宮崎県の神社
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稲荷神社(いなりじんじゃ)高鍋町
光明天応の暦応四年(北朝)、南朝では後村上天皇興国二年(1341)創立と伝える。屋敷一反。文政十年社殿修復、明治十年一月十四日火災、社殿焼失に付再興、二十四年洪水の為社地陥没、同年九月八日現地に遷座する。古来土民の尊崇厚く、旧高鍋藩より祭祀料等の寄付あり度重ねての諸祈願事も斎行されていたが、たまたま明細帳に漏れていた(貞享、天保両寺社帳にも記載されていない)。氏子並びに崇敬者は大正十一年一月十五日脱漏編入を願い出て、同十三年一月二十四日明細帳編入の許可があったと「児湯郡神社明細帳宮崎県」に記されている。
農業、商業、河川、家内安全の守神として特に薬効、中でも腰痛には効あると謂う。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0002住所児湯郡高鍋町大字北高鍋4288番地 -
大年神社(おおとしじんじゃ)高鍋町
創建は古く、孝謙天皇の御宇以前の創始と謂われ、『比木大明神縁起書』にも仁寿二年(852)と記され、比木神社祭神の母神を祀っている。
藩政時代の高鍋藩主秋月氏が代々尊崇した社で、神領地三段歩、屋舗一段一畝五歩、畑三段歩、田二段五畝歩、並びに毎年祭典料米二石、薪二十五駄、土器七束等寄進され、祭典には藩主の代参が恒例であったという。元禄の年には、宮永次郎右衛門を本社神主に命ぜられ、祭政一致に相応しい神事を斎行させ、国家の安泰を計り藩民の幸と政治の万全を期したといわれている。
昔は現在地より高い所に鎮座し、日向灘を航行する船を見守られていたと古老の言い伝えがある。旧社殿は東向きであったが、昭和二十年の台風で倒壊したので、昭和六十二年氏子は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を改め南からに開設した。
毎年十一月の初申の日、大年下りと称し比木神社御神幸の前日、即ち未の日に比木神社社人七人の内の一人は大年神社に来社、斎場を清め、当日即ち申の日比木神社の御神幸式には、比木代長照寺住職並びに宮田代宮田寺住職、比木神社社人等数人御供される等格式高く、庶民との関係も深かった。特に本神社は五穀豊穣を守護し給う神様として近郷より御初穂米を献上して祈願する人今にも多い。なお古来雨乞等執行された事多々あった。
明治四十年二月村社に列格。
国鉄日豊線開通の為、大正八年一月二十七日境内地に一部変更があった。電話番号(0983)35-3499郵便番号884-0005住所児湯郡高鍋町大字持田3762ノ1番地 -
愛宕神社(あたごじんじゃ)高鍋町持田
天保五年の寺社帖には当神社の記録があることから、それ以前既に創建されていたと思われる。
昭和五十九年十月二十三日、本殿、拝殿を新築しご遷座、拝殿は地区公民館を兼ねている。
当地区には何時の代に祀られたのか、毘沙門天、菅原大神、愛宕地蔵が地区の鎮守神として祀られてきたが、昭和二十四年愛宕神社の境内社として毘沙門天は遷宮された。他社は今に個人の氏神として祀られている。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0005住所児湯郡高鍋町大字持田1966番地 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)高鍋町持田
天延元年(973)十一月二十五日円融天皇の御宇高鍋町持田字岸ノ上二三一八番地に勧請されたと伝える。
明治五年、阿弥陀如来の神鎮まります勝光寺、高鍋町大字持田字勝利(すぐり)(呼名を上の塩入という)二九四一番地に別宮を御造営御遷座。地区の益々の融和と幸福を蒙ぶり敬神崇祖の念を深めたと言われている。
この様に当初は同一境内に菅原神社、阿弥陀如来と共にまつられていたが、時の人等菅原様のみをとの思いで阿弥陀様は川に流した。
しかしその阿弥陀様、流れるはずのものが悠悠と上流した、時の人これを恐れ再び持ち帰り菅原神社に合祀、今日に至っているといわれている。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0005住所児湯郡高鍋町大字持田2941番地 -
水天宮(すいてんぐう)
詳らかでないが口伝によれば、小丸川の流域でもあるが由に家屋の流失と田畑の流失等を恐れ、右の神様を斎き祀ったいわれ、九月午の日に斎行される駄祈念祭(水神祭)には、駄祈念踊りが今にも盛大に奉納、祭りの賑わいを増している。
水天宮は農業・漁業・航海業者に信仰が篤いのみならず子供の守護神、あるいは病難・火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえている。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0005住所児湯郡高鍋町大字持田796番地 -
美年神社(みとしじんじゃ)
創建は第四十六代孝謙天皇の御宇ともいわれる社で、棟札に奉再興文禄三年(一五九四)甲丑十一月吉日とある。
また、正保二年(一六四五)十一月吉日再興、
宝文元暦(一六六一)辛丑霜月十一日再興、
元禄二年(一六八九)己十一月吉日再興、
寬永五戊子年(一七〇八)立替、
享保十三年(一七二八)申十一月十八日再興、
寛政二年(一七九一)庚戌十一月十三日再興、
安政四年(一八五七)丁巳十一月吉日造替、
明治七年十一月二十二日造替、
明治三十年五月九日御造替、
昭和二十五年四月吉日再興とある。
また当神社は元の高鍋藩主秋月家代々の崇敬厚き社で常の参拝は勿論、例祭日等には祭典料として白米等献上し御参詣されていた。特に当神社は農業の神、福の神、厄除の守神として参詣が多い。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0005住所児湯郡高鍋町大字持田426番地 -
金刀比羅神社(こんぴらじんじゃ)高鍋町上江
古老の口碑によれば、近衛天皇の御宇に創建され、里人厚く尊崇する社であったが、天正年間大友宗麟乱入の際陣屋となり、棟札古器物等紛失したと伝える。当時の陣屋跡に土民相謀って飯長寺を建立し、住職を置き現在の建物を造営し、毎年四月十日、七月十日、十一月十日には盛大なる祭典を奉納した。七月十日には神社の御渡幸式があり、近郷の崇敬者多数が参拝に訪れた。明治四十三年八月稲荷神社(祭神 豊宇気比売命)菅原神社(祭神 菅原道真公)を合祀した。
金刀比羅神社は風除の神、五穀豊穣の神として崇敬され、各地より初穂米並びに御賽銭を献る者多数参詣する。
当社には大神事祭典として、近郷の崇敬者より大幣帛として御初穂米を奉納し、国家安泰、五穀豊穣、病気その他災祈禱、家内安全のため薪木七駄半を焚き、徹夜で三十三番の神楽が奉納されている。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0006住所児湯郡高鍋町大字上江1663番地ノロ -
舞鶴神社(まいづるじんじゃ)
品陀和気命、住吉三筒男神は、旧藩祖秋月春実が勅命によって藤原純友の乱を鎮めた時、八幡宮に祈って霊験があったので、天慶六年(943)筑前国夜須郡秋月村南宮岳に勧請し、秋月八幡宮と称した。天正十五年(1587)日向に移封の際、種長は高鍋城の左翼に祀った。菅原神は、天保三年(1646)二代藩主種春が秋月氏の旧領である太宰府の原廟として、高鍋城の右翼に勧請したものである。漢高祖、後漢霊帝、阿知使王は、初め筑前国秋月の白髪嶽に祀り白山権現と称していたが、日向に移封の際、八幡神社と同所に祀った。闇淤加美神、熊野三神は、八幡神社の摂社である。財部貞綱は、財部城建初の城主で、初め城内に小祠あり、享保五年(1720)種弘これを再興し、天神社と同所に祀った。
旧藩時代には、八幡神社の社領高二十石、白山神社二十五石、熊野神社料米一斗二舛、闇淤加美神社同一斗二舛、財部神社にも同様に寄進があり、頗る崇敬の厚い社であった。
明治四年七月廃藩に当り、高鍋の住民の総意により一社に合祀、更に秋月家歴世の神霊を合祀し、旧城名を取って舞鶴神社と称した。大正九年四月二日、秋月種樹公の霊を合祀、同十四年郷社に列格、昭和十七年十月十日県社に列格した。
当社は旧高鍋城内二の丸にあり、神門には奉納された柿原宗敬他の額二面があるほか、長友勘右衛門水路功績記念碑、高鍋藩境界標種樹公漢詩碑、寒山捨得石像、万歳亭があり、元の秋月邸跡地には資料館があり、上段には高鍋護国神社が祀られ、四季を通して参詣者が多い。また境内東はずれには、高さ約三十五㍍根回り十三㍍樹齢約五百年の大クスがあり、「高鍋のクス」として昭和二十六年六月九日に国の天然記念物に指定された。電話番号(0983)23-1728郵便番号884-0006住所児湯郡高鍋町大字上江1345番地 -
綾神社(あやじんじゃ)
綾神社の由緒は古く、天長年間(824~833)の創建で、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の三柱を正祀とし三宮大明神と称し、国の安泰・五穀の豊穣・家内安全を祈るところとして建立されたと伝える。
当社勧請については、次のような言い伝えがある。
「天長八年(831)この村の大空に八流の旗が流れ降った。人々は奇異の思いをなして打ち仰いだ。その時豊前の国宇佐の大宮司が七十五人を従えて尋ねて来た。彼等は宇佐八幡の『大空に旗を投げろ、その旗の落ちた処に鎮座して衆生を救おう』という託宣に従い、旗の後を慕って来たのであった。かくて、ここに三柱の神が鎮まりますことになったのだ」と伝える。また『日向地誌』諸県郡綾郷南股村・綾神社の頂に「(前略)旧称三の宮大明神と云ひしを明治三年庚午今の名に改む 相伝ふ本社元と本荘村神馬峰八幡宮なり 社祠宮永某の先神祇大夫実益故ありて綾に来り創建する所なりと年月詳ならす(後略)」とある。社司宮永氏の先祖宮永神祇太夫実益が勧請したとも伝える。実益はもと本庄村神馬峰八幡社の権祝であったが、当地へ移住、五ヶ所という地に祀った。その後天和元年(1681)現在地に遷座し旧地には小祠を建てて故宮と称した。
天和年間と天明年間に改築がなされ、明治初年には大修築を行い、町内二十五社を合祀して「綾神社」と改称した。以来百有余年神殿が著しく老朽腐蝕したので、有志相計り造営奉賛会を結成して募金をはじめ、昭和五十四年十二月神殿・社務所を新築、境内の整地、参道のつけかえ工事を完成した。電話番号(0985)77-1860郵便番号880-1303住所東諸県郡綾町大字南俣3005番地 -
川中神社(かわなかじんじゃ)
当社は都於郡の城主伊東三位入道義祐が勧請創建した。境内に金峯山中嶽西光寺跡があり阿弥陀堂一宇(木造、外廊付の頑丈な建築で床板など斧目そのままで使用し、室町時代末期の建築様式が残る)がある。川中キャンプ場の坂を上りつめたところに境内がある。
明治初年の廃仏毀釈の際、神殿内に隠されていた、阿弥陀如来像(高さ81㌢)の尊像(県文化財指定)が安置されており、明応八年(1499)室町時代の作であると思われる。西光寺は天正天皇の養老二年(718)開基と伝えられ、現在も住民の尊崇篤く、人々はこの阿弥陀堂まで総称して川中神社と呼び、川中神社宮司が奉仕している。例祭日には、山の神様には祝詞を奏上し、阿弥陀如来堂にては参拝者全員にて般若心経を七回唱えている。近年境内の美化整備がなされ、梅造園約八反歩、山桃園約五反歩、一ツ葉約千本、ツゲ約三百本、イチョウ約四百本が植えられ、四季を通じて楽しめる場として参拝者が増えている。
○川中神社阿弥陀堂宇
伝説によれば、川中様は養老二年(718)明久という者が開基したと伝えられている。
明久は猟師で山の猟を生業とし、長喜という猟師仲間がいた。二人は猟に出てある夜、野宿をしていた時、夢の中に一聖僧が現れて、「生ある者には、魂あり、その方どもは魂なる鳥獣を殺生すること永年に及び、その数まさに千頭に達しようとしている。その罪軽からず、直ちに殺生をやめ、仏の道に入り、阿弥陀仏、薬師仏の尊像を東、西の山に安置せよ。さすれば過去の罪業を免るべし。」と、教えて煙のように消えた。夢から覚めた二人には、一念発起して夢の中の教えを守り、仏道に帰依した。二人は、お互いに誓いを立て、明久は西の山川中嶽に阿弥陀仏を、長喜は東の山法華嶽に薬師仏を安置した。電話番号(0985)77-1693郵便番号880-1303住所東諸県郡綾町大字南俣5701番地 -
綾護国神社(あやごこくじんじゃ)
明治八年四月、前年の佐賀の乱に郷土より出征戦死した陸軍歩兵馬場小吉命慰霊のため、木造瓦葺の三坪余りの社殿を新築、招魂社と称したのが始まりである。以来日清、日露両後の戦死者を合祀、昭和十四年十月十一日に綾護国神社と改称、昭和十七年十二月二十一日現在地に新築遷座した。大東亜戦争の戦死者も合祀、現在三五一柱をお祀りしている。
社殿は台風のため被害を受けたので、昭和二十七年と昭和五十年の二回大修復を行っている。電話番号(0985)77-1874郵便番号880-1303住所東諸県郡綾町大字南俣古城2825番地 -
入野神社(いりのじんじゃ)
当社は、徳治元年九月の創建にして鬼森大明神と称した。伊藤氏所領時代は当社を祈願所として崇敬し、以後伊東家がこの社殿を掌って代々祭祀を行った。時を経て元亀三年(1572)五月日向の真幸飯野において、伊藤軍は島津と戦って敗崩する。島津家臣松田治部太夫は伊東加賀守を討ちとる。天正五年(1577)二月伊東遂に滅亡すると、島津家は日州を領し、武運長久のため祈願して奉る。松田治部太夫を戦功により日州入野鬼森権現祝子職となし、永田門四十五石を神領として寄進し神職に屋敷をたまわった。
明治三年入野神社と改称し、同五年八月村社に列せられた。さらに明治四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。
なお、当社神殿は昭和五十五年十月、綾町文化財に指定された。
入野神社の入野(イルノ)と倭建命の勝運を合わせ、○○学校に入学するのゴロ合わせで受験生の参拝が多いようです。電話番号(0985)31-6756郵便番号880-1301住所東諸県郡綾町大字入野1280番地ノイ