宮崎県の神社
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八幡宮(やはたぐう)
当社は、第五十三代淳和天皇の頃、天長八年(831)九月十三日豊前国の宇佐神宮の分霊を国富荘袖巻の峰に勧請、九月十六日に幣帛をささげて初めて祭礼が行われたと言う。天喜五年(1057)諸県荘開発の時の創建ともいわれるが詳細未詳。歴代領主より社領が寄進され、九月十六日の祭礼には領主伊東氏の社参があった。暦応元年(1338)春、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた際、源家鎮護のため一国三部を定めたが、当社はこの地方の宗社となった。天正五年(1577)の伊東義賢の社参記事によると、社参は騎馬または徒歩で行われ、太刀や鏡を奉納した。伊東氏の後は薩摩島津氏領となったが祭式や神領などは旧来通りであった。その後天正十五(1587)豊臣秀吉西征の時、羽柴秀長大軍を率いて本庄に駐し、当社の大宮司に軍糧を乞うたが、宮司はこれを容れなかったため、兵士乱入して火を放ち、宇佐伝来の宝器や旧記・経巻などを焼亡散失したという。慶長十八年(1613)公領となり、神領元のごとく、元和二年(1616)有馬領となり、祭事神領等元に復す。寬永元年(1624)有馬侯は神宮寺を建て、同九年十月当寺の住僧迦葉院を別当に補した。同十一年に藩主有馬直純が神殿を再興したが、元禄元年(1688)には幕府領となり、さらに社領を定めて維新に及ぶ。八幡宮由来伝記並び寺譜」に「天正十五年(1587)羽柴軍乱入の時、田部・宮永・鳥成・漆島の輩・纔拾人、三十六坊之内四ヶ寺、学頭万福寺・西光寺・寿命院・泉蔵坊、遁横死宮仕」とある。
伊東・島津・有馬・徳川領と変遷を経たが、常に領主の尊崇が篤かった。電話番号(0985)75-4035郵便番号880-1101住所東諸県郡国富町大字本庄7903番地 -
日吉神社(ひよしじんじゃ)国富町
当地区の古老等は、未だに当神社を山王様と愛称しているが、旧社名は三弓宮山王社と敬称されていた。この三弓宮について、代々当神社に奉仕の神職宮永家相伝の古文書に次のごとく、記された条が見られる。
「犬熊村は昔、黒山にありければ、老熊すみて、時々出て人を食ふ。土人畏るること限なく、人種将に尽んとする時に、景行天皇御巡幸ありて、当所を過させ給ふ。乃ち件のよしを聞召し給ひて、自ら弓を採らして、山に向はれ、壱発射中て、亦射んと為たまふに、曾々御弓三ツに折ければ、老熊は、支社狂ひに狂ひて、今や天皇に飛掛らんと見えけるところに、いずくともなく壱頭の白犬走来て忽ち彼老熊を噛殺しぬ。因て、其処に彼の三折の弓を埋め且つ、かの白犬は神と祝ひ奉らせ給ひけり、即ち、犬熊村三弓原と云は此縁也となり。
其時帯持給ひし藤巻御剣を真名井の上原に納め給ふ。之に因て、剣壟大明神と称奉るとなん。其時祝ひ奉せたまひし祠は、今の山稲荷大明神、是なりと云へり(後略)」
なお、三弓宮山王社は、平安時代、清和天皇の御代、貞観(859-877)年中には、すでに奉祀されていた節が、これらの古文書中に散見されること等から推して確たる創立年月日は、定かでないが、かなり、古代から当地区の氏神として尊崇奉祀されていたものとみられる。
なお、かなり昔時から、毎年七月二十日(土用)境内において相撲を奉納し地区内の安全祈願祭を斎行している。明治四十四年十一月、日吉神社に稲荷神社(祭神、倉稲魂命)、八坂神社(祭神、須佐之男命、大己貴命、稲田姫命)、三社稲荷神社(祭神、倉稲魂命、太田命、大宮姫命)、九社稲荷神社(祭神、倉稲魂命、稚彦霊命、大国主命、事代主命、太田命、大宮姫命、猿田彦命)、大土神社(祭神、大己貴命)を合祀し現在に至る。電話番号(0985)75-2549郵便番号880-1101住所東諸県郡国富町大字本庄2087番地2 -
嵐田神社(あらしだじんじゃ)
当神社の由緒沿革等については不詳である。当地区の徳川末期の所属は、木脇村と同様に、秋月氏(木脇分知)の旧藩領であり、古くから敬神崇祖の念の極めて厚い土地柄であった。境内神社として、若宮神社、祭神事代主命、大名持命、素盞鳴命、稲田姫命と、大土神社、祭神猿田彦大神とがある。
電話番号(0985)75-2259郵便番号880-1103住所東諸県郡国富町大字嵐田814番地 -
飯盛神社(いいもりじんじゃ)
掃部岳南東麓、深年川の中流域字飯盛に鎮座し、地内には国史跡の本庄古墳が点在する。由緒は不詳であるが、旧称飯盛権現と称し地元の人々に親しまれてきた。明治三年現社名に改称され、明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
境内神社として、熊野神社(祭神・伊弉冉命)、地主神社(祭神・大国主命、倉稲魂命)が祀られている。当社の鎮座する飯盛には次のような伝説がある。
昔第一代の国造が猟をなさっての帰途空腹を感じられた。そこで乙女達は我先にご飯を山の如く盛って奉った。国造は大いに喜ばれてたくさんおあがりになった。このような訳から飯盛という字名が起きたといわれている。今もこのほとりの社のお祭りには村民は御飯を大椀に山のように盛ってふるまう。(『日向の伝説』)電話番号(0985)75-5450郵便番号880-1108住所東諸県郡国富町大字須志田3322番地 -
大原神社(おおはらじんじゃ)
当社創立年代は詳らかではないが、山城国大原野より勧請したと伝える。釈迦郡兵部の旧記に「伊賀王、大望ノ事アリテ心願込メサレシニ其ノ石二ツニ破レタレバ御止メニナリタル 霊験アラタカナル神石」とあり、この破れた神石をご神体として祀ってある。
昭和六年十二月十三日林行治町長の時、この神石の由来を町当局が知り、補助金を歳出し、神問石社の改建を行い、また城屋敷、伊賀王お休みの旧址並びに御神井等に石碑を建立するなどして、その顕彰を行った。
当地区は、旧藩時代、秋月氏(木脇分知)に属しており、武神を奉祀してある。当社の例祭日には、昔時より氏子による勇壮な俵踊等を奉納する習わしがあった。
境内神社として、若宮神社、祭神天押雲命、神問石社、祭神木花開耶比咩命がある。電話番号(0985)75-2259郵便番号880-1102住所東諸県郡国富町大字宮王丸498番地 -
太田原神社(おおたばるじんじゃ)
当社は、従前から霧島神社と称し、太田原地区内に奉祀してあった。稲荷神社及び大歳(土)神社を当社に合祀の際、すなわち明治四十二年十月十一日付、社号改称を願い出たところ、同年十一月十九日付、宮崎県知事より許可。同年十二月二十日遷座奉告祭を斎行し、太田原神社と改称して奉祀することとなり、現在に至っている。
電話番号(0985)75-2549郵便番号880-1101住所東諸県郡国富町大字本庄字太蔵元901-ロ -
金刀比羅神社(こんぴらじんじゃ)国富町
由緒不詳であるが、国富町南東部大字本庄に鎮座する。地内には古墳が多く、本庄古墳群として五十七基が国指定の史蹟になっている。当社も古墳の一つである天の塚上に鎮座している。明治四年辛未十一月合祀されていた村社・剣柄神社より復旧、明治五年壬申七月許可される。境内神社として秋葉神社、祭神軻遇突智命がある。
電話番号(0985)75-2259郵便番号880-1101住所東諸県郡国富町大字本庄4441番地ロ号 -
剣柄稲荷神社(けんのつかいなりじんじゃ)
国富町の中央台地、本庄古墳群第38号墳の上に奉祀してあり、創建は景行天皇十二年壬午十一月とも、同天皇三十二年十一月ともいわれ、古くは剣柄稲荷神社、本庄稲荷神社と称したが、治承四年より現社名に改称したと言われる。
当社の鎮座する古墳墓剣の塚は、神武天皇の御兄彦稲飯命の陵とも、あるいは景行天皇の御妃の御刀媛命の陵とも言われる。また日本武尊が熊襲裊師を刺したる御短刀を埋蔵した塚とする。また日本武尊が剣玉の誓いをなせし時の御剣の柄を納めたものといわれる。あまりの古さに諸説が多い。境内には、樹齢約1000年と伝えられる樟の大木をはじめ、古杉が残り、元の天然記念物のイチイカシの古株と共に当社創建の古さがうかがえる。この樟の大木には、幹に巾着型の穴が空いており、5円玉を投げて1回で入れば金運・くじ運に恵まれると言われる。また樟の根元には、うつ伏せになった男性の姿に見える根っこがあり、不老長寿の木とも言われている。
本庄の地名の由来は、中世の荘園経営の中心「本所」にちなむといわれ、昭和九年、前方後円墳、円墳など五十七基が本庄古墳群として国史蹟に指定された。前方後円墳のほか、玉依姫陵墓伝説などとともに、剣塚古墳がある。そのほか県史蹟の横穴古墳もある。
御神饌は、三度の大祭には、それぞれの御祭神に大三宝に盛りつけをしてお供えをするという独特の珍しいものである。
尚、境内に豊国別命(とよくにわけのみこと:日向国造の祖)、老男命(おいおのみこと:日向国造)を祀る摂社(国造神社)がある。
旧二月の初午大祭には大力餅運びが競われる習慣がある。総重量百キロを越す紅白の餅を大きな三方に飾って運び、運ぶ時間の長さを競うものである。大人・子供の部とあり、苗木市も有名である。
夏祭には、歌舞伎人形を造り舞台に飾る。「ヨイマカ」は当社の夏祭りに担がれる神輿で、江戸中期以降繁盛した本郷の豪商、和泉屋、枡屋などが大阪あありから移入したと伝える勇壮な出し物である。おみこしの御旅所である六日町区の若者が少しでも永くおとどめしたいとの念願から、おみこしさまの御前にて暴れる様子は手に汗がでる。
霜月二十四日祭には氏子崇敬者参拝者には御供、おみきなどが社務所で振る舞われていたが、現在では車などの事情からその数も減った。初午当日に今はその趣きをとどめる程度である。電話番号(0985)75-2259郵便番号880-1101住所東諸県郡国富町大字本庄4845番地 -
衾田八幡宮(ふすまだはちまんぐう)
淳和天皇の御代、天長7年庚戌9月宇佐宮の御分霊を鎮座し奉り(本地・阿弥陀薬師観音)の三名郷宗廟の神社として、元衾田八幡社と稱した。建久元年工藤祐経公は日向国守護職となり、衾田八幡社領として高300石奉納される。伊藤義祐公、天正5年都於郡落城し、天正15年秋月長門守種長公領となる時に武運長久・国土安全祈願のため、社領高300石奉納さる。歴代の領主藩主更には一般庶民により崇敬され、藩政には社録が付さる。毎年大祭には幣帛が供せられ明治維新後神餅幣帛料供進社に定められ、社号衾田神社と改稱し社格郷社に列せられる。昭和58年8月社号衾田八幡宮と改稱す。
末社7社、摂社5社を有する。
当宮では、旧暦6月15日(前土日曜)に夏越祭りが行われ神楽奉納があり、氏子の無病息災を祈り、又家内安全、交通安全を祈願する子供みこしを子供達が威勢よくかつぎ町内を進行します。電話番号(0985)75-4334郵便番号880-1114住所東諸県郡国富町大字三名1982番地 -
赤池神社(あかいけじんじゃ)
当社は、淳和天皇の御代天長八年辛亥3月、木脇郷総廟赤池大明神と称して鎮座したと伝える。建久元年(1190)に工藤祐経が日向国守護となり社領を寄進したのをはじめとして、歴代藩主より崇敬を受けた。江戸期は高鍋藩主秋月氏に崇敬され、武運長久、国家安全を願い社領五百石が奉納されたと言う。貞享三年(1686)の『高鍋藩寺社帳』によると、本地仏は正観音と虚空蔵正月一日、三月三日、五月五日、九月九日、十一月十二・十三日に祭礼があった。
明治維新後、旧称赤池大明神を現社名に改めた。明治五年郷社に列格。十一月十五日の例祭では、古例にのっとった神馬神事が行われる。摂社として旧村社・大土神社(祭神・猿田彦命)を祀る。
旧社殿(昭和十二年竣工)が老朽化の為、平成十七年六月起工し、平成十八年二月に竣工、遷座祭が斎行された。電話番号(0985)75-8352郵便番号880-1113住所東諸県郡国富町大字木脇1437番地 -
地主神社(じぬしじんじゃ)
当社の由緒は不詳であるが、『日向地誌』に諸県郡高岡郷・地主神社として「村社なり 上江にあり 社地八畝十八歩 天児屋根命を祭る 例祭は十一月十六日」とある。
明治七年六月、村社に列せられる。昭和四十六年上江より北東の現在地に移転した。地区内に昭和十一年県史蹟に指定された古墳が点在しており、塚原の名もそれにちなむという。電話番号(0985)75-8352郵便番号880-1112住所東諸県郡国富町大字塚原175番地 -
三島神社(みしまじんじゃ)
国富町東南端、大字岩知野中村に鎮座し、もと三島大明神と称した。当社の創建は『神名録』によれば、寬永十一申戌年(1634)建立とあるが、永禄六年再興(『宮崎県地名大辞典』)の記事も見えることから、詳細は不明。当社の下の地は、昔、沼で、三つの島があったので三島の社名が起こったといわれる。明治初年、三島神社と改称し、村社に列せられる。境内神社として、大土神社(祭神・猿田彦命)を祀る。
電話番号(0985)75-8352郵便番号880-1111住所東諸県郡国富町大字岩知野1165番地