宮崎県の神社
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若宮神社(わかみやじんじゃ)日南市
由緒、創建とも記録なく、はっきりしないが、祭神は天押雲命ともいい、天孫降臨にお供した五神の一、天児屋根命の御子。藤原氏の氏神春日大社は天児屋根命を祭り、摂社春日若宮神社の祭神が本社と同じである。藩政時代島津、伊東両氏とも藤原を名のっており、当社も春日の神と関係があるとみられる。
電話番号(0987)64-1658郵便番号889-3201住所日南市南郷町津屋野993番地 -
松尾神社(まつおじんじゃ)
縁起、創建とも記録がなく詳らかでないが、大山咋命は、素盞鳴尊を祖父、大年神を父とする神で、開拓の祖神としてあがめられ、また酒つくりの神としても祀られている。谷之口の水掛谷にあった無格社松峯神社(祭神若山咋命)同じく堀川口の無格社龍宮神社(祭神豊玉毘売命)の両神社をここに合祀したが、これも記録なく、年月不詳である。
電話番号(0987)64-1658郵便番号889-3203住所日南市南郷町谷ノ口1119番地 -
中村神社(なかむらじんじゃ)
島津氏、伊東氏が永年にわたって戦い、城には伊東祐兵より祐丞にいたる墓が残っている南郷城址の西麓にあり、旧称を八社大明神といい、南郷八つの宮の総社として、島津氏が飫肥を領した時代から、士民崇敬の名社だった。元文二年(1737)飫肥藩主伊東祐永(二十四代)が再興、社領六石四斗、例祭日には流鏑馬二頭を走らせ賑わったという。明治五年、村内の行騰大権現、潮屋権現、輿ノ御前の三柱の神を遷座し、ここに合祀し、今の名に改められた。同四年郷社、五年村社となり、明治四十五年六月、地区内の字文政甲の鵜奈手森神社(祭神、鵜鷀草葺不合尊)、字迫田の船岡神社(祭神、住吉三神)を合祀した。
境内末社二社
三嶋神社祭神 山祇神、
稲荷神社祭神 御年神、倉稲魂命電話番号(0987)64-1658郵便番号889-3202住所日南市南郷町中村甲4811番地 -
八坂神社(やさかじんじゃ)南郷町
創立年月日、縁起とも不詳不詳であるが、夫婦浦トンネルの入口の南郷海中公園を見おろす景勝の地に鎮座、地元漁業者が航海安全を祈る社として信仰されている。
電話番号(0987)64-1129郵便番号889-3211住所日南市南郷町贄波3233番地 -
日之御崎神社(ひのみさきじんじゃ)
村上天皇の天徳三年九月、押領司土持蔵人栄雅に勅して、飫肥院の内、外浦に十八戸の人々を移住させ、行膝大権現、玉依姫の二柱を勧請して、栄松、外浦水門柱の守護神とした、という旨の寛永八年(一六三一)二月九日、神主鈴木市正重国威なる古文書が伝わっている。『県史蹟調査第六輯』によると、「外之浦港埋立工事」の部で、この由緒記の時代については「悉く信を置くに足らず」とし、勧請された行燥三所権現が熊野信仰の伝播の時期からみて十二世紀後半の勧請、とみられているところから、創建の時代は、天徳より後とみられる。当時から海上安全、日和、安産の神として信仰篤く、天正九年(一五八一)島津義久が忠朝に命じて隈谷庄の二反九畝を神領として寄進、飫肥が伊東領となってから、天正十八年(一五九〇)河崎駿州が命ぜられて再興し、文録三年(一五九四)には河崎洞入道が再興、その後改築を重ね、明治三十五年、昭和六年に社殿を改築された。平成三年三月八日原因不明の失火により、社殿全てを全焼する災厄に遭遇するも地区民全員の一致団結と熱意により、現在の社殿は平成四年四月起工、同十月二十二日に竣工された。日之御崎三宝荒神として、地元民の崇敬が篤い。棟札は八枚保存されている。
境内に末社として恵美須神社、御﨑稲荷社をお祀りしている。電話番号(0987)64-1129郵便番号889-3213住所日南市南郷町潟上63番地 -
贄波神社(にえなみじんじゃ)
創建は明らかではないが、和銅元年(708)から四年の間と伝えられている。旧称を鎮大明神といい、南郷八宮の一として、氏子の崇敬が篤かった。明治五年壬申、現社名に改められ村社となった。
電話番号(0987)64-1129郵便番号889-3211住所日南市南郷町贄波2895番地 -
潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)
木洩れ日の中、風のそよぎに耳を傾ければ・・・
~静謐なる、祈りのときを求めて~全国で唯一海幸彦をお祀りする神社といわれ、海幸彦・山幸彦の争いの時、満潮に乗り磐船にてお着きになった。そこでこの地を潮嶽の里といい、ここに宮居をお立てになって年久しくご統治され、隼人の始祖となられたと伝えられている。ご鎮座は口碑によれば神武朝の頃と伝えられ、世々の領主、地頭、藩主、更には広く一般庶民より崇敬された社である。また藩政時には社録が付され、毎年大祭には太刀一口並びに幣帛が供せされた。明治維新の後は、神饌幣帛料供進社に定められた。
現本殿は、天保2年、飫肥藩主伊東公の寄進による造営で、流れ造り、三方高欄にて極彩色を施し、組み物並びに、唐獅子等の彫刻は雅趣である。
本殿、拝殿、祖霊舎には伊東家の庵木瓜、九曜の紋所をいただいている。電話番号(0987)55-3252郵便番号889-2403住所日南市北郷町大字北河内8866番地 -
大藤神社(おおふじじんじゃ)
「日向地誌」によると、旧大藤村には村社が四座あった。尾崎の今宮大明神、釘の尾の宇佐八幡、鳥の御崎大明神、梶原大谷の高専大明神がそれで、明治五年、四座の神社を現在地の大藤の中央に遷座合祀された。その後の調べによると、天正二年以前に今宮大明神が創建されたことは明らかで、当時島津との攻防を続けていた伊東義祐(三位入道)が田代大覚なるものを今宮大明神の大宮司として以来、田代家が代々にわたって明治維新まで、宮司として奉仕していたという。ところが、合祀の後、大藤神社に備付けていた由緒書、棟札などは、故意か、事故か分らぬまま焼けたため、合祀の祭神も、不明のままとなっている。
現在の社殿は平成二十二年十月に新築されたものである。電話番号(0987)55-2131郵便番号889-2401住所日南市北郷町大藤甲2218番地 -
住吉神社(すみよしじんじゃ)
社伝によると、創建ののち享保十一年(1726)再興、天明七年(1787)九月高屋舞殿改造の棟札があり、由緒深い宮であったが、明治五年ほかの十二座の神とともに、郷原神社に合祀された。しかし、元氏子の強い要請で明治六年再遷座され、住吉大明神の名を住吉神社と改称、村社に列せられた。
電話番号(0987)55-2131郵便番号889-2402住所日南市北郷町郷之原甲3537番地 -
郷原神社(ごうのはらじんじゃ)
旧称を山宮神社、明治初期に全国で行われた神社の統合により、郷之原にあった十三社を合祀して、郷原神社と名称を変更する。
山宮の歴史は古く、およそ二千年前の弥生時代に起源する。『「山宮』とは、山の頂上付近にあった山の霊を祭る場所を指していて、そこで稲作の祭りが行われた。
全国の歴史ある大社・小社の多くは、山を背に社殿が設けられている。現在でもその山の中に『山宮』という地名が残っている場合がある。
郷原神社の『山宮』も山の頂上付近にあった山宮の名残りで、神社名として長く使われたのであろう。
神社の最も古い宝物は、天正年間のもので四百年以上前のものである。
江戸時代になり、幕府の法度である「神社条目」(寛文五年)により、江戸時代の神主は、京都・吉田家、白川家によって統制されていくが、代々鵜戸山神主であった松田家の松田権太夫は、延宝二年(1674年)に吉田家より法度の定めによる鵜戸山祠官(宮司)になり、それ以降幕末まで二百年に亘り代々松田家が現在の郷原神社・潮嶽神社・宮浦神社・大藤神社・住吉神社を含め北郷・日南の二十数社の正祝子(宮司)を兼任した。
明治になり、各村の社に神主が立つようになり、現在に至っている。
※日向神楽を今に伝える 山宮神楽
毎月第一土曜日(二・四・十一月を除く) 午後七時半~午後八時半電話番号(0987)55-2131郵便番号889-2402住所日南市北郷町郷之原乙5032番地 -
名谷神社(なたにじんじゃ)(瀧山神社)
神社としての由緒は詳らかではないが、飛龍三社大権現と呼ばれ、祈願所として藩主より寄進を受け、真言宗東明寺の僧が奉祀してきた。佐土原藩の修験僧野田泉光院成亮が、「日本九峰修業日記」で、文化九年(一八一二)滝山大権現に参詣したことを記し、大権現のほか観音堂、護摩堂、東明寺があったという。「高鍋藩寺社帳」は応安元年(一三六八)法印快盛開山と記し、本尊愛染明王、寺領一石五斗と記録され、真言宗に属していた。
明治維新後の廃仏菓釈と神社統合で、明治六年五月、都井神社に遷座合祀された。しかし、多年の霊地が荒れることを恐れた地元氏子の強い請願で明治十五年九月、復社が許可され、社殿を改築、社名を名谷神社と改めた。明治三十九年神供幣吊料供進社に指定された。
本社鎮座の場所は、滝山と呼ばれており、『日向地名録』でも、「車明寺淳布、岩岡より直下する二丈五尺、その壮観」と述べており、その水質の清く澄んだ霊水を讃えて、持ち帰って病人に与えたり、参籠するものなど、遠近の賽客が絶えない。地元でも、神社が山間にあって参詣に不便なため、滝山名谷参拝道は大正十三年村民の奉仕で完成したが、社名も、下流の名谷の名から、御滝山にふさわしい滝山神社に改称願を昭和十一年八月、知事に出願したが、そのままになっている。
なお『宮崎県史蹟調査第六輯』によると、「名谷観音堂の鰐口として、鋼製径七寸、厚さ二寸五分、八幡宮浜中云々、文明二年の銘がある」と記録、大納谷にあった八幡社のものが直接か、または飛龍大権現を経て観音堂に移されたものとみている。鰐口は金鼓ともいい、もともと寺院にあったものが、秋月領福島では神仏混合で、数多くの宮に懸けられていたがここだけに現存していた。
なお祭神について『日向地誌』では明治五年、都井神社に合祀された際、水波売命としている。
※滝山植物群落保護林
神社周辺は、アラカシ・シイ類・その他広葉樹の樹齢141年生(2004年現在)の天然林である。
昭和44年(1969)、滝山神社境内の風致保存を図るため滝山風致林として設定され、平成5年(1993)、滝山神社境内の風致保存・森林施業・管理技術の発展・学術研究等に資するため、名称も滝山植物群落保護林として指定された。電話番号郵便番号888-0221住所串間市大字大納2958番地 -
御﨑神社(みさきじんじゃ)串間市
鎮座地は6kmあまり岬の南方に突出し、北は御崎馬の放牧で知られる原野に連なり、西南は大隅の佐多岬と相対し、眺望絶佳の地であり、神社の周辺には、国の特別天然記念物の蘇鉄の自生林である。旧称を御崎三所大権現といい、「件史跡調査第六輯」によると、元暦元年(1184)土持信森がこの地に来て祠官となって以来二十三代に及んで継承、初め島津忠久に信森が由緒を申達して以来、領主歴代神領を寄進し尊崇篤かった古社という。
「高鍋藩神社調」によると、縁起は福島院、土肥御崎、三所大権現について「古事記」の日向の橘のくだりから三祭神が生まれたことを述べ、御崎三所権現の名を賜うのは、佐田御崎、火御崎、土肥御崎の三つで、三月三日のご託宣により、六月社殿を建て崇め奉ったという。棟札には永禄五年(1562)十二月島津忠親、天正十五年(1587)十二月、島津忠久の名が記録されており、秋月領となっても尊崇篤く、幕末まで社領十五石を寄進して来た。
明治六年五月、神社の改革により都井神社に合祀された。しかし、その後も旧社殿に参拝するものが絶えず、そのうえコレラが流行したり、稲作の穂枯れなどの凶作が続いたために村民がこぞって複社を切望したので、明治十三年二月許可になり、旧社殿へ奉還の祭典を斎行した。以後、現在名となり、崇敬されている。明治三十九年神饌幣帛料供進神社に指定された。電話番号(0987)76-1137郵便番号888-0221住所宮崎県串間市大字大納58-丙