宮崎県の神社
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石神社(いしじんじゃ)
『寺社帳』に「石大明神、本地観音。正治二年(1200)十一月二十八日安部氏宗正、氏神ニ建立之由縁起ハ天正年中薩摩家伊東家石河内ニ而合戦之節紛失候故不明。」とあり、本社旧神職長友氏系図には、天文元年(1736)より代々長友家が詞官として奉仕していたことが記されている。
電話番号(0983)32-3727郵便番号884-0104住所宮崎県児湯郡木城町大字石河内438番地 -
國玉神社(くにたまじんじゃ)
創建の年次は不詳であるが、高鍋藩の「拾遺本藩実録」によると正徳三年一月十九日、善内町からの火災により国玉社・薬師堂を含む四十戸を焼失し、高鍋藩前藩主秋月種政から焼失者一戸に付き白銀一枚宛が支給され、国玉社・薬師堂も再興されたという。貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によると、比木大明神御幣下に国玉大明神があり、本地は十一面観音としている。由来については『日向国神社纂記』などによると、天正年間、大友宗麟が島津義久との戦いで、国玉、月の輪などに陣を張った際、大友の軍師角隈石宗を藩州側の本江忠左衛門が討取ったという。軍師としての石宗を知っていた禎久が、彼のために社を建て、其下に石宗の首を埋めたといわれる。『日向地誌』によると大国玉神を祀るとなっている。
神社にある最も古い棟札は正徳三年(1713)で、慶応四年(1868)神殿造作、明治二十五年(1892)神殿新築、明治三十四年(1901)屋根の銅板葺替、終戦の年には二回の空前の強い台風によって神殿被害、昭和二十一年(1946)神殿が修築された。
さらに昭和四十六年(1971)の台風で境内の大木が倒れ、神殿破損、同年修築。明治二十五年以来数回の修築はあったが百数年経過した神殿も平成五年(1993)に台風で国玉神社並びに疫神社とも倒壊したので、地区住民が協議し平成六年十二月に神殿が新築された。電話番号(0983)32-2136郵便番号884-0101住所宮崎県児湯郡木城町大字高城1155-1 -
八坂神社(やさかじんじゃ)木城町
『比木寺社帳』に、「四日市村」に祇園宮有り本地無之、勧請年月不相知、宮弐間に弐間半萱葺小社、其内ニ有并住吉、八幡、春日社有り。」とある。
電話番号(0983)32-2136郵便番号884-0102住所児湯郡木城町大字椎木4267番地 -
塚原神社(つかはらじんじゃ)
いつの時代の創祀か不明で、明治十一年ここを調査した平部嶠南の『日向地誌』も、村社、仁喜美谷にあり、祭神詳ならずとしている。塚原神社の西の高台が南に広がり、陽あたりの良い畑地となっている。ここを山塚原といい、この山塚原古墳と椎木、川原などの古墳とともに、昭和十四年木城古墳として県史蹟に指定された。山塚原には古墳21基が現存している。ここを土地の古老達は「オンジョ古場」とよぶ。姥捨山であったようだ。この原の南側に「ません馬場」といわれる幅約10メートル、長さ東西に約250メートル程の畦畔に囲まれたところがある。古墳の一部を削って造成された馬場の跡(現在畑地)がある。これが長禄元年(1457)都於郡城主伊藤祐堯が高城を陥したあと、設置した馬場だと云われている。この付近に塚原神社はあったといわれているが、現在の境内地の近くの「天神の森」といわれるところに移され、その後虚空蔵菩薩の境内地に合祀されている。此の境内には、樹齢三百年を越すと推定される椿が現存する。
電話番号(0983)32-2136郵便番号884-0101住所児湯郡木城町大字高城4513番地 -
多賀神社(たがじんじゃ)木城町
多賀神社は比木神社の末社といわれている。なお、田崎坂を上りつめた所から西の方100メートルの所に、御多賀社跡があり、多賀神社の奥の院といわれていた社があった。神木のタブの木が大きくそびえている。社殿は岩淵公民館の奥にある。
電話番号(0983)32-2136郵便番号884-0102住所宮崎県児湯郡木城町大字椎木1827番地 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)木城町高城
筑前太宰府天満宮のご分霊を奉祀したものと伝える。棟札によれば、明治二十九年再興されている。昭和五十七年三月、菅原神社拝殿兼用の公民研修館が建設され、現在に至る。
電話番号(0983)32-3727郵便番号884-0101住所児湯郡木城町大字高城1872番地 -
日子神社(ひこじんじゃ)
ご祭神彦火火出見命は、天孫瓊瓊杵命の御子で、尾鈴山系上面木山の御茶園という所、東に鵜戸の浜を眺望し、西に瓊瓊杵命の古墳と一一線に並ぶ、標高五百㍍の山腹に祀られてあったが、秋月藩主の信仰甚だ厚く、昭和八年(1771)九月吉日現在地に奉祀され、時の藩主大蔵朝臣種茂公が石造の本殿(四尺四方)を建設、其の下段に寺院を建て、社僧をして祀らせたが、廃藩後寺院は廃寺となる。現在地には寺院跡地および古井戸等くさむらに隠れている。明治二十八年十一月十六日拝殿を建築、その後二回ほど修繕して現在地に至っている。
終戦までは遠近を問わず出漁した船人は、この日子神社の大松の森を目標として、帰港の際は勿論であるが、操漁中でも松の森にたまたま霞でもかかると、急遽帰して難を避けたといわれ、航海安全、武運長久の神として信仰がある。又、神社の下方に岩戸川が流れ、岩窟があり、そばに毘沙門天を祀っている。貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によれば、十一面観音を本地とする彦権現となっており、『日向地誌』には岩戸の西北隅に日子神社、瓊瓊杵尊を祀るとある。電話番号(0983)32-3727郵便番号884-0101住所児湯郡木城町大字高城2729番地 -
水分神社(みくまりじんじゃ)木城町
当社の由緒は不詳であるが、もと竜宮神社と称したと伝える。天明二年(1782)四月二十日旱ばつにより、当社に雨乞の祈願をしたことが記録に見えることから、それ以前の創建と思われる。
『日向地誌』によると、村社、高城墟の西にあり、高淤加美神を祀るとある。タカオカミノカミは高龗神とも書き、伊邪那岐命が十拳剣で加具土神の頸を斬られたときになりませる神で、古来、闇高龗とともに祈雨、止雨の神として信仰されて来た。龗は龍神で雨を掌る神である。電話番号(0983)32-3015郵便番号884-0101住所児湯郡木城町大字高城3558番地 -
川原神社(かわはらじんじゃ)
『日向地誌』によると「川原神社」村社、高城川の東岸にあり、社地広大六畝大山祇命を祀る。旧称山神大権現という。明治四年辛未、今の名に改むとある。神社と直接の関係はないが、小丸川中流に位置する川原自然公園は、武者小路実篤の「人間万歳」の文学碑のある白木八重牧場とともに昭和五十四年尾鈴県立公園に追加指定された。
電話番号(0983)32-3015郵便番号884-0103住所児湯郡木城町大字川原747番地 -
伊勢神社(いせじんじゃ)木城町
『拾遺本藩実録』には、「享保八年(1723)癸卯四月十六日伊勢大神宮を比木社近辺に御勧請、神体御鏡二面、御腰物と代金二枚奉納、同年九月六日比木の神明御祭り御神楽初めて奉納差上げ、御宮は未だ出来不申候共、御崇敬被置に付、同年十二月二十九日明正月元日、比木、八幡、天神、白山、愛宕、宮田、祇園、神明(伊勢神社)以上八社の御代参は物頭闘に被仰付、同九年十一月神明宮御勧請に付縁起は鉄塔和尚へ被仰付出来今日宝殿へ相納併大小御神納也、大は加賀行光の札あり、無銘殿様より小は相州住人広正、正昭院様より何れも棒鞘に、小道具は入箱納め、同二十年六月二十八日愛宕比木神社へ御参詣御初穂諸社通り。」とある。『日向地誌』には、「伊勢神社、村社比木神社の側にあり社地一反七畝十八歩天照大神を祭る明治七年甲戌比木神社近傍にある大元神社、山宮神社、中山神社、愛宕神社、高龗(淤加美)神社を遷座して本社に付祭す」とある。
昭和五十一年社地の大半を児童公園として造成した。神殿は旧木城小学校の奉安殿を終戦後払下げて移転したものである。電話番号(0983)32-3015郵便番号884-0102住所児湯郡木城町大字椎木1305番地 -
菅原神社(すがわらじんじゃ)木城町椎木
建立の年月不詳。古老の伝承によれば、天正年間以前に鎮座と伝える。比木神社お里巡幸の第二日目お立寄り、当夜一泊、夜祭りは賑わいを呈したという。
電話番号(0983)32-2136郵便番号884-0102住所児湯郡木城町大字椎木5853番地 -
愛宕神社(あたごじんじゃ)木城町
昔よりこの中椎木地区には、愛宕神社、菅原神社があったが、明治四十三年に菅原神社が比木神社に合祀されたので、愛宕神社一社を産土神としてお祀りしている。終戦後数年までは社殿も大きく、夏祭の他例祭には神楽が奉納されていたが、現在は祭典のみで神楽はない。比木神社のお里まわり御神幸、大年下り御神幸の旅所としての神社でもある。
明治四年村社に列格、現在に至る。電話番号(0983)32-3727郵便番号884-0102住所児湯郡木城町大字椎木3988番地