宮崎県の神社
南方神社(みなみかたじんじゃ)西都市
一ツ瀬川下流右岸島内に鎮座する。地内杉安から上流の一ツ瀬川を杉安峡といい、川の規模や山の高さ、深さが京都の嵐山に似ることから、「日向の嵐山」とよばれ、景勝地として知られる。
当社の創立年代は詳らかではないが、旧称若宮大明神といい、棟札最古のものに弘安九年(1286)九月のものがあり、その由来の古いことが推察される。
特に旧記の存するもはないが、わずかに口碑の残っているものによれば、伊東氏は本社を厚く尊信して、三宅十八社穂北十八社の第一社とし、供田を寄進している。弘安四年(1281)蒙古襲来の際、上下ひとしく国運憂慮して皇国の勝運を神に祈願していた。時に当社は神験の顕著なることより、村人神威を感じ入り、弘安九年(1286)丙戌九月社殿を再建し、その神徳を顕揚させたと伝えている。所蔵の棟札によればその後も度々造営再興が行われ、文禄二年(1593)十二月には高橋九郎殿元種により、享保六年(1721)三月には領主牧野氏より再興され、歴代領主領民の厚く尊崇した社であった。明治四年南方神社と改称し、同四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。
当社は明治初年まで上穂北大字南方の良須山に鎮座し、南方穂北二村の産土神として村民の尊崇厚く、祭祀は近郷に例を見ないほど賑やかであった。しかし一ツ瀬川を挟んでいるため村人参拝にも不便であり、また出水等で祭にも差しつかえがあるため、明治七年氏子と合意の上現在地に鎮座したものである。
神殿には古来より奉安する神面がある。これは神殿造営にあたり、白髪童顔の老翁何処からか来て神面を刻む事数日余。神面は出来あがり、これを神殿に献じて再びその姿を顕さなかった。人々は伝えて彼を手名槌命足名槌命と言い、また「キンナラ様」とも称する。旧六月十五日祭事を行い、官人この面を戴き舞を奉仕する。この時振舞が烈しければその年暴風雨があると言い、また緩和であれば風雨順調にして五穀豊穣であると言い伝えられる。
手名槌命(てなづちのみこと)
足名槌命(あしなづちのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
豊玉姫命(とよためひめのみこと)