宮崎県の神社
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南方神社(みなみかたじんじゃ)高城町
当社は明治維新当時まで、諏訪大明神・諏訪大神と称し、領主並びに民衆の崇敬篤き社であった。明治四年七月現社名に改め、村社に定められた。明治四十三年十一月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。
市指定無形民俗文化財「桜木あげ馬」 平成二十六年五月二十日指定
桜木の古老の口碑によると、文禄の役の出陣に当り、諏訪神社に戦勝祈願をして渡海した島津義弘が、凱旋後に解願のため献馬と神楽を奉納したときの行列を表現したものと伝わる。
他の地域のあげ馬神事と比べ、素朴であるが、胸の前で両手を合わせながら腰を下げて両手を伸ばし、相撲のちりをきる動作や足を高くあげる様など、民俗行事として貴重な要素を多く残し、古態をとどめている。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1204住所都城市高城町桜木1403番地 -
諏訪神社(すわじんじゃ)都城市穂満坊
創建年時は不詳であるが、諏訪大神として高城町中心部に鎮座し、古くから地区民の崇敬を得た産土神社である。明治四年七月村社に列格、諏訪神社となる。
昔から、模擬大名行列である「上馬」が祭りの際奉納される。
「上馬」は「あげ馬」「あげんま」「揚げ馬」「献上馬」「上げ馬」の字があてられる。由来はいろいろ言われているが、秀吉の文禄慶長の役に天晴れな武功をたてた島津の殿様が、出陣にあたり、島津家第一の崇神諏訪神社に戦勝祈願をされ、凱旋後願をとくため馬と神楽を奉納した際の行列を模したものと言われる。一種の野外劇として藩政期に創作された舞楽である。都城市高木町および高城町桜木の諏訪神社にも伝わる。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1202住所都城市高城町穂満坊2987番地 -
熊野神社(くまのじんじゃ)高城町
創建年時不詳。明治四年七月村社に定められる。同三十九年四月神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。石山地区の氏神である。
電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1205住所都城市高城町石山1729番地 -
三島神社(みしまじんじゃ)高城町
有水地区国道十号線を衷心に東西に延びる集落の西、十号線より1キロメートルの地に鎮座し、一校区をもつ集落の産土神として崇敬されてきた。
伊予の豪族勤王家、河野・越智の二氏当所へ下落住するに及び建立した。その年時明らかでないが貞治三年とも伝える。『三国名勝図会』には、「三島大明神宮原村にあり、越智氏、河野氏予州より下着して貞治三年建立すと、再興の棟札に見えたり」とある。明治四年七月村社に列せられる。大正九年十二月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
境内に大杉が三本あり、昔から鐘踊りが神社に奉納され、今はとだえているが角力も行われていた。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1311住所都城市高城町有水字辻3051番地 -
長野神社(ながのじんじゃ)
創建年時は不詳であるが、『三国名勝図会』に、「大永二年(1522)再興棟札を蔵したり」とあり、よって本社の創建の古さを窺わせる。明治四年七月村社に定められる。
祭典の際、態襲踊りが若い人等十名位で、毎年奉納されている。
この地区には以前、長野小学校もあり、通常長野と呼ばれていたと思われる。市指定有形民俗文化財「長野神社男神像及び女神像」
平成二十六年二月十八日に指定された。
神像は、細部を彫出しない素朴な作風から室町時代後期ころのものと推測され、再建時に製作された可能性が高い。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1312住所都城市高城町四家1776番地 -
的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)
当宮は、和銅三年(710)、大隅国国分正八幡宮(鹿児島神宮)を勧請して創建したと伝える。今の三股・山之口。高城の地にあたる三俣院の宗廟・鎮守として広く崇敬をうけていた。
天文年間(1532~55)三股兵乱の際藩主島津家立願ことごとく成就した事により、それを謝するため、山之口郷花木村・高城郷桜木村の内に神領田を付し置き、祭典の節は神饌を供えたと趣古書には明らかであるが、何時廃されたのかはわからない。しかし旧藩時代は、毎年祭米一斗七升五合あて下渡された。棟札によれば、天文四年(1535)、永禄元年に再興され、その後、慶安五年(1648)、元禄十一年(1698)、宝永三年(1706)に藩主によって社殿の造営が行われている。明治四年七月郷社に列せられ、的野正八幡宮を圓野神社に改称し、明治四十年二月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。その後、平成十四年に幣拝殿を改築したのを機に、平成十五年に元の名号的野正八幡宮に改称した。
『三国名勝図会』等によると、当社は古来正月元日から七日の間、神忌と称して高声を発するのを禁じている。それは、『日向の伝説』では「文政九年(1826)の明き、官吏が来て当社を修築した。作業場を当社の右にある牛洪宮の側に立て翌年の正月に及んだ。土人が高声の禁忌の事を告げ七日の間造営を罷めるように申し立てた。しかし官吏はなかなか聴かなかった。そして二日から造営を促し既に五六日に至った時、作業場から火が発り木材悉く灰燼となった。その時火花が頻りに側の社に散乱し、人々は神社が鳥有に帰するものと思った。しかし社殿は焦げさえしなかった。土民はこれを神霊の威力によるとし、愈々敬し愈々慎んだという」と説明している。
特殊神事として、十一月三日(以前は陰暦十月二十五日に行われ、又、当宮より都城高木まで御神幸していた。)の御神幸祭に三つの神輿が神功皇后をお祭りしてある池之尾神社の仮殿まで下る。その浜殿下りの先導として、朱面を破り大小の刀を佩いた一丈余の大人弥五郎どんが、四輪の車に乗せられ数多の子どもに推されて偉風堂々と下る。儀衛中に多くの武具を携えるのは、北郷忠相が当邑を領した時に始まり、昔は流鏑馬も行われていたという。御旅所に着くや、祭典に続き浦安の舞・太郎踊・矢旗踊など、その他数多の奉納踊があり終日賑う。近郷近在からの参拝者も多い。御神幸(弥五郎どん祭り)は養老四年(720)の隼人の反乱の多くの犠牲者(隼人の霊を慰める為に全国の八幡神社(系)で放生会を行わされていた。その中でも南九州では大人人形を作り放生会(ホゼ)祭を行い、現在残っているのが当宮と鹿児島岩川、日南の三ヶ所であり、又その中でも昔ながら(素朴)に霊慰め、五穀豊穣、諸安全、繁栄を祈して(ホゼ)祭りを斎行している。
また「二月初卯の日にも祭があり、この日は田鍬初といって牛の形を造り墾田の状をなし、なお木刀踊がある」と伝える。電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1801住所都城市山之口町富吉1412番地 -
走湯神社(はしりゆじんじゃ)
当社は土肥平三郎実重が、伊豆国走湯権現(現静岡県熱海市伊豆山神社)の分霊を勧請し創建した神社という。実重は土肥次郎実平三代の孫で、建武三年十二月五日畠河治部大輔に従って日州・三俣院に北。同院内福王寺の地を実重に与え、別当寺を建て、自らも福王寺と号し、地名ともなる。該時は正保年間(1644~48)に廃寺になったという。
天文年間(1532~55)北郷讃岐守忠相当邑を領するに及び、当社を篤く崇敬し別当寺を補修し修善寺と改号した。依頼人々深く崇敬し維新に至る。明治四年七月村社に定められ、大正六年十月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
境内神社は伊勢神社と粟島神社がある。伊勢神社は中郷村安久に鎮座のところ明治四年七月本社に合祀された。粟島神社は、寛政元年(1789)三月の創建で、木村木花に居住の山元金兵衛旧番所境内に奉祀され、明治四年七月村社に列せられたが、翌八年十一月本社に合祀された。ご社殿
大正3年 改築
大正11年 屋根を瓦葺きへ
昭和30年 改修
平成16年12月 神殿幣拝殿改築 他境内整備電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1803住所都城市山之口町山之口386番地1 -
南方神社(みなみかたじんじゃ)山之口町
社伝に和銅二年の創建という。往時は上下諏訪大明神と称し、七月二十七日の夜には民衆行列をなして参詣し、的野八幡宮に次ぐにぎやかさである。応仁元年(1867)弘治三年(1557)等の造営旧記があるので、創建は古いことが窺われる。棟札によれば、正徳四年(1714)四月、正徳六年(1716)二月に再興され、延享二年(1745)には舞殿が修復されている。明治四年七月大字富吉鎮座の諏訪大明神社、大字川ノ口鎮座の諏訪大明神社を合祀して村社に定められると同時に、今の社名に改めた。さらに明治四十一年十月には、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
現在の社殿は昭和55年に改築されたもの。○花木のあげ馬
あげ馬は神に献上する馬、神前に捧げる馬として「あげん馬」「献上馬」と呼ばれ、揚げ馬、上げ馬などの文字をあてている。島津氏(17代義弘)の文禄・慶長の役出陣にあたり、島津家筆頭崇神である諏訪神社に祈願成就と凱旋を祝って、「献上馬」と「神楽」を奉納すべく組まれた行列を模したものであると伝わる。今では4年毎に行列を仕立て、お祭りを行う。
都城盆地内に「あげ馬」が保存伝承されているのは、本町の南方神社と都城市高木町の南方神社、高城町穂満坊・桜木の両諏訪神社の4社のみに残る貴重な文化財である。電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1801住所都城市山之口町花木954番地 -
熊野神社(くまのじんじゃ)山之口町
往時より熊野三所権現と称し崇敬されている神社である。明治四年七月村社に列せられ、同月中郷村大字宮村鎮座の熊野神社ならびに当村木花鎮座同神、本社へ合祀した。さらに大正六年十月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
当社には次のような伝説がある。天保八、九年の頃ご神体の木像の眼に釘を打った者があった。しかし誰のしわざともわからない。時に一塊の火、当社の辺から寅の方に向って飛び、四里余り山之口村飛松の熊野権現廟の辺で消滅した。その火の発した音は石火矢の轟く音より大きかった。土民は「神霊が不敬を怒って飛松の廟に至った。」と思った。
純真な土地の人々は神のお見捨てになったのを哀しみ、修善寺の住僧忍性に請うてその釘を抜き、相集って神楽を奏した。この日社の上空再び火塊が現れ、しばらくの間消えなかった。土民は神霊の遷宮と仰ぎ供に至るまで畏敬している。
また、飛松にも熊野権現の社がある。昔一羽の角鷹が幣をくわえてきて、ここの松の樹に掛けておいた。人々はその幣を熊野大権現と奉祀し、その後別に木像を安置したという。電話番号(0986)57-2374郵便番号889-1801住所都城市山之口町富吉4670番地 -
竈門神社(かまどじんじゃ)
古来荒神と称し勝岡諏訪迫に鎮座する。もと、都城邑野々美谷村にあったが、伊東氏がこの地を侵したので、その後安永村に遷し、その後、天文十二年五月十八日、地頭和田越中守が現在地に遷して棟札を納めた。
神体は、もと、木像二体で「佐土原大舎介」と刻まれていたが、明治二年ごろ焼き捨てて鏡にかえた。祭日は七月二十八日で、明治六年に作られた旧藩主島津家所蔵の記録に、「前略三州太守左近中将源光久公・侍従綱貴公・御息忠竹公敬神明太守故ニ修造 貞享元年冬起工、同年十一月廿八日工畢」とあり、その裏に、「社寺奉行新納五郎右衛門・山口五郎右衛門・川上十郎右衛門・干時享保元年甲子十一月廿日伊東刑部右衛門(下略)」とあることから、貞享元年(1684)時の領主により再興されたことがうかがえる。
合祀社である諏訪神社は、祭神建御名方命・事代主命で、もと高木にあったものを勧請して竈門神社に合祀したもので、庚申様は、もと、勝岡城本丸の北西隅にあったが、明治六年一月に竈門神社に合祀されたものである。明治四年一月村社に列せられた。
なお現在の社殿は、明治三十六年七月に改築されたものである。電話番号(0986)52-4027郵便番号889-1914住所北諸県郡三股町大字蓼池18番地 -
稲荷神社(いなりじんじゃ)三股町
本社は元亀元年十二月銘の棟札からも庄内町大字安社に鎮座の社で、旧時山神大明神と称すると旧記に見える。貞享四年(1687)八月銘の棟札からは、藩主島津氏より篤く崇敬されていたことがわかる。明治維新後、稲荷神社と改称し、明治三年庚午時の地頭三島通庸公の計らいにより現地へ遷座し、同六年十月十八日郷社に列せられる。
当社には山之神社、日枝神社が合祀されている。山之神社は祭神大山祇命で、三股村大字長田に鎮座のところ明治六年一月十三日本社に合祀された。日枝神社は祭神不詳明治七年八月三日本社に合祀された。電話番号(0986)52-4027郵便番号889-1901住所北諸県郡三股町大字樺山3995番地 -
御年神社(みとしじんじゃ)三股町
応永四年(一三九七年・室町時代)、時の領主藤原氏が天下泰平・国家安穏・万民安泰を祈願して当宮村地区の宗廟として建立したものであると社記にある。
当時は、中央において南北朝の争乱もようやく治まりかけたが、地方ではまだ争いが続いており、荘園制度は崩壊の兆しをみせていた。そこで、領主藤原家光が領地の安穏を祈願して建立したものであると伝えられている。※鑽火祓(きりびはらい)
鑽火とは、火鑽(ひきり)、燧石(ひうちいし)の方法で打ち出した火をいいます。
昔より燧石の猛烈な火花には、破壊力と清浄力の威力があるといわれ、尊ばれてきました。
この清浄な火打をかけると色々な厄、災禍をまぬがれ、前途が清められ福を招くとされて
います。当神社の鑽火祓は熊本城稲荷神社(熊本市鎮座)に古くから伝わっている鑽火
祓を特別に許されたものであります。鑽火祓は御祈願の方、昇殿参拝の方が受けられます。※むすび岩
自然の摂理の中にある全ての「いのち」を受け継ぎ・発展・成就せしめる働きをむすび
(産霊)という。このむすびの働きに感謝し、むすびの岩を鎮座いたしました。
・人と人のつながり(縁結び)
・人と学問のつながり(学業成就)
・人と運のつながり(開運成就)
等を成就するのがむすび岩である。電話番号(0986)52-0934郵便番号889-1912住所北諸県郡三股町大字宮村3511番地1