番号(0987)72-2442郵便番号888-0004住所串間市大字串間1410番地 -
南神社(みなみじんじゃ)
奈留外行組124戸の鎮守として旧称初熊大明神として崇敬されてきた。『日向地誌』によると、旧称熊野大明神といい、のち熊野大権現となり、事解男命、伊邪冉命、速玉男命を合祀していた。
近郊に五座の神社があり、
一、大平村広野の聖大明神(祭神、不詳)
一、烏帽子野の妙現大明神(同)
一、南方村田口の稲荷大明神(祭神、倉稲魂命)
一、中別府の蛇王権現(祭神、別雷命)
一、神花の神花大明神(祭神、木花咲耶姫命)、
この五社を明治5年遷して合祀、今の名に改めたという。明治39年神饌幣帛料供進神社に指定された。
各社とも創建を明らかにする文書なく由緒は詳らかでないが、社殿は、しばしば再建保存されてきた。電話番号(0987)72-2442郵便番号889-3531住所串間市大字奈留7588番地