宮崎県の神社
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山之神神社(やまのかみじんじゃ)
当社は、寿永3年(1184)、源平の乱に、八重尾の祖先一族、八重尾興次郎が、大神のご神像を背に負いながら、道なき荒山中の険しき岩根踏裂くみ、木浦木の川辺に掛け落ち住居を定めて、茅葺の社殿を建てご神像を奉斎し、八重尾家の産土の神として代々崇敬してきたのが始まりと伝える。「三国名勝図会」によれば、山神社として大山祇命、猿田彦命を祀り、祭礼は11月中申日、地元の伝承では鹿児島藩三州山神の宗廟といわれ、霊験あらたかなため、慶長12年(1607)4月24日に松齢公(島津義久)が願文4条を奉納したとある。
※ダム工事の為、平成25年度に遷座予定であります。電話番号(0984)22-7499郵便番号886-0001住所小林市東方5892番地2 -
菅原神社(すがはらじんじゃ)高崎町大牟田
由緒不詳。『日向地誌』には「村社なり、上の園にあり社地一段三畝十二歩、菅原道真を祭る例祭旧暦十一月二十五日」とある。
創建は極めて古く1724年江戸享保宝暦時代といわれ、約三百年にわたる歴史がある。
明治四十三年(1911)社殿大改築より百年余り、老朽化が進んだため平成二十五年三月に大改築を行った。電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4505住所都城市高崎町大牟田3744ノ1番地 -
東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)
東霧島神社は霧島六所権現の一つで「延喜式」に登場する霧島神社であるといわれる古社であります。
東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第五代孝昭(こうしょう)天皇の御代に創建されたと伝えられます。その後、第六十二代村上天皇の御代、応和三年(九六三年)京都の人、天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が巡錫参篭(じゅんしゃくさんろう)し、噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興されました。
江戸時代になって東霧島大権現宮と唱えるようになりました。御祭神は建国の祖とたたえられる伊弊諾尊(イザナギのミコト)を主祭神として地神5代の天照大御神(あまてらすおおみかみ)より神武天皇に至る皇祖を合祀し、ご神宝十握の剣(とつかのつるぎ)を御奉斎申し上げております。
御祭神は日本国土を生み給うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。
特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。※神石の由来
天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。
天地創造の神である、イザナギの尊、イザナミの尊が誕生されました。
夫婦となられた二人の神様は国土・山川草木に至る私たちの生活に大切な「火の神」をお生みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。
夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。
愛しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆き、悲しめども亡き人は帰る術もありません。
その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)であるといいます。
そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とつかのつるぎ)で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭わないように‥‥と、深き祈りの心を込めて三段に切ったといいます。
「十握の剣」ほ当神社の神宝であり、厄除け・魔除けの神となり御社殿に鎮め納めております。※参道石階段
その昔鬼が霧島の神に願いをかけ、その契りの導きにより一夜にして、積みなしたといわれます。鬼磐階段(おにいわかいだん)と言い、振り向かずにこの階段を心を込めて願い事を唱えながら登ると願いが叶うと言い、「振り向かずの坂」とも言います。電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4504住所都城市高崎町東霧島1560番地イ -
菅原神社(すがわらじんじゃ)高崎町縄瀬
当社は人々、菅原道真公学神の威徳宏大なるを聞き及び、文明十年文教の祖神として勧請したと伝える。
電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4503住所都城市高崎町縄瀬3089番地 -
宇賀神社(うがじんじゃ)
当社は明治維新当時まで、宇賀大明神と称したが、明治四年七月現社名に改める。同時に村社に列せられる。
往時、社家・朝倉家の古文書に、本社の由来は丹波朝倉の城主・紀伊入道の末裔式部維族なる者、年時不明であるが現地へ朝倉の鎮守として建立した。地名も朝倉と称し社殿を立て宇賀大明神と尊称、姓を朝倉と改め祠官となり、もって一郷の宗廟と崇めたのである。当時戦乱相継ぎて漸くにして狭域の地を領していたが、防衛上新たに居館に城砦を築いて外城とし辛うじて保領したと歴代の口碑に記している。延宝九年(1681)辛酉高原郷域をわって、縄瀬・大牟田・前田(往年の朝倉のこと)三村を併せて、高崎村と称した。朝倉の地名は、長門本『平家物語』成経薩摩配流の巻に「朝鞍野」と記されている。
当社の改築については、元禄九年(1666)八月十一日記載の改蔵図を所蔵している。
谷川には俵踊りを伝える。電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4506住所都城市高崎町前田2814番地イ -
十柱神社(とばしらじんじゃ)
当社は旧称十柱大明神と称したが、明治初年現名称に改める。往古、この里に死者疫病充満した時があり、人々その触穢を祓い鎮めようと伊弉諾・伊弉冉の二神の子である水戸にありて祓除を掌る速秋津彦命を奉斎し、ご神威を畏み崇めたと伝える。
電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4501住所都城市高崎町笛水338番地 -
江平神社(えひらじんじゃ)
『日向地誌』によると「村社ナリ田畑ニアリ社地三畝健御名方ノ命ヲ祭ル 例祭十一月十日」とある。江戸初期の創立と伝え、当地の鎮守社として崇敬された神社である。
電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4502住所都城市高崎町江平562番地 -
諏訪神社(すわじんじゃ)高崎町江平
江戸中期頃の創建と伝え、当地の鎮守社として崇敬された神社である。
電話番号(0986)62-1713郵便番号889-4502住所都城市高崎町江平3435番地 -
山田神社(やまだじんじゃ)(華舞神社)
当社の創建は詳らかでないが、記録に表れたのは、嘉慶三年(1289)上棟云々とあり、また奉納の手洗鉢(現存)の記録をみると、元弘三年(1333)とある。これ以前の創建であることは、その古さまた当地の人の尊崇厚いことを見れば明らかである。また当社は霧島六所権現の一つである。
当社に蔵宝する華字の掛軸は、旧領主島津忠相公の時代、文禄四年(1595)四月左大臣近衛信尹が豊臣秀吉の意に逆って、薩摩の坊津へ配流のおり、日向より大隅口へ下向の途次当社へ止宿され、衣の袖をおとされ、華の一字を自筆にて揮毫し奉納したものと記録に留めてある。このとき左大臣信尹は、大宮司桂木丹波良隆を召され揮毫された。これより後華舞権現と称したという。当時信尹に給仕したとの子孫永久本社に奉仕したという。
古来より領主・領民の厚く崇敬する社で、島津氏所領時代には、領主より祭米五斗四升八合、神領として一石七斗七升五合、祭田一反一畝が寄進されていた。また、宝永十一年(1714)の高帳には、華舞領として一石八斗五升九合の記事が見える。所蔵の棟札によれば、万治三年(1660)藤原朝臣久和公により再興され、さらに元文二年十二月、元禄三年十一月、享保十四年九月、文化十四年に再興されている。祭神は瓊々杵尊、木花咲耶姫尊、彦火火出尊、豊玉姫尊、鸕鷀葺不合尊、玉依姫の六神であったがのち月夜見尊、上筒男命、中筒男命、底筒男命の四神を合祀した。
明治四年小鷹神社と改称し、さらに同八年山田神社と改称した。明治四十年二月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。電話番号(0986)64-0594郵便番号889-4601住所都城市山田町山田7506番地 -
熊野神社(くまのじんじゃ)山田町
本社の創建については不詳であるが、元亀年間(1570~73)室町幕府末期すなわち信長の時代姉川の戦のあった年、菊池の支族北原氏・伊東氏と闘争に際し兵火にかかり造営することを得ずとの記録がある。ゆえに小祠を建てて奉祭していたところ、慶長年間(1596~1615)に、しばしば疫病の流行するところとなり、この災を祓わんため、社司・安田権守、修験者・鬼塚池之坊に依頼したところ、天照皇大神・豊受姫尊・伊弉諾尊・伊弉冉命の四神を合祀、後に荒嶽三所権現を合祀した。明治六年一月二十三日山田神社へ一時合祀されたが、同十五年十二月五日復社遷座した。
電話番号(0986)64-0594郵便番号889-4601住所都城市山田町山田918番地 -
高城神社(たかぎじんじゃ)
石根大神 平産大神、明治4年現在地に遷宮。高皇産霊神合袛ス。
当社は、旧社号石根大神また平産大神と称し、高城町大字石山に移住した根占氏間宅地に鎮座、勧請年月は不詳。往古は相応の大社にして官社であったと古老の口碑に伝える。旧社殿真柱に16葉の菊のご紋章が存在し、今なおお宝物として保存している。しかし、官社の証を中古戦乱の際古記録由緒と共に紛失する。明治4年2月郷社に列せられ高城神社と改称する。明治5年9月高城町中心部の日和城北東の地にあたる小高い地に、正殿を新築し遷座する。明治40年2月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。
石根大神、平産大神を明治4年現在地に遷宮。高皇産霊神合袛ス。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1202住所都城市高城町大井手2661番地 -
春日神社(かすがじんじゃ)都城市
大和国添上郡鎮座の春日大明神よりご分霊したもので、村上天皇の御代天徳二年敦明親王第三子某大納言が、この地に勧請し崇敬したものと伝える。鎮座地を昔は東山といったが今は春日山と称している。東山と呼んだのは高千穂峰に対する位置からであったろう。高城郷の総鎮守として厚く崇敬された。
後奈良天皇の天文元年(1532)島津忠朝・北郷忠相等が伊東家の高城主将八代長門守等と不動街で戦った。その時春日山から白鳥が二羽舞立って戦場に飛び降りた。島津軍はこれを見て神の助けとし、勇気を増して奮戦した。こうして大いに敵兵を破り、長門守以下将兵若干失った。この事のために島津家ではこの社を崇敬し祭祀を怠らなかったという。
神社には春日宮の三字を書した扁額がある。これは昔、近衛権中将島津齋宣公が手書きして奉納したものだと伝える。また、分霊の道中、高岡町倉岡に寄り、当村人送りをとって来たとかで、今でも有田糸原から、例祭の時参列する神事が行われている。
明治四年七月村社に列せられ、明治四十三年十一月、神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。
境内の石造多宝塔と二十三夜待碑は町の文化財に指定されている。電話番号(0986)58-3915郵便番号885-1203住所都城市高城町大井手字春日76番地