宮崎県の神社
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御崎神社(みさきじんじゃ)北諸県郡三股町
創立年時不詳なるも、天文十九年(1550)九月二十九日、大宮司秋丸伊賀守他十八名にて再興する。また慶長十三年(1608)戊申十月、領主北郷忠能改修し、その後寛文五年(1665)乙巳二月十九日、勧進者当所地頭川上四郎左ヱ門他数名にて修造と、旧記に見える。もと、御崎大権現と称し、明治五年六月御崎神社と改称した。
郷社稲荷神社へ合祀されていたところ、氏子民の志願により教部省の許可を得、明治九年九月二十四日複社、村社に列せられる。なお大正三年九月八日新磯神社を合祀し今日に及ぶ。元新磯神社は和銅元年(708)霧島を勧請し、六所権現と称し、永正十七年(1520)伊東祐尹造立の棟札ありと旧記に見え、元新磯六所権現を称し、荘内町字西岳千足神社へ合祀同九年九月二十四日に氏子民の志願により、教部省許可の上旧村社に列せられる。明治二十四年三月十六日認可を経て、現在の地に移転し大正三年九月八日御崎神社に合祀された。電話番号(0986)52-4027郵便番号889-1911住所北諸県郡三股町大字長田3580番地 -
稲荷神社(いなりじんじゃ)南郷町
当社の縁起ははっきりしないが、祠や社殿後背の桜の老木などから、かなり古い社であることがうかがえる。棟札によると、明治三十五年に鳥居が、同三十六年に拝殿が稲荷講中と榎原神社の兼務社司によって再興され、例祭には神楽も奉納されていたという。現在の社殿は、昭和三十一年に建設された。
電話番号(0987)64-4918郵便番号889-3215住所日南市南郷町榎原1127番地2 -
榎原神社(よわらじんじゃ)
旧称は榎原大権現といい、飫肥3代藩主伊東祐久が鵜戸神宮のご分霊を勧請、地福寺境内を社地として創建した。鵜戸神宮とともに飫肥の御両社として、篤く崇敬された。社領ははじめ100石であったが、文化5年(1808)、11代藩主伊東祐民が150石に加増した。鵜戸参りと並んで榎原参りが近郷の信を集めていた。明治元年、榎原神社と改称、同6年郷社に列せられ、昭和5年8月1日県社に昇格された。
これまでの当社創建についての研究によると、万治元年(1658)の勧請説で固まっているが、『県史蹟調査第6輯』では、当社縁起によると「明暦2丙申年(1656)11月27日大和守祐久公供伊東勘解由参詣於榎原別当真誉(鵜戸山別当)同参也」とあり、創建年月日は不詳にしても再興説が有力としており、『日向地誌』も再興説をとっている。※作祈祷神楽
神社建立以来の歴史があり、毎年3月下旬に斎行され、五穀豊穣や家内安全を祈る。
一時途絶えていたが、榎原神社神楽保存会により1983(昭和58年)に復活された。電話番号(0987)68-1028郵便番号889-3215住所日南市南郷町榎原甲1134番地4 -
山之神神社(やまのかみじんじゃ)南郷町
創立年代は不詳だが、日南海岸国定公園内では最大の大島の産土神として崇敬されている。目井津の沖合約三㌔の島で、もと無人島だった。『日向地誌』によると、天保五年(1834)飲肥藩主伊東祐相が埠頭工事をしたが、すぐ荒波でこわれ、弘化のころまでは藩の畜牧場として良馬を慶した。牛馬の守護神として祀られたものだが、嘉永の初めから牧を廃止し、農民を移して荒蕪地を開墾させたという。目井津から船で十五分、大島荒平崎西岸は、海中公園の一つになっている。氏子数二十五世帯。
電話番号(0987)64-4918郵便番号889-3204住所日南市南郷町中村乙8011番地2 -
乙姫神社(おとひめじんじゃ)
由緒ははっきりしないが、南郷八宮の一つとして崇敬されてきた。三穂津姫命は、高皇産霊尊のむすめで、大己貴命(大国主命)に高皇産霊が、自分の娘を妻として皇孫のため奉護せよと命ぜられた姫神である。『日本書紀』によると、少彦名命は、大国主の片腕として国づくりに協力された。
電話番号(0987)64-4803郵便番号889-3213住所日南市南郷町潟上9329番地 -
潟上神社(かたがみじんじゃ)
旧称川上大明神と称し、南郷八宮の一つとして藩主、地元民の崇敬あつかった。永正十五年(1518)、飫肥領主島津忠朝、息忠広が社奉行阿多忠全、修造奉行牧瀬秀遵に黄鐘、廿日宝殿を再興させた。その後、延宝八年(1680)日高久衛門盛房なるものが中心になり、地元民を説いて社殿を再興した。その後も寛永十二年(1635)と、明暦二年(1656)に社殿ならびに稲荷社の改築が行なわれてきた。その後、末社の記録はないが、本殿に配祀されたものとみられる。藩政時代は社領田の寄進を受けていたが、明治維新で廃止され、明治五年に社名も現在名に改められ、明治四十一年、神饌幣帛料供進神社に指定された。
電話番号(0987)64-4803郵便番号889-3213住所日南市南郷町潟上2426番地 -
霧島神社(きりしまじんじゃ)南郷町
社伝によると、初代宮司岩切宮太夫行経(後に和泉)が、秀吉の朝鮮の役(文禄元年)に伊東祐兵(十九代)に従って従軍、帰陣後、都於郡、折生迫を経て、後水尾天皇の御代、目井津村に勧請、岩切家が代々宮司を継いで、現在に至るという。その後の造営改修は記録なく不詳だが、戦後は昭和二十八年、本殿、拝殿などを改築、五十二年には末社恵比須神社(祭神事代主命)を改築、五十六年には輿之御前神社(霧島神社御旅所)を改築した。六十一年天皇陛下御在位六十年奉祝に当たり、本殿、拝殿を造営した。
当社は、開運、漁業、諸業繁栄、縁結び、安産の神として崇敬篤く、特に病気平癒熱病の神として、氏子だけでなく四方に崇敬者がある。
特殊神事としては、一月十日に漁祈念の恵比須神楽、例祭の御神幸祭に獅子舞四頭舞が奉納される。獅子舞は、飫肥舞とは違う勇壮さが特徴という。旧暦六月九日十日の縁日祭では、茅輪神事が行われる。清浄なまかやで綯った大きな茅輪をくぐると無病息災、安全になるというもので、祈願する老若男女がつめかけ、自動車や船を形どった車形、船形も輪をくぐり、海上、陸上の安全、豊漁を祈願する参拝者でにぎわう。電話番号(0987)64-4918郵便番号889-3204住所日南市南郷町中村乙4612番地2 -
伍社神社(ごしゃじんじゃ)
社伝によると、飫肥藩主伊東祐久が慶安三年(1650)外ノ浦の埋立工事を進めた際、堤防の人柱に選ばれたシヲという女性の霊を祭った潮屋権現を改称して伍社神社となった。「県史蹟調査第六輯」によると、伊東祐兵が飫肥に封ぜられた当初は、二万八千石を、次々に検地して五万七千余石となったために、領土をふやす新田開拓として祐久のとき堤防工事が決行されたもので、このときの埋立工事は「日向地誌」によると、地元の松田理右衛門の建議で、脇元村界の尾崎から潮屋権現の森まで長さ三町五十九間、また潮屋権現から天ノ越の岡麓まで長さ一町五十四間、堤防を築いた。この建議者の名により松田堤の名が付けられたという。堤防建設の途次、風波のため、しばしば破壊されたので、人柱選びとなったもので、そのシヲという女性の霊を慰めるため潮屋権現として祀ったという。しかしそのシヲなる女性の身元も、伍社の祭神である木、火、土、水、金属の五神に、海幸彦、山幸彦の神話とも関わりがある塩椎神(塩土姥翁の別名で、塩の神様)が、どうして祀られたかも、明らかでない。
また「日向地誌」は、明治五年潮屋権現ほか二社が、中村神社に合祀されたと記録しているが、再遷座のこともはっきりしないままである。境内にシヲさんの墓碑が残っている。電話番号(0987)64-1918郵便番号889-3204住所日南市南郷町中村乙887番地乙 -
脇本神社(わきもとじんじゃ)
勧請の年を伝えるだけで記録なく、その後の造営も明らかでない。祭神は素盞鳴尊と神大市比売命の間に生まれた、五穀の豊穣を祈る祈年を意味する神さまである。大国主命を助けて悪神を平らげ出雲の国づくりに協力された神なので、家内安全、家運繁栄の神としても知られる。戦後は五十一年に拝殿を改築した。
特殊神事としては、春の中祭、牛祭が行われる。豊穣を祈願する年ごいの祭りで神楽が奉納される。例祭には、神事祭に獅子二頭舞を奉納する。電話番号(0987)64-1989郵便番号889-3212住所日南市南郷町脇本1914番地 -
八幡神社(はちまんじんじゃ)南郷町
「県史蹟調査第六輯」によると、岡の城墟のくだりに、谷之口と脇本との界の山嶺にあり、湖雲が城ともいうとし、櫛間城主だった肝付省釣が、一時島津氏に降ったが、なおも飫肥藩との仲を疑われていたので、飫肥に在城していた伊東祐兵、佐土原にいた義祐に、偽りの戦いを持ちかけた。伊東側の承諾を得て、天正四年(1576)六月岡の城から大将薬丸以下肝付付兵が津屋野に出動した。肝付側は、無鏃矢、空砲で撃ちかけたが、飫肥側は、急だった為に命令がまだ伝わっておらず、真の矢銃で戦ったため、肝付側は大将以下、三百余人が戦死した。その後、薬丸孤雲(島津国史によると孤)の遺体は、城の真下の金連寺に葬った。その金連寺跡に墓が残っており、寺跡に薬丸以下の戦死をあわれみ、神社を造営、祭り始めたものという。副将だった十九歳の若武者安楽下総介の墓は同町津屋野の久保田にあり、「安楽さま」と呼び土地の人が慰霊のために建てたという。
薬丸ほか三百余人が戦死したのは、六月十五日(島津氏の記録によると冬十月)で、例祭はその翌日で、偽戦の姿をあらわす臼太鼓踊りが、慰霊のため奉納される。太鼓を前にかかえ、背に旗指物を負う伝統の踊りが長い間受け継がれている。電話番号(0987)64-1989郵便番号889-3212住所日南市南郷町脇本3498番地19 -
行縢神社(むかばきじんじゃ)
天徳3年(959)9月第62代村上天皇の御代の創建。村上天皇の天徳3年9月、押領寺司土持蔵人栄雅に勅して小肥外之浦に両所18戸を移し、異国本朝船入帆の津と為す。即ち海上安全守護神行縢大権現玉依姫を勧請し、2社外之浦門柱の神と為す。
「爰ニ於テ諸民日和ヲ願ヒ将安産ヲ祈ルニ叶ハヌト云ウ事無シ。夫レヨリ多クノ星霜ヲ歴テ天正9年己嶌津義久、同忠朝ニ命シテ隈谷庄ニテ二反三畝ノ神領地ヲ寄附」との古記録あり。
境内末社には、恵美須神社(祭神:事代主神)、天満神社(祭神:菅原道真公)、稲荷神社(祭神:倉稲魂命)が祀られている。
昔は夏祭りに神輿を出し御神幸行列が行われていたが、今は秋祭りに御神幸行列が執り行われている。境内には、奇石(女陰石)、お百度石、亥の子石がある。電話番号(0987)64-1658郵便番号889-3204住所日南市南郷町中村乙4117番地 -
津屋野神社(つやのじんじゃ)
「日向地誌」によると、旧称を桜木大明神といい、南郷八社のうち第二座であるため二の宮ともいった。和銅の創建は棟札によるもので、もと南郷の宮の尾にあったのを貞享二年(1685)「上の園」の現在地に遷座したという。
その後、字梶原にあった天満神社祭神、菅原公を当社に遷座、合祀したが、記録なく年月不明。
なお、神社と直接関係はないが、近くの久保田に安楽下総介の墓がある。天正四年(1576)同町岡の城を守っていた肝付省釣の部将薬丸孤雲が、飫肥の伊東方に偽戦を持ちかけたが、伊東方には命令が伝わらず、真の矢銃で戦った伊東方に撃たれて肝付方は大将の薬丸以下三百余人が戦死した。肝付方の副将で十九歳の若武者安楽の死をとくに悼んで、土地の人が建てた墓という。電話番号(0987)64-1658郵便番号889-3201住所日南市南郷町津屋野1601番地