宮崎県の神社
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三石神社(みついしじんじゃ)
『本藩実録』巻三五によると「元禄八年(1695)」建立とある。
創立年代は不詳なれど口碑によれば、霊験極めてあらたかにて、町外の崇敬者多く、一に妙見様として信仰有り、此処より奥に、標高約600メートルの山頂に、奥之院が有り、その山腹から、凡そ18メートルの石(接点は幅約6メートル、先端約径50センチ)が水平に突出し、その長い石の上に、径10センチ内外の立木が十数本自生し在り、下方から仰視せば恰も男神の「シンボル」。天之御中主の大神とぞ。向っ右下に洞穴在りて、米良山中の龍房山に通じてありとか、秘境の地は実に此処なり。※平成27年3月現在立入が制限されています。
電話番号(0983)32-3727郵便番号884-0104住所宮崎県児湯郡木城町大字石河内1425番地 -
比木神社(ひきじんじゃ)
1800年前に創建された児湯地域の古社で楠の大木におおわれ、ちしゃの木(県の巨樹百選)などめずらしい樹木もある。又龍神絵の天井画も有名である。
「第十三代成務天皇の御宇、武内宿称を以て国県を分ち邑里を定むる時、比木方百町、郡司方百町の宗廟五社大明神を崇め奉る者也。」と『御社比木神社縁記』に記され、児湯地域の極めて古い創建の社であると推定される。又、特殊な神として百済の国の福智王を合祀している。天平勝宝八年(756)百済国内が大乱したため、父禎嘉王と共に安芸厳島に逃れた。二年後福智王一行は高鍋町蚊口浦古港に、父禎嘉王一行は日向市金ヶ浜に上陸、没後禎嘉王は神門神社(東郷町)に、福智王は妃と共に当社に合祀された。
高鍋藩主秋月家代々尊宗厚き神社であって、同社を秋月家の氏神として、又、新納鎮守で正観音を本地とする神として宗教制作の中心とし、歴代藩主よりの御寄進も多く、三代種信公の時には社領増加五十石、その後五十二石五斗になり、祭典には参拝代参がなされた、『本藩実録』には寛文九年(1669)社殿焼失、二年後改築、同十二年二代種春公より大神神輿寄進、元録二年(1689)四代種政公鳥居建立、同三年社殿改築、宝暦二年(1752)六代種美公一の大鳥居建立、安政四年(1857)社殿修復の記録が見える。
又、雨乞をはじめ藩内平安、病気平癒、五穀豊穣、厄祓等の祈願、報恩感謝の祭典を年に数回斎行された。
明治元年の神仏分離令により長照寺号が廃せられ、比木輪番所となり、同二年比木神社と改称、同五年郷社に列せられる。現在の社殿は明治十年により造営されたもので、渡殿の天井板七坪に藩の絵師季仲により神龍一対が描かれている。この絵師季仲が龍を描くにあたって、龍の化身の美女が現れて龍の姿を見せたという話も残っている。
当社には古来からの特殊神事が多く、御里に廻り、裸祭、神事、六社連合大神事、大年下り、神門御神幸祭、御鈴の口開け等がある。
「御里廻り」は十月二十八日、二十九日の両日高鍋、木城の三十ヶ所近い御旅所を神輿が御巡幸する祭で、祭神大己貴命が国土を巡幸し天下を治められた愛民治国の遺風を残すものといわれている。
「裸祭」は”裸ホイホイ詣り”ともいわれ、十一月十四日福智王の太子を祀った摂社若御子神社のお祭の夜、参拝者は自宅にて水で身を清め、フンドシ、腰巻姿で腰には〆縄を締め”ホイホイ”と声にして参拝し、身体健康、家内安全を祈願したと伝える。現在は小丸川で禊し、火除牟田の祠にオキリを運び、この神事を復活伝承しつつある。
「神事」と「六社連合大神事」は秋月藩公息女重病の折、当社に祈願したところ平癒せられたるを以て、報恩感謝のため終夜神楽を奉納したのが始まりで、後年祭として藩内の祈念攘災の御祭りとして六社連合大神事が行われる様になり、木城町比木神社、高鍋町八坂神社、川南町白鬚神社、平田神社、新富町三納代八幡神社、高鍋町愛宕神社で、毎年旧暦十二月二日に高鍋神楽三十三番が奉納されている。これは六社が順番に受持ち六年毎に当番となるもので、比木神社では特に新暦十二月五日に奉納される。
「神門御神幸祭」は、旧暦十二月十四日~二十三日の十日間(現在は三日間)、父神禎嘉王を祀る神門神社を訪ねる御神幸祭である。神門に行くのを「上りまし」帰るのを「下りまし」と言う。御神幸の供奉員は平年十八名(閏年は十九名)と定められている。御神幸は福智王の弟華智王を祀る伊佐賀神社で神門神社側と出会い、その後禎嘉王の御陵である塚原を「オー」の声で三度回り神門へ御到着、翌日御装束替え、大祭典、益見太郎塚、山宮社、御洗濯、御宮巡り、御稲穂受けの神事がある。別れの日は互いの顔に白粉を塗り合い、”オサラバー”と言い合い乍ら御還幸となる。
「御鈴の口開け祭」は、旧一月五日に御神楽初の祭と称し、祭典の後神楽五番が社殿で舞われる。電話番号(0983)32-2854郵便番号884-0102住所児湯郡木城町大字椎木1306番地イ号 -
川上神社(かわかみじんじゃ)新富町
勧請棟札に宝暦十三癸未年(1763)十一月二十五日とあるも由緒等不詳である。寛政元酉年(1789)社殿再興の棟札其の他数枚蔵す。古来、水神、河神社と称していたが、明治八年、川上神社と改称した。
電話番号(0983)33-1159郵便番号889-1404住所児湯郡新富町大字下富田3261番地 -
下富田神社(しもとんだじんじゃ)
古社なるも創建年代不詳なり。棟札によれば佐土原藩第八代藩主源御朝臣忠持公(藩主在任1785~1816)御武運長久御息災延命御子孫繁昌御家中御領内安全、祈願、社殿再興とあれども、鮮明を欠き再興年月日読み取る事能わず。御神徳、海上怒濤鎮撫の神と仰ぎ奉る。
島津藩主は殊に信仰厚く、祭典当日には献饌の儀ありたりと聞く。当時、神田二反歩を附し、祭祀の資に充てたりしも、農地改革により、王子地区民の所有に帰し以後之を権現田と名付けた地跡があったが、県営圃場整備富田干拓事業に依り、形跡を留めていない。
古来、当神社を王子権現と称していた。
此の地は昔、神武天皇の御幼少時代、遊行の御跡と伝えられ、その名があるという。
新富町王子の浜は、一ツ瀬川の河口に位置する太平洋岸の荒磯である。
『日向の伝説』によると、王子の浜は、波浪が高く、津波の押寄せることも度々で、そのたびごとに、家や人畜がさらわれ、田畑も洗われるので、人々は困りぬいていた。この上は、王子の浜崎に御鎮座の権現様におすがりする他はないと、浜が荒れ始めると、村の人たちは、社頭に集り、風波をお鎮めくださいと心をこめてお祈りした。海が大荒れに荒れ、山のような大波が押し寄せるある日、村人たちは、舟を陸に上げ、松の根元につなぎ、村人総出で権現さまに祈願をこめ続けていた。それでも風は吹きつのり、海は刻々に荒れ狂った。折から純白の鳥が、吹く風をものともせず、浜辺に舞い降りた。村人が怪しんで目を見張るうちに、その白い鳥は荒れ狂う海波を蹴って縦横無尽に翔け回った。すると海は油を流した春の海のように、瞬く間に静かになった。このことがあってから、王子の浜に津波が襲うことがなくなり、人々は権現様のご利益と称え奉った。この一羽の鳥こそ権現様の化身であったと伝えられている。電話番号(0983)33-1159郵便番号889-1404住所児湯郡新富町大字下富田455番地 -
淤賀美神社(おがみじんじゃ)
明治十一年ここを調査した平部嶠南の『日向地誌』によると、辨済使にあり、村社、高龗神、闇龗神二柱を祭る、例祭一月十一日とある。奈良丹生川上神社の祭神として知られ、龗は龍神で雨をつかさどる神であり、古来祈雨、止雨の両神として信仰されてきた。
電話番号(0983)33-3664郵便番号889-1402住所児湯郡新富町大字三納代2516番地 -
八幡神社(はちまんじんじゃ)新富町
当八幡神社の創建の年代、由来については、その記録、棟札等焼失し不詳なれど、『宇佐大鏡』に、富田庄八十町が宇佐神宮領に属する記事が有り、八幡神社が宇佐八幡宮の分神として現在の地に奉建されたのが、その創建であることがほぼ確認された。それによると、当時すでに宇佐神宮領であった臼杵郡県の庄(今の延岡地方)の領内封民を、いまだ荒野の地であった富田方面に移し、新開田させ宇佐神宮領と定めたもようである。
その開田当時のことが『宇佐大鏡』に次のように採録されている。
「富田庄起請田四十四町、国司海宿祢為隆任永承年中封民十五人之代荒野之地差四至進宮立券之間所開作也」とある。
宇佐神宮領として新開田する場合は、その地に宇佐神宮の神霊を移し奉祀して起請を立て開田に着手するを例としたのである。その開田に当る責任者、国司を別符(びゆ)者と称し、海宿祢為隆がその時の別符者に任じられ、為隆により宇佐神宮の分神が奉持され、即ち、宮を進め現在の八幡神社(元八幡宮)として奉祭されたのが始りであると推考される。
当社で六年目毎に執り行う、特別大神事祭典は、旧高鍋藩秋月氏が筑前秋月より、財部(延宝四年高鍋と改む)に転封され、その後七代の種茂が封を継いだ。種茂の治世に藩内荒凶相重なり、そのうえ悪疫が流行したために、士、庶民共に困窮した。これを憂えた藩主は藩社、比木、八幡以下六社に自ら巡拝し、五穀豊穣、悪疫退散、藩民安泰の祈願神事を執行した。以来、六社が輪番制にて、旧暦十二月二日夜を徹して、夜神楽を奉納する神事は今日につづいている。電話番号(0983)33-3664郵便番号889-1402住所児湯郡新富町大字三納代2443番地ノ1 -
熊野神社(くまのじんじゃ)新富町
不詳
電話番号(0983)33-3664郵便番号889-1402住所宮崎県児湯郡新富町大字三納代2309-1 -
厳島神社(いつくしまじんじゃ)新富町
由緒不詳。旧称厳嶋大明神といい、正観音を本地とすると『高鍋藩寺社帳』にある。また『寺社帳』には「縁起無之故勧請之年月日不明 祭祀之次第六月廿九日 名越 九月九日 十一月初午日」とある。明治四年村社に列格、現在に至る。
電話番号(0983)33-3664郵便番号889-1402住所宮崎県児湯郡新富町大字三納代278-1 -
紀伊神社(きいじんじゃ)
古老の伝説によれば、文明の頃(1469~87)又は明応の頃(1492~1501)、富田村鬼付女の浜に一つの木面漂着したのを、日置の人持ち帰って勧請したのが当社であると伝えるが、詳細は不明。天正十五年(1588)筑前国秋月公日向へ御国替の当時より崇敬の神社にして、藩公の一族たる宇都宮弥三郎を神官に任じ、「神主兼宮司使嫡男代々可相勤之旨被付仰」との墨付により、今に至るまで其の子孫がこれを奉仕している。現在の社殿は、享保二年(1718)八月藩主の寄進にかかるものである。現在の拝殿は、昭和十一年三月に改築されたものである。
電話番号(0983)33-3452郵便番号889-1401住所児湯郡新富町大字日置2947番地 -
水沼神社(みずぬまじんじゃ)
天正十五年(1588)秋月公が筑前国甘木から日向国高鍋に封ぜられた際、藩公の一族であった宇都宮弥三郎朝繁を神官に任じ、「神主兼宮司使嫡男代々可相勤之旨被付仰」との墨付により、今日に至るまで宇都宮家の子孫が継承して奉仕を続けて来た。
神社所有の湖水ヶ池は面積六町余の広さがあり、夏になると蓮の白花が池一面に見事に咲盛り馥郁たる香を漂わせて、参拝者の心を和ませている。現在は新富町の湖水ヶ池公園に指定されている。この池の蓮は、秋月公が国替の際に、その苗を取り寄せて住民の殖産興業を慮られ、この池に移植されたと伝えられている。又蓮根は他所より特に味が良く、節も長く柔らかで、大変賞味されている。
秋の大祭には当神社でも臼太鼓踊、嫁奴踊、棒踊等が氏子民により奉納されていたが、大東亜戦争中に中止されてから今日未だ復興されていない。
当神社の「湖水ヶ池」には『富田村治要綱』によると、次のような伝説がある。
昔神社の後方には、周囲十八町の南北に長い池があった。その岸には松が生い茂り、松林の中は、じめじめとして、昼も薄気味が悪かった。近くに、太郎兵衛という農民が、妻をなくし、娘と暮らしていた。家は貧しくても美しい娘だったので、末を頼みに日を送っていた。或る日、突然娘が見えなくなった。この池に落ちて死んだのだ。老父は驚き哀しみ、娘を探したが、姿はどこにも見えない。泣きながら娘の名を呼び続けると、静かな水が動き、髪の乱れた娘が浮かんだという。驚く間もなく、娘の体は水底に沈んだ。老父が前に増して悲しみ、娘の名を呼ぶと、再び水が動き、現れたのは大蛇であった。池の主が娘を取ったと考えたか、老父は「今日より我が子を見ず」と嘆いた。この言葉から「子見ずの池」と呼ぶようになり、それが訛って「湖水ヶ池」となったのだという。電話番号(0983)33-3452郵便番号889-1401住所児湯郡新富町大字日置679番地 -
日置神社(ひおきじんじゃ)
由緒不詳。『日向地誌』には「村社上日置ニアリ社地広十二歩 邇々岐命祭ル 例祭大陰暦九月二十日ナリシカ明治六年以来ハ一定セス」とある。
電話番号(0983)33-3452郵便番号889-1401住所児湯郡新富町大字日置3442番地 -
大淵神社(おおぶちじんじゃ)
古老の伝説によれば本社は古き社なるも創建の年月は詳ならず。当社は元松本氏の先祖某厚く尊崇して現在の処に移し奉った。
社殿両側に凡そ四、五百年経たという松の大樹があり、是は創建の際に植奉りたるものと伝えられている。
このため創建は天正年間(1570)以前とみられていたが、此の松の大樹は昭和二十年の台風の為に倒れた。
当神社の事を大将軍様といって土地の人々は敬い牛馬の神として、大東亜戦争頃では、参拝者も多く、西都市方面からも、旧5月25日、旧9月25日には参拝する人が多かった。
参拝した人は、境内の竹の枝葉を戴いて持ち帰り、牛馬に食べさせ、神の加護を仰いだ。電話番号(0983)33-3747郵便番号889-1403住所児湯郡新富町大字上富田2238番地