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宮崎県の神社

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  • 厳島神社(いつくしまじんじゃ)

    厳島神社(いつくしまじんじゃ)

    古くは弁財天と称し、その由緒については次のような伝説がある。
    往古性空上人がこの地に来てある家に立ち寄り水を乞うた。その家の老婦は遠くから水を汲んできて上人に捧げた。老婦が水汲みに行って来る間に夕立があって、庭に干しておいた物が濡れてしまった。老婦は水が近くに無いのを嘆いた。上人は憐れんで「この地に水を得させよう」といい、楊枝を加持して地に挿入した。するとその時から清水が湧き出て涸れることがない。その楊枝から芽が伸び葉が出て大きな柳の木となった。人々はこれを根無し柳といい、その水を出水川と呼びその地を出水門と名付けた。この出水川一水の力で田穀の熟すること幾千石かわからない。水源の川中に一岩州があり、州上に弁財天祠が建ててある。神体は木像である。ここには竹橋を架けて往来を通じている。元禄六年(1693)の梁文があり、文中に出水川の由来緒及び弁財天祠の開基は性空上人であること等を記してある。(『日向の伝説』)
    明治元年七月現在の社名に改め今日に至っている。

    電話番号
    (0984)33-2722
    郵便番号
    889-4232
    住所
    えびの市大字西長江浦393番地
  • 加久藤城竈門神社(かくとうじょうかまどじんじゃ)

    加久藤城竈門神社(かくとうじょうかまどじんじゃ)

    加久藤城跡の頂にあり『三国神社伝記』によれば、島津忠平公が在城の折、城内守護のため元亀三年(1572)勧請と伝える。天正三年(1575)十一月八日、家久公誕生のときに植えた杉は天保年間大風で倒れたが、その後植継がれ、誕生杉として今に残っている。旧称三社大明神として、妙見大菩薩、水天、荒神を奉祀していた。『日向地誌』によると、祭神は武主比命、奥津日子、奥津日姫を合祭すとあり、通常寵神とされている。奥津彦、姫命のほか斎火武主比命を祀ったものであろう。
    明治元年七月三社神社と改称、さらに同三年六月竈門神社と改称し、同五年一月村社に列せられる。
    ○史跡 加久藤城(昭和四十九年一月二十四日 市指定)
    島津忠平公(義弘)は、永禄七年(1564)五月加世田より北原氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、現在地に移った。時に三十才であった。同年十一月十七日、城主北原兼親が伊集院に、移封されると同時に飯野城に移った。加久藤城には五男一女をもつ広瀬夫人を置き、老臣川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。加久藤城は元亀三年(1572)五月四日木崎合戦において、伊東勢攻撃の主目標となったが伊東勢は攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫した。

    電話番号
    (0984)33-0481
    郵便番号
    889-4222
    住所
    えびの市大字小田1100番地
  • 加久藤神社(かくとうじんじゃ)

    加久藤神社(かくとうじんじゃ)

    創建は『三国名勝図会』によると、天智天皇白鳳七年二月、大職冠藤原鎌足公の命により勧請し加久藤に崇めた村内の総鎮守である。往古二ノ宮現王社と奉称し、天正四年(1576)鹿児島初代藩主島津家久が加久藤城に生まれ、産土神として松齢公深く崇敬し茲眼公(家久)は二宮大明神と改め、慶長七年(1602)十二月二十一日、神領三十石を寄進、神領二十石加増された。例祭九月十日、松齢公当郷在城の時は祭日にはみずから参詣したと伝える。
    明治元年七月二日二宮神社と改称、さらに明治三年加久藤神社と改称、明治五年郷社に列格、明治十年島津家久が建立した社殿が西南の役の兵乱のため焼失、明治十四年三月、本殿造営に着手、七月二十七日ご遷座祭が執行された。昭和十年三月、熊本市藤崎八幡宮の拝殿を買受けて完成、神社の尊厳は一変し、現在に至る。
    家久が別当寺として建立した高連山福生院二之宮寺は大乗院の末寺の真言宗寺院で、本尊は十一面観音、開基は果融で神社の北にあったが、明治三年廃寺となった。御祭神は足仲彦尊ほか十一柱という記述もある。
    また当社では、七月三十一日輪くぐり神事として夏越祭を行う。

    電話番号
    (0984)33-0481
    郵便番号
    889-4221
    住所
    えびの市大字栗下943番地
  • 白鳥神社(しらとりじんじゃ)

    白鳥神社(しらとりじんじゃ)

    当社は、約1050年前に性空上人により御創建され、樹齢500年の御神木をはじめ10数本の古木がそびえ立つ。本殿の雲龍巻柱、唐獅子牡丹など彫刻が見ものである。
    白鳥山の北側山腹に鎮座し古く六所権現とも称した。社伝によると、村上天皇応和(また天暦とも言う)年間、京都の僧、性空上人日州霧島に来たり、白鳥山頂六観堂で修行していた時、老翁が現れ「我は日本武尊なり、来たりてこの山に住む事久し、汝我がために神社を設けよ」と託宣、たちまち白鳥と化して飛び去った。性空、この託宣により社を創建し、聖観音を本地とし、さらに別当満足寺を造営したという。軍神として古来より崇敬を集めていた。天正四年(1576)九月、島津義久が当社へ参詣しており、その後も島津家代々崇拝していたとみられる。天正二十年(1592)四月には、当社領三十町が諸役免除となっている。特に島津義弘は信仰厚く、慶長六年(1601)から十年にかけて新たに社殿を造営し、神領二百石を寄進している。その後、戦勝祈願の神として島津氏は、たびたび当社で祈祷を行い、勝利感謝の寄進をし篤く崇敬していた。
    明治維新後白鳥神社と改称、明治三十八年県社に列し、同四十年二月神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。社殿の竜の彫物は江戸時代末期のもので、その他の建造物は昭和十年再建のものである。大東亜戦争前には、例祭に天鈿女命の舞である神化舞が奉納されていた。別当満足寺は白鳥山金剛乗院と号し、はじめ天台宗であったが、応永年間光尊阿闍梨が真言宗として再建した。光厳の中興後、大乗院(現鹿児島市・最大乗院)の末寺となった。『三国名勝図会』によると、往時は参詣客も多く隆盛であったが、明治三年廃寺となった。

    電話番号
    (0984)33-5311
    郵便番号
    889-4302
    住所
    えびの市大字末永1479番地
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)

    八幡神社(はちまんじんじゃ)

    『日向地誌』によると「村社八幡ニアリ社地二畝二十歩応神天皇ヲ祭ル例祭陰暦十一月十五日」とある。
    当社由緒については、古記録・旧記等現存せず不詳である。

    電話番号
    (0984)33-3686
    郵便番号
    889-4301
    住所
    えびの市大字原田1303番地
  • 諏訪神社(すわじんじゃ)小林市

    諏訪神社(すわじんじゃ)小林市

    当社の創建は不詳であるが、ご神体の神宮型高さ30センチ程に「天正9年(1581)2月15日」と記録されている。
    元禄11年(1698)「小林神社仏閣寺院改帳」には、北西方の内岡原とある。当時諏訪大明神と称した。社司黒木佐土の申告では、神領2反があったが、のち召上げられ自分が祭祀している由来は知られないとある。幕末の「小林誌」にも、岡原にあり、先例により地頭所より祭米7升5合を奉るとあり、明治10年頃現在地種子田にあった宇賀神社と合祀されたと思われる。宇賀神社は、「小林誌」によれば霧島宮の末社であり、ここは往古、神の御骸に稲が生えたのを採って種子として蒔いたところで、御田地という20歩ばかりの水田がそれである。種子田の地名は、これにより起こったものといわれる。
    この地区は特産である、なし、ぶどうの生産地域として発展し、なしに於いては100周年の歴史があり、ぶどうも50周年を迎えております。近年に於いては観光農園として地域観光地として賑わいを見せており、県内、鹿児島、熊本からの観光客の誘致につとめています。8月はじめの開園式には神前に於いて神事をお願いして、期間中の安全と盛況を祈願しております。

    電話番号
    (0984)22-3773
    郵便番号
    886-0006
    住所
    小林市北西方244番地
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)小林市

    菅原神社(すがわらじんじゃ)小林市

    由緒は詳かでないが、以前は現在の境内地から約四キロ離れた南西方巣の浦天神に祭られてあったのを、明治六年(1873)に現在地に遷座したとのことである。

    電話番号
    (0984)22-4531
    郵便番号
    886-0005
    住所
    小林市南西方2190番地
  • 愛宕神社(あたごじんじゃ)小林市

    愛宕神社(あたごじんじゃ)小林市

    鎮座地真方は、江戸期には鹿児島藩直轄領として、小林地頭が設置され、地頭仮屋は村内上ノ馬場にあった。創建は、元禄十一年(1698)の『小林神社仏閣寺院改帳』によれば、薩摩藩小林郷地頭諏訪仲右衛門兼安が、寬永十三年に島津家十九代家久公の武運長久のため建立とある。明治維新後、村社愛宕神社となり、さらに明治四十年二月神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。
    神社と直接の関係はないが、同地区に元亀三年(1572)島津松齢(義久)公の兵が、木崎原の役で戦った伊東勢の戦死者二百余人を葬った伊東塚があり、県史蹟に指定されている。

    電話番号
    (0984)22-4531
    郵便番号
    886-0007
    住所
    小林市大字真方42番地
  • 霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)

    霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)

    往古霧島岑神社は高千穂峰の中腹瀬多尾(瀬戸尾ともいう)の高地に鎮座されていた。
    承和四年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預り、のち従五位上を授けられる(『続日本後紀』)。天安二年(858)従四位下に叙せられる(『三代実録』)とあり、『延喜式神名帳』には日向の国式内四座の一つであると記されている。天慶天暦(十世紀)の頃性空上人が霧島岑神社に参籠の折山麓五方に夷守神社外四社を創建し本社である霧島岑神社(別名・霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称した。また、当社の鎮座地を瀬多尾といったので瀬多尾権現とも称し、別当寺を瀬戸尾寺と称したと伝える。
    天永三年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し、社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧島王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。その地に座すこと四八〇余年、享保元年(1716)新燃岳の噴火によって、社殿宝物類は焼失、ご神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが、新瀬戸尾の地は荒廃したので、享保十四年(1729)夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初頭まで鎮座された。その地を未だ築地という。
    島津氏からも厚く崇敬され、島津義弘が飯野城にいた頃は、特に当社を敬仰し、度々参詣した。また、島津義弘寄進状によると、神領として毎年俵物一〇〇ずつ寄進している。
    明治五年県社に列せられ、翌六年細野村に合祀の世論高まり、夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷した。明治十三年には霧島神宮(鹿児島県)の摂社となった。

    電話番号
    (0984)23-3364
    郵便番号
    886-0004
    住所
    小林市大字細野4937番地
  • 稲荷神社(いなりじんじゃ)小林市

    稲荷神社(いなりじんじゃ)小林市

    天正四年、小林が島津氏の領地となった後、かつて永禄九年(1566)十月伊東氏と激戦の地、小林市の北方水の手西岡、稲荷山に島津義弘公が、稲荷神社を建立したのが当神社の創祀と伝える。
    徳川時代の中期に至り、当時貨幣経済の中心地であった五日町(大字細野1908)に遷座して、商業者の鎮守社として崇敬された。
    昭和二年一月二十八日、及び昭和三年一月二日の大火で焼失したが、氏子崇敬者の献身的な努力によって再建された。しかし当市の経済発展による市街地の整備、並びに交通事情の変化にともない神社移転の議がおこり、市の公園敷地の一角で眺望絶佳な高台の此の地、永田平丘を聖域と定め、昭和四十一年九月、社殿の新築に着手し同年十二月六日竣工遷座した。

    電話番号
    (0984)22-4531
    郵便番号
    886-0004
    住所
    小林市大字細野2381番地27
  • 岩戸神社(いわとじんじゃ)

    岩戸神社(いわとじんじゃ)

    元禄十一年(1698)の『小林神社仏閣寺院改帳』に代宮司鹿口源左ヱ門「日州八幡の御子の由大宝元年十月十五日奉崇の由申伝」とあり、一二八五年前の建立と言う事になる。それには禄高二斗八升四合三勺八才の神領があった事が記されている。本社は大昔岩瀬川対岸の垣川内「野尻の内」に鎮座されていたが、洪水のため流されたので、堤の観音原に奉遷したという。観音原に坐しますこと二、三百年してから野火のため社殿が焼失したので、約二百年前に現在の地に新築遷座した。最初は現鎮座の真下現在道路になっている処に遷座したが、雨毎に土砂が上から流れ来て社殿も埋るばかりであったので、嘉永二年己酉(1849)九月二十二日現在地に鎮座したとの棟札が現存する。
    明治六年村社に列せられ、同四十年二月には神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。
    特殊神事として神楽「岩戸開・剣の舞・薙刀の舞」の三舞ある。

    電話番号
    (0984)33-2722
    郵便番号
    886-0003
    住所
    小林市堤4447番地
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)小林市

    熊野神社(くまのじんじゃ)小林市

    当社は、慶長年間(1596~1615)に、島根県熊野村を、現在の宮本の地に勧請したと伝える。社殿を造営し、東方地方の氏神として住民の守護神として篤く崇敬し、東方の繁栄と幸福発展のため、祖先の方々により相伝えてきた社である。
    その後幾度かの神殿の改築または修理補強をしてきたが、大正10年現在の社殿を造営し、今日に至っていた。以来60年余の年月を経たため、腐蝕はなはだしく、この際大修理をすることにし、昭和53年12月氏子崇敬者の方々の奉賛金により修理完成し、現在に至っている。
    明治6年村社に列せられ、さらに大正12年6月神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。櫛御気能之命とは奇御木主もしくは奇御饌主の意で、素戔嗚尊のことである。

    ※末社 陰陽石神社(いんようせきじんじゃ)
    由緒
    創立は不詳ですが(文政年間約150年くらい前)浜之瀬川の大出流水で流された天保8年秋再建され、明治初年度再度流され下流山の中に再び建立された。昭和42年熊野神社役員総代により現在地に建立された。
    天下の奇石陰陽石は、昇天の竜がこの地に居合わせた妙齢の美人に見惚れて降りて、そのまま化石となり名勝陰陽石になったといわれている。
    この神社は古来より縁結び、安産、農業工業商業あらゆる産業の開運の神髙皇産霊尊が祭祀されており、どんなことでも1言祈願すれば必ず霊験あらたかにして、遠路わざわざ詣でる人々も多く、旧藩時代には藩主が神司を遺し多くの領民を集めて生成化、五穀豊穣と領民の達福を祈願された事もあるとあると伝えられ、陰陽石神社と呼ばれるようになって今日に至っています。
    明治の詩人野口雨情の歌「浜の瀬には2つの奇石人に言うなよ語るなよ」

    郵便番号 886-0001
    鎮座地 小林市東方陰陽石3341番地6
    問合先 小林市東方3209番地
    電話 (0984)22-7499
    < 御祭神 > 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
    伊邪那美命(いざなみのみこと)
    伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
    高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
    大山祇命(おおやまつみのみこと)
    < 御神徳 >縁結び 安産 農業工業商業繁栄
    < 創立年月日 >不詳
    < 例祭日 >9月23日
    < 主な祭典 >9月23日 こばやし陰陽石まつり
    < 文化財 >< 駐車場 >有り(50台)
    < 最寄ICからのアクセス >小林ICより東方・須木方面に約10キロ
    < 最寄駅からのアクセス >小林駅よりタクシーで約15分

    電話番号
    (0984)22-7499
    郵便番号
    886-0001
    住所
    小林市大字東方3076番地
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