宮崎県の神社
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水神社(すいじんじゃ)
由緒不詳であるが、明治初年神名帳所載神社として取り扱いを受け、明治年間に社殿造営以後二回にわたり改築された。
昭和二十六年十月十四日襲来したルース台風により社殿が倒壊したので、氏子協力復旧に努め昭和二十七年三月新築社殿竣工し、厳粛に遷座奉告祭を執行した。電話番号(0984)42-4114郵便番号889-4411住所西諸県郡高原町広原144番地 -
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
猿田彦神社または庚申堂として、狭野住民が古くより信仰してきた神社である。庚申信仰のわが国の歴史は古く、北野神社祭神菅原道真公も、庚申の夜を歌った漢詩を残している。猿田彦神社は県内でも少なく、当地はこれが一社である。当神社は昭和三十三年十二月十八日に造営移転を行い、その際豊受姫之神を合祀奉斎した。また馬頭観音の由緒書があり、それによると霧島山中の六観音社より直接勧請して、当地方観音として古く霊験著しく崇拝者多く、昔伯楽(獣医のこと)稲田万ヱ門生来観音と称し万人の信頼厚く先祖代々の名伯楽と記している。当観音は近代の得手勝手に取り立てる物とは異なり、毅然たる由緒にもとづいて記録するものである。
なお文政二年(1819)卯二月修理の事また修理寄付人、青銅二百文宛坂口右膳以下数十名の寄付人も記載され、古い神社を伺わせる。電話番号(0984)42-4114郵便番号889-4414住所西諸県郡高原町大字蒲牟田190番地 -
山祇神社(やまつみじんじゃ)
従来加久藤村大字東川北字寺園に鎮座し、山神と称し崇敬してきたが明治三年庚午六月山祇神社と改称し、明治五年壬申正月村社に定められた。明治二十三年五月、氏子協議の上同村同大字彦山、無格社・忍骨神社(祭神、天押穂根命)境内に移転を申請し、同年八月許可され、明治二十四年一月一日社殿新築落成につき移転遷座祭を執行した。
電話番号(0984)33-2722郵便番号889-4244住所えびの市大字東川北1035番地 -
妙見神社(みょうけんじんじゃ)
『日向地誌』によると、「原田村・妙見神社小社大迫にあり 社地九歩 例祭陰暦八月十五日」とあり、これが当社にあたるかと思われる。昔ある時期には、御神馬としての白馬も奉納されていたとも云われている。
創建は景行天皇の代にまで遡ると云われているが不詳である。景行天皇の世に日本武尊が熊襲を征討したが、当地とも縁が深く、白鳥神社には日本武尊を、当妙見神社には、妃の弟橘姫尊を祀っている。記紀にも国の平定のために奔走する日本武尊を陰から支え続け、最後は自らの入水によって尊を救命している逸話が記されているが、当社においても日本武尊を見守るかの如く白鳥神社を仰ぎながら鎮座している。電話番号(0984)33-2722郵便番号889-4301住所えびの市大字原田1582番地 -
中島神社(なかしまじんじゃ)
『日向地誌』によると、原田村・王中島神社として「小社向麓にあり 社地十一歩 日本武命を祭る 例祭暦十一月二十八日」とある。
電話番号(0984)33-3888郵便番号889-4301住所えびの市大字原田3985番地 -
相馬神社(そうまじんじゃ)
元亀三年(1572)島津氏と伊東氏の間で戦った木崎原合戦の後に馬疫が流行した。それは合戦に敗れて滅亡した伊東氏の怨霊のためだと考えられ、それを鎮めるために創建されたのが当社であると伝える。もとは馬頭観音として堂宇が建立されていたという。
『日向地誌』によると、原田村・相馬神社として「小社本地原にあり 社地十五歩 相馬将門を祭る 例祭陰暦八月十五日」とあり、これが当社にあたるかと思われる。電話番号(0984)33-3888郵便番号889-4301住所えびの市大字原田2030 -
羽山積神社(はやまつみじんじゃ) 狗留孫神社
社殿は熊本、宮崎県境に近い狗留孫山の半復なる巨石上に建つ。この岩を右旋回すれば祈願成就するといい、「打御腰めぐり」とこれを呼ぶ。またその東一町の所にある巨石の周囲にも「廻旋路」があるが、これを回るのを「外御腰めぐり」と呼んでいる。
『日向地誌』によると、本社の南に昆比羅祠があり、これを俗に天狗の宮と称し、天狗の住むところとして土地の人が恐れ、午後四時を過ぎると参拝を禁ずと記し、昆比羅祠の修繕に工師が天狗伝説を利用したことも記録している。
祭神は紀伊国熊野神社と同じで、旧称を熊野三社権現といったが、明治八年現社名に改称したという。祭神は現祭神のほか、伊弉冉尊、応神天皇、開山千光国師という別の記述もある。この地は、神武天皇東征にあたり稲を蒔き、その豊熟を祈願した所であるから、「飯野村」の名が起こったとも伝える。
また羽山積神社別当寺である羽山寺(端山寺)は、千光国師の開山とされ、これより西二町余りの所にあり、真言宗鹿児島大乗院の末寺であったが、明治時代初め廃寺となる。『三国名勝図会』によれば、旧称熊野権現といい、栄西禅師の勧請と伝え、さらに次のような伝説を伝えている。狗留孫山には熊野権現社がりその別当寺を端山寺という。太古二竜王があった。健盤竜王と婆竭羅竜王とである。健盤は狗留孫仏に請うて一本の石率都婆を建てた。そして彼等は前者には大般若経を書し、後者には法華経を写した。今の率都婆石・観音石がそれらである。昔栄西禅師はこの山に来て石率都婆を拝した。そして山の嶺に祠を建てて熊野権現を勧請し、端山寺を創建した。山名を狗留孫というのは率都婆石の伝えからついたので、この石を拝する者は無始の罪障を消滅し、頓に菩提の果を証すという。電話番号(0984)33-5311郵便番号889-4314住所えびの市大字大河平902番地 -
豊受神社(とようけじんじゃ)
六観音池の湖畔上の山中にあり『三国名勝図会』によると「六観音池は白鳥山上にあり白鳥山は高深の山林なるに其上にあり天然の池なり周廻一里余深さ測るべからず或は云二十尋、碧水湛然として郡峯影を浸す。霧島山中四十八池の一なり、白鳥山満足寺記録に往古(村上天皇の御代)性空上人此池の辺に在て、法華を読誦しけるに、白鳥権現(日本武尊)出現す、因て手自ら六観音の像を彫刻して、白鳥権現出現の処に、仏宇を建て安置せり、因て六観音池と名付く、また御池と呼ぶ、六観音は、霧島山六所権現の本地なり」とあり、当社が昔より六所権現の一つであると言い伝えられているゆえんであろう。『日向地誌』には「白鳥嶽の絶頂にあり、日本武尊を祭る、例祭は白鳥神社と同じ」とあり、現祭神の大食都姫神は豊受大神宮の祭神豊受大神と同一神であり、食物を主宰する産霊の大神である。
現在では、五月八日の例祭の日に、特に牛馬の守神として、八日の未明より夕方まで県内各地はもちろん鹿児島県の各地より参拝客は長蛇の列をなす。また県外遠方よりの修行者の参拝も年間を通して多数にのぼる。電話番号(0984)33-3888郵便番号889-4302住所えびの市大字末永1485番地 -
大年神社(おおとしじんじゃ)えびの市
創建不詳なれど、棟札に「維時享保十六年(1731)辛亥年 一、奉再興興歳神大明神拝殿一宇 三月吉良辰(以下省略)」とある。
明治四十五年七月十四日、えびの市大字内竪鳥居山から現在地に遷座。その後荒廃したため大字内竪の氏子達が東内竪の区民を主体に、昭和五十五年四月二十日再建。古来旅館業者・商売繁盛祈願の参拝者等も後を断たず、保存の田之神舞、兵児踊等も例祭その他折にふれ行われる。電話番号(0984)37-1199郵便番号889-4162住所えびの市大字内堅1502番地・1507番地・1508番地1 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)
弘安四年(1281)蒙古の役に武功があった河野伊予守通広(社家、境田新左衛門祖先)、の四世の孫通安が、明徳三年(1392)薩州伊佐郡祁答院に移住、堺田村に小社を建て天満神を安置した。その子伊予守通正の代に日向西諸県郡真幸院吉田に移住、北原氏の家臣となり、これより河野改めて境田氏という。通正建山の上に天満神社を建て吉田の鎮守とする。その孫境田藤右衛門長友当社を再興。長友が孫境田対島守満元享禄四年(1531)辛卯天満社を槻ヶ牟礼に遷す。その子孫世々社職である。島津義弘公義久公等当社を崇敬し天正十年(1582)五月二十五日義久公和歌を宝殿に納め、慶長十九年(1614)七月には義弘神領二十石を寄進したが、のち没収された。又義弘公光久公連歌を奉納した。元禄十三年(1700)庚辰二月三日社殿焼失、同十六年(1703)三月新築する。この時、ご神体は川上の柳原の地に飛び去り少しも損傷がなかったため、飛び神像と称されるようになった。
当社の旧址建山の上は自田を開くことを禁ずる。もし禁を侵すものあれば、その人必ず殃禍を受けるという。祭祀年中三度、二月卯日(打植祭)六月二十九日(夏越祭)、十月二十日がこれである。十月二十日には華表の外に神輿を守り下て、神楽を奏する祭典がある。これを浜下りという。浜下の所にて、別に供物を碗に盛り、社司飯野白鳥山に向かって、これを白鳥権現に献ずるとする。社司を押領司氏、別当を観音寺という。当吉田郷の総鎮守であり、当社は古来種々の霊験著しいとして、人々敬仰し、参詣の徒が絶えない。
当社は、現在、二月十一日の建国記念祭が定着して盛大となり、七月二十五日・夏越祭の茅の輪くぐりは昔ながらに継続され、十一月二十三日の新嘗祭も「ホゼ祭」の名で親しまれ、伝統を保持して関心を増しつつある。○菅原神社(天満大自在天神宮)の仁王像 市指定文化財(平成七年七月十七日)
仁王像二対の制作者は、毛利七右衛門で、享保十年(1725)四月二十一日八代将軍吉宗の時代に建立されたもので、精かんな風貌をして郷土を守護してきた仁王像である。電話番号(0984)37-1199郵便番号889-4163住所えびの市大字水流574番地 -
岩谷神社(いわたにじんじゃ)
『日向地誌』に諸県郡吉田郷岩谷神社として「村社なり 岩谷にあり 社地九畝二十六歩 日本武尊を祭る 例祭十一月十八日」とある。棟札によれば、寬永十二年(1635)二月、明治六年二月に再興されている。明治五年村社に列格、同四十年熊野神社、若宮神社を合祀し現在に至る。
電話番号(0984)37-1199郵便番号889-4151住所えびの市大字向江377番地 -
岡松神社(おかまつじんじゃ)
真幸院司北原久兼が明応元年(1492)十一月二十三日、吉田郷岡松村に猿田彦命を祭る大明神を創建したのが始まりと伝える。所蔵の記録によれば、天文十七年(1548)五月、真幸院司北原祐兼により再建。寬永七年(1630)三月、島津家久により再建。その後、文化五年(1808)四月、島津文興まで歴代島津氏より数回に渡り、再建が繰り返され、厚く尊崇された社であった。明治十年六月西南の役で全焼したが、同十七年岡松村氏子の協力により再建された。明治五年村社に列格、同四十年天御中主神社を合祀し現在に至る。
電話番号(0984)37-1199郵便番号889-4161住所えびの市大字岡松1434番地